⑨
『別荘』という小説で読者にとって最もショッキングなことは、親達がたった一日ハイキングに出掛けている間に、別荘に取り残された子供達の間では一年もの時間が経っているという驚くべき時間構造である。
第一部では子供達はまがりなりにも親達と時間を共有しているのに、第二部ではそうではない。こうした時間のギャップが明らかになる場面を、ドノソは第二部の最初の章、第8章「騎馬行進」でものの見事に描いている。
親達はハイキングを終えて帰還の途につくのだが、いつも休憩を取る礼拝堂の廃墟で、彼らはカシルダ(16歳)とファビオ(16歳)に出逢う。カシルダは金箔を盗み出す計画の首謀者であったのだが、マルビナ(15歳)に騙されて、ファビオとともに置き去りにされてしまったのである。
一年という時間の経過を示す証拠としてドノソは、ファビオとカシルダの間に子供ができたという設定にしている。しかしその赤ん坊も親達には人形にしか見えないだろう。リディアは言う。
「なんて恰好をしているの?」彼女は言った。「ここで何をしているのよ? ちょっと目を離すと、すぐに悪さを始めるんだから。この衣装は何よ? もう人形遊びなんかする歳じゃないでしょう。恥ずかしいわよ、さあ、寄こしなさい」
カシルダはぼろ服の間に隠そうとした。
「人形じゃないわ。私の息子よ」
「はい、はい」宥めるようにリディアは言った。「大事な息子なのね。「侯爵夫人は五時に出発した」の遊びすぎでそんなぼろ人形が本物の赤ん坊に見えるのよ。あなたはもうそんな歳じゃないでしょう」
そしてその赤ん坊は井戸の中に投げ捨てられてしまう。その後、人形を捨てたフアン・ペレスはそれが本物の赤ん坊であったと証言するだろう。つまり、親達は子供達の間に一年が経過していることを認めようとしないのである。どちらの時間が本物なのか? カシルダは親達に向かって叫ぶ。
「あんたたちのハイキングの時間こそ偽の時間だったのよ!」
ところでドノソは長い放浪生活に別れを告げ、1971年にスペイン東部の小村カラセイテに居を構えている。美しい景色に魅せられたというから、きっと世の中のことをすべて忘れて小説に没頭できる理想的な環境だったのだろう。
そこでは『別荘』における親達の場合のように、時間はゆっくりと流れるだろう。それに対して故国チリではクーデターに象徴されるように、時間は恐ろしいほどのスピードで進んでいくだろう。
『別荘』における親達と子供達の時間のギャップは、おそらくそのような現実的な背景を持っていると私は思う。ドノソは自分の周りでは一日しか経っていないのに、故国では一年もの濃密な時間が経過していることに1973年9月11日に気づいたのである。
そのような現実的背景を別にしても、この時間のギャップという物語構造は『別荘』という小説に大きなダイナミズムを与えている。もしこの時間構造がなかったら、『別荘』には空間的な条件しか残らないことになるからより平板なものになっていただろう。
これがなければウェンセスラオがたった一日の間に大人へと変貌していく姿を、現実感をもって描くことなど不可能だったはずである。