玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『別荘』(23)

2015年12月12日 | ゴシック論

⑩ー1
 ドノソは『別荘』の中で何度も顔を出して、物語に介入したり、小説論をぶち上げたりしているが、彼がもっとも書きあぐねたという第11章「荒野」の途中で、物語を中断してまで「誰が主人公なのか?」、あるいは「登場人物とは何か?」という議論を行うところがある。ドノソは突然こんなことを言い出すのである。
「究極的にこの物語は、ウェンセスラオを主人公にしているわけでもなければ、現実離れした言動を繰り返す現実離れした子供たちの誰か一人に焦点を当てているわけでもない。また、四人の子供たち(ウェンセスラオ、アマデオ、アガピート、アラベラ)が互いに助け合って、すでに何度も描写した広大なマルランダの荒野へ逃亡者として乗り出そうとしているこの段階に至っても、この物語を通して子供たち同士の関係を観察、分析するつもりなど私にはまったくない」
 読者は小説のかなり初めの頃から、ウェンセスラオこそ主人公だと思って読んできたのに、ドノソはそのことを否定するのである。ドノソはいったい何のためにそんなことをするのだろう。読者の焦点を迷路に迷わせることにしかならないではないか。
 確かにドノソは四人の子供達の関係を分析するようなことはしない。なぜなら、彼らを初めとする登場人物達は「現実に存在するいかなるモデルにも対応することがない」からなのだろう。つまりドノソの小説における登場人物は、リアリズム小説における登場人物とは決定的に違っているということをドノソは言いたいのだ。
 問題は"登場人物論"に関わってくる。次の第12章「外国人たち」の冒頭で作者であるドノソは、あろうことか登場人物の一人シルベストレと町で出会い、二人でバーに入って『別荘』の原稿について議論を交わすのである。なぜこんなとんでもない場面を挿入するのかといえば、ドノソは「期せずして写実主義に頼ることがあり、刺々しく見えることはあっても心地よいこの調子に甘えたりする」ことがあるのに対して、"アイロニー"をもって応えるためであるらしい。ドノソはそこで「この期に及んで本当らしさの誘惑に屈し」たくないからだというのである。
 リアリズムの誘惑はいつでも魅力的である。それに屈してしまえば、物語は"本当らしさ"をたやすく獲得することができるからである。しかしドノソはそのことに抵抗しようとする。だからこそシルベストレとの議論などという、あり得ない場面が挿入されてくる。ドノソはリアリズムへの抵抗の痕跡をそこに残そうとしているのである。
 ならば、"登場人物"とは何者であるのか? リアリズム小説における登場人物と、ドノソの小説における登場人物との違いは何か? ドノソはその問いにきちんと答えている。以下のくだりである。
「この本の基調、この物語に独特の動力を与えているのは、内面の心理を備えた登場人物ではなく、私の意図を達成するための道具にしかなりえない登場人物なのだ。私は読者に、登場人物を現実に存在するものとして受け入れてもらおうとは思っていない。それどころか私は、言葉の作り出す世界のみに存在可能な象徴的存在――何度も同じ言葉を繰り返すが、生身の人間としてではなく、あくまで登場人物――として受け入れてもらったうえで、その必要最小限だけを提示し、最も濃密な部分は隠してしまおうと思っている」
 一見主人公と思われたウェンセスラオも、「私の意図を達成するための道具」にすぎない。だからドノソはウェンセスラオが主人公であることを否定するだろう。
 しかし"道具"という言い方はかえって逆に、リアリズムの正統性からの反論を受けかねない用語である(たとえば社会主義リアリズムにおける登場人物が、作者のイデオロギーを達成するための道具であるというような意味において)。だからドノソはそれを「言葉の作り出す世界のみに存在可能な象徴的存在」と言い換えないではいられないのである。