玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『別荘』(16)

2015年12月05日 | ゴシック論

④―3
『別荘』で35人の子供達が主役となっていることは間違いない。他の集団がかなり画一的に描かれているのに対して、ドノソは35人の子供達一人ひとりを描き分けようとしているからだ。子供達を多様性において描こうとしたところに、ドノソが子供達の存在を最も重要なものと考えていたことを見てとることが出来る。
 しかし何という子供達だろう。最年長者が17歳のフベナル、最年少者が5歳のアマデオであるというのに、この子供達はお互いにまるで大人のような会話を交わすのである(アマデオだけが時々幼児語を喋るのだが)。
 この小説における最初の会話はウェンセスラオ(9歳)とマウロ(16歳)の間で交わされる。以下のごとくである。
「今日の別れの儀式は、オペラのラストシーンのように怪しげで、何だか取ってつけたみたいだったな。そう思わないか?」(ウェンセスラオ)
「ここでの僕たちの生活自体がいつもオペラみたいなものじゃないか。今さら何がおかしいというんだい?」(マウロ)
「きっと、もう帰ってこないつもりで出発したんだ」(ウェンセスラオ)
「いったい何ということを言い出すんだい、君なんて小悪魔にすぎないというのに!」(マウロ)
「君の永遠の愛人(メラニアのこと)に訊いてみるといい」努めて冷静を装いながらも明らかに動揺している従兄を見て、今日こそ化けの皮を剥いでやろうとウェンセスラオは挑発した。「僕の性器については彼女がよくご存知だからね」
 こんな会話を9歳と16歳の少年が交わすわけはないので、いきなり読者は「何という小説を読んでいるんだろう」と疑心暗鬼に陥るだろう。それこそドノソノしかける罠であり、彼はここで『別荘』という作品には、尋常な子供など一人も登場しないということを予告するのである。
 と言うより、子供らしい子供が存在するという常識的通念を破壊すると言った方がいいだろう。年齢と発言との間の大きなギャップは、この小説の最後まで連続していくのであり、子供達がそれぞれ途方もない個性を持った存在であるということを際立たせていく。
 例の「侯爵夫人は五時に出発した」ごっこを主導するのは、メラニア(16歳)とフベナルであり、メラニアは"永遠の愛人"と呼ばれ、フベナルは"邪悪な侯爵夫人"と呼ばれている。マウロは"若き伯爵"と呼ばれてメラニアの愛人役をつとめる。メラニアは女装させられたウェンセスラオと、マウロの両方に対して所有欲を持ち、さらに叔父のオレガリオにもその気を持つ多情な少女である。
 フベナルは本物のオカマである。イヒニオ(15歳)とフスティニアノ(15歳)が男の子同士でキスしている場面を押さえたフベナルは二人に次のように言う。
「べたべたするんじゃない! お前たちはオカマじゃないんだ。わかるか? ここでオカマは俺だけだ」
 そしてこの異常な子供達は「侯爵夫人は五時に出発した」ごっこにうつつをぬかすのである。この子供達の遊戯は一体何を意味しているのだろうか。作者であるドノソはこの遊びについて、第3章「槍」で次のように分析している。
「豊富なお伽噺の蓄えをもとに子供たちの空想を支配するこの一団は、「侯爵夫人は五時に出発した」の挿話を次々と繰り出してマルランダ生活の一局面を紡ぎ出し、それを隠れ蓑に使うことで、親たちの押し付けてくる規則に不満を抱くこともなく、また、反抗する必要もなく日々を過ごすことができたのだった」
 つまりこの"ごっこ遊び"は空想によって現実を隠蔽し、子供達を従順にさせておくための儀式なのである。だからこの遊びは子供から脱しつつある最年長者によって主導される必要がある。そのことを最年長者であるフベナルは自覚している。フベナルの考えるところをドノソは代弁している。
「今望むことと言えば、しばらく両親の目を逃れて、この別荘で起こることのすべてを「侯爵夫人は5時に出発した」の作り話に変え、まだなりたくない大人に仕立てようと迫り来る現実を避けることだけだ」