玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(12)

2015年05月17日 | ゴシック論
 だからバークがゴシック小説誕生以前に活躍していたとしたら、かれはゴシック小説を好まなかっただろうことが想像できる。バークのような端正な知性にとって、ゴシック小説は耐え難いものとなったかも知れない。
 グロテスクなものを含まないゴシック小説というものはほとんど考えられない。ウォルポールも、ルイスも、ホフマンも、シェリーも、マチューリンでさえ彼らの作品にグロテスクなものを充填している。
 ホフマンのグロテスクな想像力には他を圧倒するものがあるし、シェリーもまたグロテスクな怪物を創造した。グロテスクな形象だけではなく、ルイスの『マンク』にはグロテスクな欲望が描かれているし、『マンク』の影響を受けて書かれた『悪魔の霊酒』においても同様である。
 マチューリンの『放浪者メルモス』では、グロテスクな愛とグロテスクな意志が全編を覆い尽くしているし、ホッグの『悪の誘惑』にはグロテスクな狂信が描かれている。
 バークは第一編の「9.自己維持に属する情念と両性の社会的交渉に関する情念の差異の根本的原因」で、人間の性的欲望が快としての美に関わるものではないとし、性欲の重要性を否定しているのだから、間違ってもルイスやホフマンの作品にみられる“獣的な欲望”の表現を認めることはないだろうし、それを自身の美学に含めることもなかっただろう。
 さて、前回“曖昧さ”に対するバークの評価に触れたが、絵画と違ってそのような“曖昧さ”を達成することができるのは言語表現である。バークは次のように言っている。
「私が与えうる最も生き生きして溌剌たる言語描写は、この種の対象についての極めて曖昧で不完全な観念しか生み出しえないが、しかしその場合私はこの描写にもとづいて、最善の絵によるよりも更に一層強力な情緒を心中に呼び起こすことができる」
“曖昧さ”はバークにとって否定的概念ではない。バークは“曖昧さ”を“崇高”の一要因とさえしているのであり、言語表現はその“曖昧さ”において強力である。このようにバークにとって言語表現こそが完全な伝達の手段なのであり、他の表現はどれも欠陥を持ったものだというのである。
 では言語表現としてのゴシック小説はどうであったかと言うならば、いずれも隠されてあるべき幽霊や欲望をあからさまにするのであり、バークの言う“曖昧さ”の境地に止まろうとはしない。
 バークが嫌った聖アントニウスの誘惑の絵と同様に、ゴシック小説は「自分の想像力に思い浮かべられる限りの無数の恐ろしい妖怪を集めようという意気込みを示し」ているからである。
 ゴシック小説にはそれ故、必ず滑稽の領域にまで近づいてしまう“俗悪さ”がつきまとうのであり、バークの言う“崇高”には至りえないものと言わなければならない。したがって私は、ゴシック小説をバークの“崇高の美学”と過剰に関連づけようとは思わないのである。