玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

E・T・A・ホフマン『悪魔の霊酒』(10)

2015年05月06日 | ゴシック論
『悪魔の霊酒』が『マンク』と同じように、修道士が若く美しい女性に禁じられた欲望を差し向けることに発する物語であるとすれば、“自己の中にあって自分で制御できないもの”とは、その欲望に与えられた名前でなければならない。
 俗世間にあってはそれは禁じられてはいないが、修道院にあってはそれは当然禁じられているのであって、禁じられているからこそそれは制御できないものとなる。“聖アントニウスの誘惑”とは禁じられた欲望の代名詞なのである。
 また、ゴシック的空間とはその閉鎖的な空間性(“閉ざされた庭”とも呼ばれていた)によって欲望を閉じこめる場であると同時に、それを制御できないものに増幅させていく場でもある。そのような場所から当然のように悪魔は生まれ出てくるのである。
 メダルドゥスが分身に対して「おまえなんかわたしじゃない。お前は悪魔じゃないか」と叫ぶのは、“自己の中にあって自分で制御できない欲望”が“わたしのものではない”ということ、それは“悪魔のものだ”と言うことを言いたいがための抗弁なのである。
 ヨーロッパの宗教的世界観が打ち立ててきた「霊肉二元論」と言われるもの、それこそが“分身”というものの起源にあるのだということがここで言いうるものとなる。“悪魔”という存在の起源についてもまた同様なことが言えるだろう。
“霊”を支配するものは神であり、“肉”を支配するものは悪魔である。さらには霊は“肉の牢獄”に閉じこめられていて、自己の中で解放を待っている何かなのであるという考え方、そうしたヨーロッパ的思考が“分身”を生む土壌を形成している。
 だからゴシック的世界は「霊肉二元論」の世界を極端なまでに推し進めた世界であるということも言える。それが今日まで命脈を保っているのだとすれば、“自己の中にあって自分では制御できないもの”が、今日でも我々の中でうごめいているからに他ならない。
(この項おわり)
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E・T・A・ホフマン『悪魔の霊酒』(9)

2015年05月06日 | ゴシック論
『悪魔の霊酒』という作品の中で最も成功している部分は、間違いなく分身の出現に関わる部分だと思う。最初の出現は“声”だけのそれである。谷底に落ちたヴィクトリーンと間違えられてメダルドゥスが答える場面。
「「そいつなら、さっき谷底に放り投げてしまった」
と、私の内部から虚ろで鈍い声を出して答えるものがあった。という言い方をするのも、そのときこの言葉を発したのはわたしではなかったからで、その言葉は意志にはかかわりなく唇から逸走したのだ、としか言いようがない」
 メダルドゥスにとって分身は自身の内部の声として最初に認識される。ヨーロッパ的世界にあって、分身はほとんどこのように自己の分裂という形で訪れる。自身の中にあって自分では制御できないもの、それこそが分身の萌芽である。
 日本にも少ないとはいえ分身譚がないわけではない。たとえば泉鏡花の『春昼』『春昼後刻』という作品では、観音堂の客人が夜、祭り囃子に誘われて裏山に出ると、自分の分身が恋する玉脇みをの背中に○△□を描くのを見る場面がクライマックスとなるが、この分身は禁じられた欲望を仮託された存在であって、自己の分裂に起因する分身ではない。
 だからこの作品で客人は分身と直接対面することはない。しかし、ヨーロッパの幻想文学世界では、分身との決定的対面が分身譚の恐怖を惹起する主要な要因となる。ポオの『ウィリアム・ウィルソン』もそうだし、ホッグの『悪の誘惑』もそうである。自己分裂がなければ分身との対面はあり得ないわけだし、対面がなければ分身譚そのものの強度が失われてしまう。
 ホフマンの『悪魔の霊酒』でも対面が何度も繰り返される。その描き方がホフマンの場合とくに生々しく、臨場感があると言えるだろう。メダルドゥスが悪夢の中で分身と対面する場面。
「そのとき、ドアが開いて暗い姿がひとつ忍び込んできた。驚いたことに、見ればそれは、わたしじしんではないか」
 そいてメダルドゥスは分身に向かって叫ぶ。
「『おまえなんかわたしじゃない。おまえは悪魔じゃないか』
と、わたしは金切り声をあげ、猛獣が蹴爪で襲うみたいに、脅かそうとする幽霊の顔面に掴みかかった。ところが、わたしの指はその両眼をえぐったのだが、まるで深い洞穴につっこんだような手応えしか感じられず、姿はつんざくような声であらためて笑い出すばかりであった」

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