中国ウィルスで有り余る時間が与えられた方に北方謙三氏の一連の中国抒情詩を紹介する。
宋朝期とは言え舞台が中国であることに忌避感を持たれるかも知れないが、概ね漢族は敵役的な存在であるので若干の憂さ晴らしにもなるのかとも思う。読むにあたっては、発行年に従って読むと若干の回り道(それはそれで楽しいのだが)になるので、次の順序をお勧めする。楊家将(2巻)→血涙(2巻)→水滸伝(18巻)→楊令伝(15巻)→岳飛伝(17巻)→チンギス紀(現在6巻)である。通読すると60巻に及ぶ連作であるが、純文学を振り出しにハードボイルドと南北朝期の歴史小説を経てたどり着いた北方氏の集大成的な歴史絵巻である。宋建国に始まり、宋の衰退と遼・金の興亡、チンギスハン(テムジン)の台頭までを描いた叙事詩であるが、北方氏の美学が投影された抒情詩と呼ぶにふさわしいものである。特に楊家将(演義)は三国志演義、水滸伝とともに中国では三大演義とされているにも拘らず、日本では殆ど紹介されなかったものとされている。歴史小説と云えば司馬遼太郎氏が第一人者とされるが、司馬氏の小説の半分は資料の紹介・解釈であり、かつ資料に拘泥するあまり人物描写・人格設定に難があるように思う。司馬氏の代表作の一つである「坂の上の雲」では兄好古の視点がいつしか弟真之のそれに変化し、「菜の花の沖」では高田屋嘉兵衛の人生観がいつしかゴローニン事件の背景解説に埋没してしまう。自分は、司馬氏の歴史小説は視点の定まらない、テーマに一貫性のない歴史本と呼ぶべきものと感じているが、歴史学者の間では時の施政者の、それもマルクスが提唱する経済発展原則に当てはまる文字資料を最重要視して正史と判断し市井のそれは顧みない傾向であることも司馬小説に影響しているのかも知れない。かたや北方氏の歴史小説は史実・原典をなぞりながらも北方氏の視点で再構築したものであるために、一貫したテーマや人物像が紙上に踊っている。秋の夜長ならぬ中国ウィルスの夜長、北方作品に埋没することをお勧めするものである。
前段で、歴史学者はマルクスが提唱する経済発展原則に当てはまる文字資料を以て正史と判断すると書いたが、このことは今年の歴史教科書の検定でもいかんなく発揮されている。明治維新と云う大改革も、資本家に搾取され続けた民衆が起こしたものでないために歴史ではあり得ず、南京事件は特筆すべきものとしているのだろうと考えられる。筆が滑って余計な後段になったが、北方作品に勇気を貰って頑張りましょう。
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