同様な病気にかかっていたのが『悪魔の霊酒』におけるメダルドゥスであっただろう。彼は分身と“互いちがいにものを考えていたから”自分が行ったことが本当に自分が行ったことなのかどうか分からなくなるのである。
意識をすら共有する分身の究極の姿をホフマンは“慢性二元論”と呼んでいるのである。このような分身あり方を創造したのは数ある分身小説を書いた多くの作家の中でも、ホフマンただ一人と言っていいだろう。
ところでホフマンのイリュージョンは読者にまで波及する。呼んでいる我々自身がどちらがジルリオでどちらがコルネリアなのか、あるいはどちらがブラムビルラ王女でどちらがジアチンタであるのか判然としなくなるように仕掛けられている。
カロの描く二人の道化師の決闘場面のように、両者が入り乱れているうちに、どちらがどちらなのか分からなくなってしまう。この作品をホフマン自身が“狂想曲”と呼んでいる所以である。
ウルダル国に水晶のプリズムから流れ出て透明に輝く湖があり、この水面の鏡はホフマンの言う“フモール”(ドイツ語でHumor、英語でhumour)の象徴であるとされる。この水面の鏡が最後は分身を雲散霧消させることになるのだ。
コルネリオ・キアッペリ王子とブラムビルラ王女が二人で湖水をのぞき込む時「はじめてふたりは互いに自分自身を識りそめる」のである。そればかりでなく、この二人はあろうことかジルリオとジアチンタに一体化するのである。ジルリオとジアチンタこそが「あのすばらしい澄んだウルダルの湖水をのぞきこんで、自分のことを識っ」たというのである。
分身を解消するのは“フモール”そのものである。だからウルダル庭園国の物語の中で、魔法使いヘルモートは次のように述べるのである。
「思想が直観をぶちこわすのだ。そして、人間は母なるものの胸からもぎはなされ、迷いの妄想にとりつかれ、なにひとつほんとうに感じとることもできず、故郷をうしなってさまよっているものだが、やがていつかは、思想独自の映像が思想みずからに思想は存在する、思想は母なる女王が開けてみせてくれる深くて豊かな穴の中で支配者として号令するものだ、という認識を与えることになるが、思想はやはり家来として服従するものでなければならぬぞ」
意識をすら共有する分身の究極の姿をホフマンは“慢性二元論”と呼んでいるのである。このような分身あり方を創造したのは数ある分身小説を書いた多くの作家の中でも、ホフマンただ一人と言っていいだろう。
ところでホフマンのイリュージョンは読者にまで波及する。呼んでいる我々自身がどちらがジルリオでどちらがコルネリアなのか、あるいはどちらがブラムビルラ王女でどちらがジアチンタであるのか判然としなくなるように仕掛けられている。
カロの描く二人の道化師の決闘場面のように、両者が入り乱れているうちに、どちらがどちらなのか分からなくなってしまう。この作品をホフマン自身が“狂想曲”と呼んでいる所以である。
ウルダル国に水晶のプリズムから流れ出て透明に輝く湖があり、この水面の鏡はホフマンの言う“フモール”(ドイツ語でHumor、英語でhumour)の象徴であるとされる。この水面の鏡が最後は分身を雲散霧消させることになるのだ。
コルネリオ・キアッペリ王子とブラムビルラ王女が二人で湖水をのぞき込む時「はじめてふたりは互いに自分自身を識りそめる」のである。そればかりでなく、この二人はあろうことかジルリオとジアチンタに一体化するのである。ジルリオとジアチンタこそが「あのすばらしい澄んだウルダルの湖水をのぞきこんで、自分のことを識っ」たというのである。
分身を解消するのは“フモール”そのものである。だからウルダル庭園国の物語の中で、魔法使いヘルモートは次のように述べるのである。
「思想が直観をぶちこわすのだ。そして、人間は母なるものの胸からもぎはなされ、迷いの妄想にとりつかれ、なにひとつほんとうに感じとることもできず、故郷をうしなってさまよっているものだが、やがていつかは、思想独自の映像が思想みずからに思想は存在する、思想は母なる女王が開けてみせてくれる深くて豊かな穴の中で支配者として号令するものだ、という認識を与えることになるが、思想はやはり家来として服従するものでなければならぬぞ」