次はベントゥーラ一族の親達である。これは言うまでもなく、ブルジョアジーを表象する集団に他ならない。彼らが実際に政変においてどのような役割を果たしたのかは分からないが、ベントゥーラ一族の誰もが口にする「もうこの話にも分厚いベールを掛けることにしましょう」などという科白から考えるに、ドノソはこの集団が少なくとも政変に対して見て見ぬふりをしたことを指摘したかったのだろう(⑧のテーマはこれで済ませる)。
ベントゥーラ一族の親達の事なかれ主義は、『別荘』の最初から最後まで一貫している。事なかれ主義どころか彼らは現実に目の前で起きている事実をさえ否認するのだから、それを現実逃避と呼んでも差し支えないだろう。
親達の想念の中では、自分達がハイキングに出掛けた一日の間に、子供達の世界では一年が経過していることも、子供達が大きく変貌をとげていることも、使用人達の軍団が子供達を支配するに至っていることも、すべてあり得ないことなのである。
彼らは現実を直視しようとせず、変貌した子供達を相も変わらず溺愛しようとし、金や財産に執着することを止めず、お金のために外国人達におもねり、原住民達を差別し続けるだろう。しかし、彼らもまた変貌をとげているのである。そのことをウェンセスラオはきちんと観察している。
「金の玉座に腰掛けてメレンゲを貪る母のなんと太ったことか、ウェンセスラオは思った。まるで怪物だ! 別荘を留守にしている間に、大人たちは皆怪物になってしまった!」
この怪物は精神的な意味で言う怪物ではなく、肉体的な意味で言う怪物である。ベントゥーラ一族の精神性など変わりようがないのだから……。変わるのはその外貌であり、それも怪物のように醜く変貌するのである。ウェンセスラオの
観察によって、彼は親達への軽蔑を一段と深めるだろう。
では親達の中で、ただひとりの異端者アドリアノ・ゴマラはチリのクーデターにあって、誰に擬せられているのだろうか。訳者の寺尾隆吉があとがきで「アドリアノ・ゴマラにアジェンデ大統領や抵抗の歌手ビクトル・ハラの人間像が投影されていることも、あるインタビューで彼自身が認めている」と書いているように、クーデターで失権し、自殺したアジェンデと、チリ・スタジアムに連行されて、銃殺されたビクトル・ハラの二人がアドリアノの人間像に反映されているのだろう。
アドリアノが医者であるという設定からは、医者の道から政界へと進んだアジェンデを特に意識していることは明らかだろう。
しかし、ドノソがアドリアノ・ゴマラを必ずしも理想的な人間として描いてはいないことから、そこにアジェンデへの批判をも読み取ることが可能かも知れない。ウェンセスラオは父アドリアノを愛してはいるが、父が立てる方針に対してはかなり批判的であり、とくにその折衷的な方針に懐疑の目を向けるところからも、アジェンデの具体的な政治方針に対する批判も含めているのかも知れない。
しかし、これ以上よく分かりもしないことを書くことは止めよう。