多くの要素が挙げられているが、それらはすべて“恐怖”に収斂していく。“曖昧さ”も“欠如”も“恐怖”の原因となるものであり、バークは次のように書いてそのことを明言する。
「全面的欠如は例えば、空虚、闇、孤独、沈黙等のようにすべて恐怖の種である故にこそ偉大である」
“広大さ”もまた“恐怖”の原因となりうる。広大さの一つの要素である高さについてバークは、高所恐怖に触れているとも言える。
「我々は或る高さの物体を仰ぎ見るよりもそれと同じ深さの懸崖から見下す方が烈しい感動に襲われる」
あるいはこの言葉は高所愛好に関わるものなのかも知れないが、“崇高”という概念に照らせば、高所恐怖も高所愛好も同じ一つのことでしかない。バークは「恐怖は公然と隠然との違いはあろうが、必ずすべての事例において崇高の支配的原理なのである」と書いて、この問題の逆説性について注意を喚起している。
つまり“崇高”を生み出す要因が必ず“恐怖”であるのならば、“恐怖”を体感する人間にとって、その“恐怖”が“崇高”というカタルシスに転換される一瞬があるということになる。苦をもたらす恐怖が、苦ではないものに変ずる一瞬があるということでなければならない。
ただしそれは絵画や彫刻、音楽や文学に関わる場合に特にそうなのであって、その証拠にバークは第二編において、ミルトン、ホラチウス、ウェルギウスなどの詩編を盛んに引用してその例証としている。もともと美学というものは芸術作品受容に関わるものなのだから。
バークの“崇高の美学”はこのような逆説性において極めて近代的なものであったとは言えるだろう。そこには今日言う“醜の美学”(ローゼンクランツ)をも予想させる部分さえあるのである。