玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『ガラスの国境』(4)

2015年12月24日 | ラテン・アメリカ文学

『ガラスの国境』が単なる短編小説集ではないということを最初に書いた。それをよく示しているのが最後の一編「リオ・グランデ、リオ・ブラーボ」という作品である。
 リオ・グランデとはアメリカ、コロラド州に源を発し、ニューメキシコ州を貫いて、テキサス州ではメキシコとの国境を形作って、メキシコ湾に注ぐ川であり、リオ・ブラーボはそのメキシコ名である。つまり現在ではこの川が、アメリカとメキシコの国境の代名詞ともなっているのだ。
「リオ・グランデ、リオ・ブラーボ」は一方ではこの川の太古から現代までの歴史を語り、もう一方では前八編の登場人物達のその後について、あるいは国境に関わる新たな登場人物達についても語っている。
 しかし、川の歴史というものは存在しない。人間が存在しないところに歴史は存在しないのだから、リオ・グランデの歴史と言うよりは、リオ・グランデが凝視してきた、インディオ達、スペイン人達、征服者達、インディオ達のスペイン人達への抵抗、グリンゴ達、グリンゴ達によるメキシコ領のアメリカ領への割譲などの歴史と言うべきだろう。
(ちなみに、アメリカ・メキシコ戦争(1846-1848)までは、現在のカリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州の全域と、アリゾナ州、コロラド州、ニューメキシコ州、ワイオミング州の一部は、1821年にスペインから独立して以来、メキシコ領であったのである)
 新たなる登場人物、特にハーレー・ダビッドソンに乗って国境地帯を往来する作家ホセ・フランシスコのイメージは鮮明に読者の心に残るだろう。ホセはアメリカ人でもなければメキシコ人でもない。英語でも書けば、スペイン語でも書くチカーノ(メキシコ系アメリカ人)なのだ。「特に何かに同化する必要はない。俺だけの物語があるんだ」と言うホセは、「どうやら内部に独自の国境を持っているらしい」。フエンテスはさらに続ける。
「国境地帯は豊かな物語の宝庫で、カリフォルニアからテキサスまで、地下に葬り去られることなく生き続ける数多の物語が、いつ語ってもらえることか、いつ文字にしてもらえることかと待ち続けている。ホセ・フランシスコは色々な話を集め始めた」
 ホセはバイクで「チカーノの手稿をメキシコへ、メキシコの手交をテキサスへ運ぶ」だろう。両者の理解を深めるために。彼は国境の検問に対しても動じない。彼は国境であらゆる手稿を風に飛ばすだろう。
「フアレス川で十字に腕を広げて抗議する者たちの姿が目に入り、彼らが腕を伸ばして宙に舞う紙を掴み取っていくのを見ると、ホセ・フランシスコは勝利の雄叫びを上げて、国境のガラスを永遠に打ち砕いた……」
 フエンテスは文学の理想の形態について語っている。国境を自由に越えることのできる文学、あるいは国境を破壊することのできる文学。それをフエンテスは文学のあるべき姿と考えている。
 そしてまた、文学への希望についても語っている。ホセは手稿について「政治文書か?」と訊ねる検問に対して、「あらゆる書き物は政治文書です」と答え、「それでは危険なものなのだな」との問いに対しては、「あらゆる書き物は危険です」と答えるのである。フエンテスは文学というものの本質的な意味を正確に理解しているのである。
 登場人物のその後についても語られている。「リオ・グランデ、リオ・ブラーボ」の中で、「痛み」に登場したフアン・ペレスは、銃撃に倒れ、「脳みそを飛び散らせた」レオナルド・バロソに医師として対面するだろう。国境は様々な人間が交叉し、様々な悲劇が起こる場でもあるのだ。
 この作品は『ガラスの国境』全体の中で、音楽におけるコーダのような役割を持っている。様々な作品の旋律がここで一堂に会して響き渡り、徐々に速度を上げて終局に向かう。この作品がなければ『ガラスの国境』の価値は半減していたかも知れない。最後にホセ・フランシスコの手稿が風に舞う。
 
 リオ・グランデの北、
 リオ・ブラーボの南、
 偉業、戦闘、名前、記憶、敗北、勝利、色、その一つひとつを象徴する羽がある
 リオ・グランデの北、
 リオ・ブラーボの南、
 言葉よ、翔べ、
 哀れなメキシコ、
 哀れなアメリカ合衆国、
 これほど神から遠く離れ、
 これほど隣り合っているとは

(この稿おわり)