玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『別荘』(20)

2015年12月09日 | ゴシック論

③―1
 まだ③と⑥⑦⑩のテーマが残っている。③のテーマは⑥⑦⑩のそれと複雑に関連しているから、③について書くことで三つのうちのいくつかは消化されてしまうかも知れない。
 ③のテーマとは何であったか? それは作者がいたるところに顔を出して、「この話は作り話にすぎない」ということを何度も繰り返すのはなぜかというテーマであった。ドノソは第1章「ハイキング」のベントゥーラ一族の図書館に関する説明の部分で、最初に作中に介入してくるが、第2章「原住民」の冒頭という大変早い段階で「この話は作り話にすぎない」ということを明言している。ドノソは次のように書くのである。
「私の物語もここまでくると、こうして作者が頻繁に読者の袖を引っ張って自分の存在を知らせ、時の経過や場面転換といった些細な情報を文面に残していくのは文学作品として「悪趣味」ではないかとお考えの方も多いことだろう。
この場を借りて取り急ぎ釈明させていただくと、私がこうしたことをするのは、この文章があくまで作り物にすぎないことを読者に示すというささやかな目的のためだ。こうして時折私が口を挟むことで、読者とこの小説との間に距離を保ち、そこに開示される内容が単なる作り事にすぎないことを明記しておけば、読者が実体験とこの小説を混同することもなくなるだろう」
 ここでは少なくとも二つのことが言われている。作者が作中に介入するという「悪趣味」は、物語を本当らしく見せないということ、そしてそのことが読者を現実と虚構とを区別して考える方向に導くだろうということである。
 かつてゴシック小説や恐怖小説は、その物語が現実にあった事実であると主張することに多くの労力を費やしてきた。「この物語は私が体験したことであるから事実である」とか、「この物語は私の信頼すべき友人が語ったものであるから事実である」とかいう言説がそれである。
 あるいはまた、奇跡的に発見された古文書や手記が作りものではなく、いかにも権威あるものであることをくだくだと証言し、それらの文書に真実を語らせるといった方法も駆使された。しかし、ゴシック小説や恐怖小説の読者がそれが真実の物語であるなどと、思っていたということ自体疑わしい。読者はそれが真実であると信じる振りをする作法を身につけていたにすぎない。それは今日でもミステリー(推理小説)が、それが真実の物語であると思われていないにも拘わらず、読まれ続けていることと同じことである。
 ドノソはそのような方法あるいは作法に、真っ向から反対してみせる。しかし最初から「作り話にすぎない」と言っておくことで、「読者が実体験とこの小説を混同」しないようにするという試みは、はたして成功するのであろうか。
 その問いに答える前に、もう一つ問うておかなければならないことがある。『別荘』を読んでそれが作り話ではなく、現実の物語であるなどと考える読者は存在するのだろうかということである。子供達が非現実的な会話を続け、起こりそうもない事件が夥しく語られ、存在しそうもない人物が多数登場し、異なる集団の間に異なった時間が流れるなどという物語を、今日誰が真実の物語だなどと思うだろうか。
 だから、「作り話にすぎない」などという緒言は言わずもがなの発言であって、あってもなくても同じ結果しかもたらさない。それはどのような結果なのであろうか。
 実は読者は、作者であるドノソが「作り話にすぎない」と何度繰り返そうが、『別荘』の世界に没頭していくことを妨げられない。『別荘』の多くの登場人物達、とりわけアドリアノやウェンセスラオ、あるいはアラベラが存在しそうになくとも、彼らに感情移入しないでいることはできないし、大きな感動なしにこの物語を読み終えることなどできはしないのである。
 だから、ドノソがここで本音で語っているのかどうかということも、疑ってかかっていいのである。「作り話にすぎない」物語を「作り話にすぎない」物語として、冷静に読めるものなら読んでみろという、読者への挑戦がそこに含まれていないとは言い切れない。