玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(11)

2015年05月16日 | ゴシック論
 ところでバークは第二編「4.情念に関してみた限りでの明晰さと曖昧さの差異について」で、地獄を描いた絵や聖アントニウスの誘惑をテーマにした絵について触れている。地獄の絵についてバークは次のように言っている。
「画家がこれらの極めて空想的で恐ろしい観念の明晰な表現を生み出そうと試みた時、彼らはほとんど例外なく失敗したに違いないと私は考える。事実私はこれまで地獄を描いた絵を見るごとに、果たして画家は何か滑稽な作品を企てたのではないかという怪訝な気持に打たれたものである」
 何が言いたいのかといえば、画家達が曖昧さobscurityを捨てて、地獄の形象を明晰に描こうとする時、かならず滑稽に陥るということである。ここで言う“曖昧さ”はいい意味でのそれであって、第二編でバークは“曖昧さ”を崇高の不可欠の要件のひとつとして取り上げている。
 そのことは聖アントニウスの誘惑をテーマにした絵についても言えることである。バークがどの画家の絵を見て言っているのかは分からないが、地獄の絵と同様に厳しい見方をしている。
「一部の画家はこの種の主題を描き出す際に、自分の想像力に思い浮かべられる限りの無数の恐ろしい妖怪を集めようという意気込みを示した。しかし私が偶然聖アントニウスの誘惑の絵の中で見た各種の図柄は、何か真剣な情念を生み出しうるというよりもむしろ奇妙かつ乱雑な一種のグロテスク模様に過ぎないものであった」
 バークは聖アントニウスの誘惑の絵を好んでいない。聖アントニウスの誘惑は美術史上数多くの画家が取り組んだテーマで、バーク以前の画家としては、ボッシュ、グリューネヴァルト、ブリューゲル、ショーンガウアーなどが挙げられる。そのいずれもが例外なくグロテスクな想像力を全開にした作品になっている。
 特にグリューネヴァルトの作品はホフマンの時に書いたように、無類にグロテスクでリアルなものである。バークはグリューネヴァルトの〈聖アントニウスの誘惑〉を好まないだろう。バークの言う“崇高”をもたらす要素の中には“グロテスク”は含まれていないのである。


グリューネヴァルト〈聖アントニウスの誘惑〉部分


ボッシュ〈聖アントニウスの誘惑〉