玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『別荘』(24)

2015年12月13日 | ゴシック論

⑩―2
 しかし前にも触れたように、ウェンセスラオは『別荘』の主人公として再び帰ってくるだろう。『別荘』の草稿の段階では、ウェンセスラオとアガピート、アラベラがアマデオの肉を食べた後、「忽然と荒野に姿を消し、以後二度と物語に戻ってこないことになっていた」はずなのに、ドノソは方向転換を行うのである。
 なぜか? それには二つの理由がある。一つは「何度かこの小説を書き直すうち、再び私はこの登場人物、ウェンセスラオに惚れ直し」たという理由であり、もう一つについてドノソは次のように書いている。
「この小説の最初の草稿を書き終えた後に、予期せぬ事件が起こった。私の生涯にも関わるこの事件のせいで、ウェンセスラオを再登場させて彼に中心的な役割を負わせ、人食い人種となった後に直面した事態を最後まで生き抜いてもらわざるをえなくなったのだ」
 この「予期せぬ事件」というのが何であるかは分からないが、おそらく私生活上の事件なのであろう。妻マリア・ピラールのアルコール中毒と妻との不和が伝えられているが、そのことがドノソの方向転換とどう関係しているのかも分からない。しかし、ドノソが「ウェンセスラオに惚れ直した」という理由だけでも十分だし、それが現実的な根拠を持っているのだとしたら、なお結構ではないか。
 それでなくても『別荘』の物語は、ウェンセスラオを中心に展開してきたのであるし、物語の展開そのものがウェンセスラオを主人公にすることを要求していたのだから。
 確かに「私の意図を達成するための道具」にすぎないものに対して、作者が「惚れ直す」などということは、ドノソの小説論からして許されることではないのかも知れない。しかしドノソは小説の終盤で、ウェンセスラオを初めとする登場人物に対する強い愛着を隠すことなく吐露している。
「現実を芸術と混同しないと心に決めていたにもかかわらず、登場人物との別れが私には非常に辛く、本来なら、今は理由こそうまく説明できないがどう考えても「私の物語」である「この物語」をここで終わらせてしまうべきなのに、「彼らの物語」を締めくくることなく――実際には私が書く以外の物語など彼らにはありえないのだが――幕を閉じる気にもなれないため、こうしてその心の葛藤まで取り込んでしまった」
 一見ドノソは自らの小説論に対する違反について反省の弁を述べているように思われるが、本当にそうなのだろうか。この文章の直後に、ドノソは読者に対し次のように問いかける。
「読者の皆様は、ここに描き出した想像空間――名残惜しいこの空間――や登場人物と、私が感じるのと似たような感情的絆を結ぶことができただろうか」
 この言葉は彼の小説論の中核をなしていた「読者の想像力と作者の想像力を一つにする瞬間」という言葉と相同ではないか。しかもドノソは、その瞬間が「本物の現実を装うところからではなく、現実の「装い」が常に「装いとして」受け入れられるところから生じる」と書いていたではないか。
 つまり、作者がフィクションに徹することによって、また読者がそれをフィクションとして受け入れることによって、「読者の想像力と作者の想像力を一つにする瞬間」がもたらされるのであれば、ドノソは『別荘』においてそのことを十二分に実践したのであって、作者が登場人物に感情移入してしまうということ、あるいは読者が"作者の道具にすぎない"登場人物に感情移入してしまうということは、決してリアリズムのもたらす悪癖などではあり得ない。