玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(6)

2015年05月10日 | ゴシック論
 第二編は“崇高”を構成するさまざまな要素についての分析である。“恐怖” “曖昧さ”“力能”“欠如”“広大さ”“無限”“継起と斉一性”“困難さ”“壮麗さ”“光の過剰”“唐突さ”“断続音”などが挙げられ、個々に分析が加えられていく。
 多くの要素が挙げられているが、それらはすべて“恐怖”に収斂していく。“曖昧さ”も“欠如”も“恐怖”の原因となるものであり、バークは次のように書いてそのことを明言する。
「全面的欠如は例えば、空虚、闇、孤独、沈黙等のようにすべて恐怖の種である故にこそ偉大である」
“広大さ”もまた“恐怖”の原因となりうる。広大さの一つの要素である高さについてバークは、高所恐怖に触れているとも言える。
「我々は或る高さの物体を仰ぎ見るよりもそれと同じ深さの懸崖から見下す方が烈しい感動に襲われる」
 あるいはこの言葉は高所愛好に関わるものなのかも知れないが、“崇高”という概念に照らせば、高所恐怖も高所愛好も同じ一つのことでしかない。バークは「恐怖は公然と隠然との違いはあろうが、必ずすべての事例において崇高の支配的原理なのである」と書いて、この問題の逆説性について注意を喚起している。
 つまり“崇高”を生み出す要因が必ず“恐怖”であるのならば、“恐怖”を体感する人間にとって、その“恐怖”が“崇高”というカタルシスに転換される一瞬があるということになる。苦をもたらす恐怖が、苦ではないものに変ずる一瞬があるということでなければならない。
 ただしそれは絵画や彫刻、音楽や文学に関わる場合に特にそうなのであって、その証拠にバークは第二編において、ミルトン、ホラチウス、ウェルギウスなどの詩編を盛んに引用してその例証としている。もともと美学というものは芸術作品受容に関わるものなのだから。
 バークの“崇高の美学”はこのような逆説性において極めて近代的なものであったとは言えるだろう。そこには今日言う“醜の美学”(ローゼンクランツ)をも予想させる部分さえあるのである。

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エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(5)

2015年05月10日 | ゴシック論

 第一編は議論展開のための準備作業に費やされる。バークは「苦と快」という概念を最初に提示し“苦”は“快”の除去によるものではないし、“快”もまた“苦”の除去によるものではなく、まったく別のものだと主張する。
 さらに苦は「個人の維持」に関係する情念であって、「あらゆる情念の中で最も強力なもの」とされる。確かに“苦”は個人に対して危険を知らせ「個人の維持」に貢献する重要な感覚である。
一方“快”は「社交一般」に関わる感覚であり、「特定な社交の慣行にかかわる最も強力な感覚」とされる。そして社交には二つの種類があって、一つは男女間のそれであり、それを“愛”と呼ぶ。もう一つは「人間および他の各種の動物との間の大規模な社交」(よく分からない表現だが、男女間のそれ以外の一切ということか)であり、その対象は“美”だという。
 また社交の内部には共感sympathy、模倣imitation、大望ambitionの三つの環が組み込まれているという。そして模倣こそが「絵画その他の様々な快適な芸術のもつ力の主要な基盤の一つ」とされるのである。
 さて、バークはこの第一編ですでに、崇高と恐怖とを次のように結びつけている。
「如何なる仕方によってであれ、この種の苦と危険の観念を生み出すに適したもの、換言すれば何らかの意味において恐ろしい感じを与えるか、恐るべき対象物とかかわり合って恐怖に類似した仕方で作用するものは、何によらず崇高(the sublime)の源泉であり、それ故に心が感じうる最も強力な情緒を生み出すものに他ならない」
 これこそがゴシック小説を論ずるときに持ち出されるテーゼであり、ゴシックの“崇高の美学”を打ち立てるために援用される部分なのである。ここにはゴシック小説の論者のエドマンド・バークの理論への過剰な依拠があるとしか考えられない。
 初めて恐怖というものと崇高という概念とを結びつけた功績は確かに大きいとはいえ、それがそのままゴシック小説に当てはまるとは私は思わない。バークもまたそんなことを想定していなかった。

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