元 文化庁長官である近藤誠一氏のコラムで、興味ある主張を知った。
レベッカ・コスタ(東京生まれのアメリカの社会生物学者)が著書「文明はなぜ崩壊するのか」で文明崩壊の共通項を、
《文明の進歩がもたらす課題の複雑さと変化の速度に脳の能力が追い付かず、その結果、解決が先送りにされて、その場凌ぎの対症療法を繰り返すうちに対処できていると思い込んでしまうこと》とし、顕著な例としてローマ帝国の終焉を挙げているそうである。
この主張を踏まえた以後の近藤氏の論述は置くとして、コスタ氏の主張は日本の現状と未来を暗示しているように思った。
東日本大震災とコロナ禍で浮上した「憲法の緊急条項欠落」に当て嵌めれると、国会議員の任期は衆院4年・参院6年と憲法に規定されているが、任期切れ直前若しくは選挙期間中に国会の審議若しくは承認の必要が生じた場合、衆参同日選挙のケースでは国会議員が参院定数の1/2以下であることが起こり得る。
これに対して、衆院憲法審査会の立民筆頭委員を務める奥野總一郎(東大法学士)議員は「憲法のどこに問題があるのか?」としているのは無知・紺屋の白袴と笑い飛ばすこともできるが、立憲民主党が「憲法を改正しなくても国会法を改正すれば議員の任期延長は可能」と見解しているのは極めて問題である様に思う。
立民の見解は、公然と違憲立法を是とするもので、憲法違反若しくは憲法無視の極致であるように思える。
この考えに対して、憲法を一文字も変えてはならないとする「憲法教信者」は「真の緊急事態には誰かが何とかする」と答えるであろうが、誰かに憲法規定を凌駕することを認めることは最も危険な考えではないだろうか。これを許せば、誰かが、日本侵攻を標榜する国を先制攻撃する、特定の言論を弾圧する、ことすら可能となってしまう。
既に十分な権力を獲得したヒットラーや習近平氏ですら憲法を改正して自分の権力を正当化する必要があったのは、違憲行為が決して国民の支持を得られないことを示しているのではないだろうか。
現在の日本は、積年の歪を何とか対症療法で凌いでいるが、根本的な解決の全てを先送りしている感じがするのは、リベラル政党が存在しないことに尽きるように思える。唯一リベラルな主張がなされる自民党でも政権維持汲々の有様で、維新・共産を除く野党に至っては、最大の保守・改革抵抗勢力の感が深い。
父母が思い込みの退嬰的な家訓(憲法)を押し付け続ける限り、真剣に家業を継ごうとする子息は現れないだろう。
森羅万象を解き明かしたとされた相対性理論ですら、既に過去の一学説となりつつあることを見れば、今日の定説・共通認識も明日の真理とはなり得ない。
「古き酒を新しき皮袋に」、「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」