玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『別荘』(27)

2015年12月17日 | ゴシック論

⑥―2
『別荘』のラストは、この"作り話にすぎない"物語にふさわしく、まったく奇想天外なものだが、これまで非現実的な登場人物や非現実的なストーリー、あるいは非現実的な時間設定などによって、ドノソの物語に馴致させられてしまった読者にとっては、ラストシーンは極めて切実なものとなる。おそらく、読者の想像力と作者の想像力が一つになる瞬間がやってくるのである。
 グラミネアの綿毛が嵐となって別荘に襲いかかってくる。子供達は一年前の経験から原住民達の智恵によって、そんな時どうすればいいのか分かっている。しかし、親達も使用人たちもそんなことはまったく知らない。
 もはや手遅れであることも知らず、フアン・ペレスとベントゥーラ一族の男達は、ぼろ馬車で別荘から脱出しようとする。彼らは荒野の綿毛に窒息して死ぬ運命にある。また暢気なことに、バラの花の様子を見に外へ出たセレステと、それを追って外に出たオレガリオもまた、綿毛に窒息して死ぬことになるだろう。
 やがて綿毛は別荘の内部にまで侵入してくる。そんな時、ウェンセスラオが言った「このマルランダで生き延びるために昔から取られてきた方法を、この地域について我々より詳しく知っている人々に教わればよい」という言葉は、どこまでも正しいことを証明するのだ。ウェンセスラオはそれを実践するだろう。
「原住民たち、そしてウェンセスラオとアガピートは、ダンスホールの真ん中へ集まった後、クッションに身を投げるスルタンよろしく、寝椅子でもない白黒の大理石の床にゆっくりと身を投げると、ビバークの形になって、互いに顔を胸や足の上に乗せ合って休み始めた」
 原住民達の智恵に従って、こうしてじっと動かず、必要最小限の空気をゆっくりと呼吸し続けることで、綿毛の嵐をやり過ごすことができるのだ。子供たちの間で一年間という時間が経過していることの、伏線としての機能がここで効いてくる。
 子供達は生き延びなければならない。歴史の暴力を超えて生き延びなければならない。チリのクーデターに触発されて書かれた『別荘』の最後の主張なのだろう。ドノソはここでチリの国民に対する希望を語っているのに違いない。最後の一節は次のように書かれている。
「だが、自分たちは生きていかねばならない。縦縞のマントを被った男が演壇から生存のリズムを奏で続け、その鈍い響きが彼らの耳にまで届いてきた。他に選択肢などなく、むしろ当然のことと受け止めていた彼らは、黙ってその指示に従った。すぐにダンスホ-ルには、原住民の女たちが編んだ縦縞のマントに身を包んだ大人、子供、原住民が入り混じって横たわり、クッションの間で互いに支え合うような恰好で彼らが息を潜め、眼を閉じ、口を固く閉ざし、ほとんど生命活動を停止させる一方、騙し絵(トロンプ・ルイユ)の壁画に描かれた人間たちは、優雅な姿でてきぱきと働き、綿毛で重くなった空気に人々が窒息してしまわぬよう気を配っていた」
 この一節で『別荘』は終わりを告げる。「原住民の女たちが編んだ縦縞のマントに身を包んだ大人」とは、アドリアノ・ゴマラを指しているのであろう。彼もまた生き延びる権利を与えられているのだ。
 しかし、彼らを助けようとする「騙し絵の壁画に描かれた人間」とはいったい何者なのだろう? 最後の場面で『別荘』は謎のような幻想性を見せて終わる。
 この人間達は第4章「侯爵夫人」で、フベナルが親達の武器を奪おうとする場面で、ダンスホールの天井や壁面に絵かがれている「騙し絵」の中の人物として登場していたことを思い出さなければならない。
 この天井や壁面に描かれていたのはおそらく、ベントゥーラ一族の遠い祖先、旧大陸の人間達の姿なのである。彼らは古い歴史の記憶を象徴し、それ故に旧大陸からやって来たのであろう、グラミネアの綿毛にも抵抗力を持っているのである。
 最後にあの「言葉の波が、登場人物、時間、空間、心理学、社会学を打ち砕いていく」というドノソの言葉を思い出しておこう。まるで、すべてのものを破壊し、なぎ倒していくグラミネアの綿毛を表現するような言葉ではないか。"語り"を主人公たらしめているのは、このグラミネアでありそれが放つ綿毛であると言った意味を読み取っていただきたい。
(この項ようやくおわり)