米国連邦最高裁は、1973年の「ロー対ウェード判決」によって50年間に亘って合憲とされていた人工中絶を覆して、違憲とする判断を示した。
アメリカの人工中絶論争は、人道・人権・人種・宗教の要素が複雑に交差する根深い問題で、特に宗教における相違は国民分断の一要素ともされている。人工中絶の是非については置くとして、違憲・合憲それぞれの判断を下した判事のコメントは他山の石とすべき示唆があるように思った。
違憲とした判事は「憲法は中絶について何も触れていない。憲法に従い中絶問題は米国民に選ばれた代表に返す時だ」、合憲とした判事(最高裁長官)は「中絶の権利無効化にまで踏みこむ判断は司法制度に重大な動揺を与える」)としている。このことは、司法判断の基準は「憲法(法律)に規定されているか否か」だけで、国民が望むならば、国民(立法)が憲法を変えなければならないという、極めて常識的なものであるように思える。
立憲民主党の泉代表は、外国人記者クラブでの各党首揃い踏みの場で「安保関連法のうち憲法違反の疑いがある個所の廃止」を訴えたが、自民党の岸田総裁から「どの個所が憲法違反か」と質問されて立往生したとされる。もともと日本国憲法には国防に関しての記載がなく、国是とされている「専守防衛」にしても国際慣習法的な自衛権という概念を後付け借用したものに過ぎないので、憲法規定が無い以上、安全保障関連法に対する合憲・違憲は論拠を持たないものに思える。
また、泉代表は長野県で開かれた立憲民主党の国政報告会で、支持者の女性から「憲法を改正して自衛隊を明記する必要があるのでは」と問われ、絶句したとも伝えられている。
以上のことを鳥瞰的に眺めれば、国民は、戦力不保持を謳った憲法堅持ならば自衛隊・安保関連法の廃止を訴えるべきであり、戦力である自衛隊を容認した国土防衛を容認するならば、憲法改正をも主張しなければならない、と思っているように感じられる。
「戦力不保持憲法を堅持したうえで、戦力による防衛を求める」という破綻した論理は、果たして賢明な有権者の心を捉えるものだろうか。
日本の最高裁でも、基地訴訟等に関して「自衛隊の存在に関する適否は司法の権限が及ばない」として判断を避けているのは、今回のアメリカ連邦最高裁の判断と軌を一にするものであるように思う。
国民(代表=国会)が憲法を作り・改正して、司法がその厳格な遵守と執行を監視することが、法治国家の基本であると思うのだが。
参院選の当落予想で、改憲を主張する政党が2/3以上の議席獲得とも報じられています。
貴兄の仰る通り「政治家が避けてきた問題を国民が真剣に考える時代」になりつつあるように思えます。
少数意見の尊重と云いたてることで、喫緊の問題に耳目を塞いできた「政治屋」が淘汰される国政選挙であって欲しいものです。
「国民(代表=国会)が憲法を作り・改正して、司法がその厳格な遵守と執行を監視することが、法治国家の基本である」に、賛成します。日本の現状にあわせて憲法も変更すべきだと思うからです。
私の高校生時代、世界史で「王権神授説」という言葉を聞きました。「王権は神から授けられたもので国王の支配権は神から授かったものであるから神聖不可侵であり、臣民は国王の命令には絶対に服従しなければならない」というものです。
戦後の日本は「日本国憲法神授説」が蔓延した時代だったのではないでしょうか?。でも、最近様子が変わってきているみたいです。日本国民が目覚めたのでしょうか?
私は、朝鮮戦争以降から多くの日本人は日本国憲法に対して疑問が生じてきたのではないかと思っております(勝手な想像ですが)。憲法原案を作成したアメリカが、自分の都合で日本に軍事力を持つのを容認したからです。
なぜ疑問を持った日本人が憲法をそのままにしてきたのでしょうか?
国防増強論を唱えると「右翼だ」、非武装中立は「平和国家の理想だが多少不安」、自衛隊を解消し新たに軍を創設するなどは「論外」だが、多数の国民は難しい憲法論議より現行憲法で今まで上手くやってきたので大した問題は無いと思っているからでしょう。
政治家が避けてきた問題を国民が真剣に考える時代になりました。大きな負担を国民一人一人が背負う時代になりました。
以上のことは、私の独断で偏見に満ちている考えかもしれません。
今日は平和だ。明日も平和だろう。でも、現実が日本国民に問題を突きつけ回答を迫っています。
自分で考えて、勇気を持って前進しなければならない時代が今です。