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さて次に原住民達の集団について取り上げなければならない。原住民の存在と、別荘を取り囲むグラミネアの荒野の存在は深く結びついていて、この作品の歴史的あるいは風土的なバックグラウンドを形成しているように思う。
原住民が何を表象しているかということについては、何も考える必要などないと思われるかも知れない。原住民というのは文字どおり先住民であって、インディオであるとすればそれで問題は終わってしまうからである。
しかし、チリはアルゼンチンやウルグアイと同様に、先住民が少なかった地域で、現在でもインディオはほとんど居住していないし、1973年の時点でも同じことである。だから、現実にインディオが多く存在していて、ピノチェトのクーデターの時に何らかの役割を果たしたなどということはあり得ない。
ではなぜドノソは『別荘』に、しかも不可欠の要素として原住民達を登場させたのだろうか。それがチリ人の人種的記憶に関わる要因を持っていると考えることはできる。現在でもチリとアルゼンチンにはマプチェ族という先住民が90万人ほど住んでいるというが、彼らはインカ帝国やスペイン人の侵略に対して長く抵抗を続けたという。
2009年のCIAの調査によれば、チリの人種構成はメスティソ(白人とインディオの混血)が95・4%で大半を占め、インディオはわずか4・6%にすぎない。しかもメスティソは自らを白人として意識しているという。つまり混血であっても、白人の血の占める割合が圧倒的に高いのである。
だから『別荘』に登場する原住民は、歴史的記憶に関わるものなのであり、アクチュアルなものではない。それは15世紀から17世紀にかけて行われた、スペインによる中南米への侵略と征服の歴史的記憶に関わるものなのである。
『別荘』の原住民は、かつては食人の習慣を持っていたが今は文明化され、そうした習慣を捨て去っているとされているが、それにしてはこの作品の中で彼らは裸で生活しているし、豚の生贄の儀式のような習慣は捨ててはいない。
しかしアドリアノによれば、それはベントゥーラ一族への抵抗の姿勢なのだ。原住民達はベントゥーラ一族の収奪に対する抗議として、彼らの衣装も装身具もすべて脱ぎ捨てて、現在では裸で生活しているというわけだ。
彼らは抵抗の姿勢として一種の"先祖返り"を行っているのである。またチリのような緯度の高い地域で裸で生活することなどできるはずもなく、ドノソの原住民はチリだけでなく中南米全域に跨る先住民達の歴史的イメージによって創造されているのだ。
そのことが『別荘』に歴史的な奥行きと地理的な広がりを与えていることを指摘できるだろう。『別荘』がピノチェトによるクーデターに触発されて書かれたのだとしても、ドノソの射程はスペイン人による中南米への侵略、虐殺、征服と苛酷な支配の歴史にまで及ぶことになる。だから、『別荘』はチリのクーデターを素材とした、単なる政治小説に納まることはないのである。
最後に外国人達の集団が残されている。第12章「外国人たち」でベントゥーラ一族は、外国人達にその地所を高く売りつけるために、別荘に招待することになっている。そのためにはハイキングに出掛けた一日の間に、別荘で起こったこと、使用人達の軍団による支配と、一部の子供達による抵抗は知られてはならない事実である。ベントゥーラ一族はそれをひた隠しに隠そうとするのだが、最後には外国人達と手を組んだマルビナの策略によって、すべてを失うことになるだろう。
外国人達の集団は極めて現代的なアメリカ資本を表象するものと言えるだろう。チリの政変などものともせず、チリのブルジョアジーの利害などおかまいもなく、彼らはすべてを簒奪するだろう。