玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『ガラスの国境』(2)

2015年12月22日 | ラテン・アメリカ文学

 まずこの『ガラスの国境』に何度も登場する、ドン・レオナルド・バロソという人物について触れておかなければならない。このバロソはマキラドーラの社主であり、ディズニーランディアと呼ばれる大豪邸に住み、プライベ-ト機を保有する大富豪である。
 このドン・バロソを中心として、多くの登場人物達が彼と直接的、間接的な関係をもっている。すべては金銭的な関係である。それを否定するにせよ、肯定するにせよ。またそれを知っているにせよ、知らないにせよ。
 フエンテスの『アルテミオ・クルスの死』は、この人物に似たアルテミオ・クルスという人物を主人公にした作品である。フエンテスはメキシコ革命の混乱に乗じて財産を築き、成功者として人生を送り、今はむなしく死の床に横たわるアルテミオ・クルスを通してメキシコの歴史そのものを描いている。
『アルテミオ・クルスの死』は過去を三人称で、現在を一人称で、未来は二人称で書くという実験的な作風をもち、フエンテスはそこでメキシコにおける大資本家の運命を、象徴的な手法で描いているのである。
『ガラスの国境』にはそのような意図はない。フエンテスはレオナルド・バロソの人物像を描こうともしないし、その内面に立ち入ろうともしない。バロソは単なるメキシコ人資本家であって、その周辺に登場する人物をこそフエンテスは描こうとする。フエンテスが『アルテミオ・クルスの死』で言う"凌辱された女"としてのメキシコとの関連において……。
 一人は「首都の娘」におけるミチェリナ・ラボルデ。この娘はバロソを代父とする絶世の美女で、金のためバロソとの関係を続けるために、バロソの息子と結婚さえする女である。彼らはリンカーン・コンチネンタルで、あるいはプライベート機で、自由に国境を越えるだろう。国境は自由に往還できる幻の膜にすぎない。
「メキシコとアメリカ合衆国を隔てるガラスの膜、幻でしかないガラスの敷居をぶち破って、その北側に伸びるもっと立派な高速道路を走り続ければ、行き着く先は魔法の町、光り輝く砂漠の誘惑……(後略)」
 もう一人は医学生フアン・サモラ。レオナルド・バロソの金銭的な支援で、ニューヨークのコーネル大学に留学し、そこで学ぶ不器用な若者である。彼が登場するのは「痛み」という作品だが、メキシコでは「痛い」は「恥ずかしい」とほぼ同義語なのだそうで、結局"恥のように痛い"作品として書かれている。
 フアン・サモラは読者に背を向けたまま自分のことを語る。恥ずかしいからである。彼をニューヨークで迎えたのは、米軍に不当な高額で商品を売って儲けるタールトン・ウィンゲートという男である。フアン・サモラは死体解剖の実験で一緒だったジムという学生と同性愛の関係となるが、ある日ジムに家主のことを批判される。
 恥=痛みはいろんな意味を持っている。ひそかに同性愛を続け、唾棄すべき人物の世話になっていること、ひいては同性愛を受け入れず、金だけを至上のものとするアメリカ的価値観に対する恥=痛み。フアン・サモラは留学を切り上げて、メキシコシティの貧民街に帰るだろう。
 この作品にウィンゲート一家が好奇心でメキシコシティのフアン・サモラの住居を訪ねてみようとする時の運転手が登場する。レアンドロ・レジェスというこの男は「賭け」という作品の主人公として、再び登場するだろう。
 フエンテスはフランスの大作家バルザックの「人間喜劇」の向こうを張って、「時間の年代」というメキシコの歴史と社会を総合する小説群を構築しようとした作家である。同じ登場人物が違った作品に出てくるのは「人間喜劇」の特徴であり、フエンテスもそれを真似ているのである。
 総体的にフエンテスがそのような壮大な試みに成功しているのかどうかは、作品を少し読んだくらいの私には分かるはずもないが、『ガラスの国境』は登場人物の出し入れに関してはかなり成功している作品だと思う。