『悪魔の霊酒』が『マンク』と同じように、修道士が若く美しい女性に禁じられた欲望を差し向けることに発する物語であるとすれば、“自己の中にあって自分で制御できないもの”とは、その欲望に与えられた名前でなければならない。
俗世間にあってはそれは禁じられてはいないが、修道院にあってはそれは当然禁じられているのであって、禁じられているからこそそれは制御できないものとなる。“聖アントニウスの誘惑”とは禁じられた欲望の代名詞なのである。
また、ゴシック的空間とはその閉鎖的な空間性(“閉ざされた庭”とも呼ばれていた)によって欲望を閉じこめる場であると同時に、それを制御できないものに増幅させていく場でもある。そのような場所から当然のように悪魔は生まれ出てくるのである。
メダルドゥスが分身に対して「おまえなんかわたしじゃない。お前は悪魔じゃないか」と叫ぶのは、“自己の中にあって自分で制御できない欲望”が“わたしのものではない”ということ、それは“悪魔のものだ”と言うことを言いたいがための抗弁なのである。
ヨーロッパの宗教的世界観が打ち立ててきた「霊肉二元論」と言われるもの、それこそが“分身”というものの起源にあるのだということがここで言いうるものとなる。“悪魔”という存在の起源についてもまた同様なことが言えるだろう。
“霊”を支配するものは神であり、“肉”を支配するものは悪魔である。さらには霊は“肉の牢獄”に閉じこめられていて、自己の中で解放を待っている何かなのであるという考え方、そうしたヨーロッパ的思考が“分身”を生む土壌を形成している。
だからゴシック的世界は「霊肉二元論」の世界を極端なまでに推し進めた世界であるということも言える。それが今日まで命脈を保っているのだとすれば、“自己の中にあって自分では制御できないもの”が、今日でも我々の中でうごめいているからに他ならない。
(この項おわり)
俗世間にあってはそれは禁じられてはいないが、修道院にあってはそれは当然禁じられているのであって、禁じられているからこそそれは制御できないものとなる。“聖アントニウスの誘惑”とは禁じられた欲望の代名詞なのである。
また、ゴシック的空間とはその閉鎖的な空間性(“閉ざされた庭”とも呼ばれていた)によって欲望を閉じこめる場であると同時に、それを制御できないものに増幅させていく場でもある。そのような場所から当然のように悪魔は生まれ出てくるのである。
メダルドゥスが分身に対して「おまえなんかわたしじゃない。お前は悪魔じゃないか」と叫ぶのは、“自己の中にあって自分で制御できない欲望”が“わたしのものではない”ということ、それは“悪魔のものだ”と言うことを言いたいがための抗弁なのである。
ヨーロッパの宗教的世界観が打ち立ててきた「霊肉二元論」と言われるもの、それこそが“分身”というものの起源にあるのだということがここで言いうるものとなる。“悪魔”という存在の起源についてもまた同様なことが言えるだろう。
“霊”を支配するものは神であり、“肉”を支配するものは悪魔である。さらには霊は“肉の牢獄”に閉じこめられていて、自己の中で解放を待っている何かなのであるという考え方、そうしたヨーロッパ的思考が“分身”を生む土壌を形成している。
だからゴシック的世界は「霊肉二元論」の世界を極端なまでに推し進めた世界であるということも言える。それが今日まで命脈を保っているのだとすれば、“自己の中にあって自分では制御できないもの”が、今日でも我々の中でうごめいているからに他ならない。
(この項おわり)