バークは想像力について次のように書いている。
「しかし想像力の場合には我々は、自然的対象の属性から生ずる快苦以外にも、模写が原物と似ていることから知覚される快をも経験しうる。私見によれば想像力が感じうる快で、この二つの原因のどちらか一方から結果する以外の物は存在しない。そしてこれらの原因は自然の諸原理に従って作用して決して特定の慣習もしくは利点にもとづいて引き出されるのではない故に、万人に対してほとんど斉一的に作用するわけである」
ここで我々は重要なことに気づかなければならない。想像力が知覚する快と苦に関する記述の部分である。バークは「模写が原物と似ていることから知覚される快」と書いている。この言葉について注意深く考察するならば、これは絵画や彫刻などの美術における現実の模写についての言及であって、それ以外ではないことが分かる。
バークはここで五感のうち、視覚のみを論の対象としている。味覚や嗅覚、触覚にあっては現実の模写などあり得ないからである。かろうじて聴覚に関してそれはあるかも知れないが、現実の音を忠実に再現するだけで“快”が得られるとは思えない。また文学作品における模写というものも考えられるが、言語は五感にのみ関わるものではないし、言語の模写する対象が“原物”であることなど考えることもできない。
実はバークは『崇高と美の観念の起原』の最後に言語に関わる問題を取り上げ、「詩歌は厳密には模倣芸術ではない」と言っている。このバークの言葉は極めて重要なものと思うが、この問題は後ほど取り上げることにする。ここは絵画についての議論に戻ることにしよう。
確かにリアリズム絵画や彫刻にあっては、風景や人物が現実そのものであるかのように模写・再現されていることに我々は“快”を感じるのであろう。そのことは認めるが、では抽象絵画に対してはどうなのか? この疑問はバークの論が普遍的なものでは必ずしもないということを明らかにする。
確かにバークの時代には抽象絵画というものは存在しなかった。現実の風景や人物または歴史的な事績を現実のように描くことしかありえなかった美術の時代であった。いわゆる“ミメーシス”の芸術概念が強固に健在であった時代におけるバークの発言であったのである。だからバークの限界ということはいつでも考慮に入れておく必要がある。
「しかし想像力の場合には我々は、自然的対象の属性から生ずる快苦以外にも、模写が原物と似ていることから知覚される快をも経験しうる。私見によれば想像力が感じうる快で、この二つの原因のどちらか一方から結果する以外の物は存在しない。そしてこれらの原因は自然の諸原理に従って作用して決して特定の慣習もしくは利点にもとづいて引き出されるのではない故に、万人に対してほとんど斉一的に作用するわけである」
ここで我々は重要なことに気づかなければならない。想像力が知覚する快と苦に関する記述の部分である。バークは「模写が原物と似ていることから知覚される快」と書いている。この言葉について注意深く考察するならば、これは絵画や彫刻などの美術における現実の模写についての言及であって、それ以外ではないことが分かる。
バークはここで五感のうち、視覚のみを論の対象としている。味覚や嗅覚、触覚にあっては現実の模写などあり得ないからである。かろうじて聴覚に関してそれはあるかも知れないが、現実の音を忠実に再現するだけで“快”が得られるとは思えない。また文学作品における模写というものも考えられるが、言語は五感にのみ関わるものではないし、言語の模写する対象が“原物”であることなど考えることもできない。
実はバークは『崇高と美の観念の起原』の最後に言語に関わる問題を取り上げ、「詩歌は厳密には模倣芸術ではない」と言っている。このバークの言葉は極めて重要なものと思うが、この問題は後ほど取り上げることにする。ここは絵画についての議論に戻ることにしよう。
確かにリアリズム絵画や彫刻にあっては、風景や人物が現実そのものであるかのように模写・再現されていることに我々は“快”を感じるのであろう。そのことは認めるが、では抽象絵画に対してはどうなのか? この疑問はバークの論が普遍的なものでは必ずしもないということを明らかにする。
確かにバークの時代には抽象絵画というものは存在しなかった。現実の風景や人物または歴史的な事績を現実のように描くことしかありえなかった美術の時代であった。いわゆる“ミメーシス”の芸術概念が強固に健在であった時代におけるバークの発言であったのである。だからバークの限界ということはいつでも考慮に入れておく必要がある。