明日は6月15日。そう言ってもわかってくださる方は少ないでしょうね。1960年6月15日は、東大生の樺美智子さんは安保条約に反対するデモを組織した学生の一人としてデモに参加していました。そして国会議事堂前で虐殺されたのです。彼女のお墓には次ぎのような詩が刻まれているそうです。
「最後に」
誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ
1956年 美智子作
美智子さんが亡くなった後、あるエスペラントの講習会でお母さまの思い出話を伺いました。当時、彼女は母親に若い頃学んでいたエスペラントの学習を再開するように強く勧めていたと言うことでした。それはまるで、自分の死を予感していたようだったそうです。
あの当時美智子さんのお母さまは50歳前後だったでしょうか。人はどんなに辛くとも生ある限り生き続けなければならないのですね。健やかに生活されておられることを念じます。
もう一人珍しい方とお会いしました。その方は少年時代に大杉栄からエスペラント学んだ方でした。私の父と同じくらいの年齢の方でしたから、1900年頃の生まれでしょう。名前は長谷川…さん?あるいははやしさん?45年前のことです。どうしても思い出せません。
彼は10才前後で植字工になったそうです。仕事は長時間。宿舎も相部屋で、みんなせんべい布団に包まって寝ていたそうです。冬は寒さで眠れなかったということでした。そこに若い日の大杉栄がいたのです。夜、冷え切った布団で縮こまっていると大杉栄が自分の布団に入れてくれ、自分の体で少年の体を温めながら、エスペラントを教えてくれたそうです。
大杉栄(1885~1923)は21才の時エスペラント語学校を作りました。1923年9月1日関東地方に大地震が起こりました。いわゆる関東大震災です。9月16日、大杉栄は自宅から当時大手町にあった麹町憲兵分隊連行され虐殺されました。彼はとても心優しい人だったということでした。
「最後に」
誰かが私を笑っている
向うでも こっちでも
私をあざ笑っている
でもかまわないさ
私は自分の道を行く
笑っている連中もやはり
各々の道を行くだろう
よく云うじゃないか
「最後に笑うものが
最もよく笑うものだ」と
でも私は
いつまでも笑わないだろう
いつまでも笑えないだろう
それでいいのだ
ただ許されるものなら
最後に
人知れずほほえみたいものだ
1956年 美智子作
美智子さんが亡くなった後、あるエスペラントの講習会でお母さまの思い出話を伺いました。当時、彼女は母親に若い頃学んでいたエスペラントの学習を再開するように強く勧めていたと言うことでした。それはまるで、自分の死を予感していたようだったそうです。
あの当時美智子さんのお母さまは50歳前後だったでしょうか。人はどんなに辛くとも生ある限り生き続けなければならないのですね。健やかに生活されておられることを念じます。
もう一人珍しい方とお会いしました。その方は少年時代に大杉栄からエスペラント学んだ方でした。私の父と同じくらいの年齢の方でしたから、1900年頃の生まれでしょう。名前は長谷川…さん?あるいははやしさん?45年前のことです。どうしても思い出せません。
彼は10才前後で植字工になったそうです。仕事は長時間。宿舎も相部屋で、みんなせんべい布団に包まって寝ていたそうです。冬は寒さで眠れなかったということでした。そこに若い日の大杉栄がいたのです。夜、冷え切った布団で縮こまっていると大杉栄が自分の布団に入れてくれ、自分の体で少年の体を温めながら、エスペラントを教えてくれたそうです。
大杉栄(1885~1923)は21才の時エスペラント語学校を作りました。1923年9月1日関東地方に大地震が起こりました。いわゆる関東大震災です。9月16日、大杉栄は自宅から当時大手町にあった麹町憲兵分隊連行され虐殺されました。彼はとても心優しい人だったということでした。









焦らず、自分の道を行きましょう!
この項に限らず、書かれている内容に学ぶべき点が多くあると思います。これからも頻繁に拝見させていただきます。
良く本を読んでおられます!!
45年も経つと頭で覚えたことは忘れてしまいます。残るのは経験と、その時の感情だけです。その感情や感覚が少しでも残っているうちに語れることは語っておきたいと思うのでます。
あれから45年。日本人の抵抗力はすっかり失われてしまい、戦争の出来る「普通の国」になろうという潮流に、すべてが巻き込まれていくのではと、暗澹たる思いです。
僕のブログでも今日は樺さんのことについて書いたのでTBさせていただきました。
リンクありがとうございます。お礼を書こうと思ったら送信できませんでした。なにしろ不慣れなものですからすみません
樺美智子さんのことは本でしか知りません。私は10年後の70年安保世代。べ平連の世代です。
1年生の9月から大学は休講になり、連日クラス討論の日々でした。
ベトナム戦争反対のスクラムを組んだり、私達は整然とデモをしていたのですが、前方の一部と機動隊とのもみあいで、バリバリとガラス戸が割れる音が耳に残っています。
そうでしたか。じっとテレビを見ていたら弟の顔が画面に映り驚きました。
あの日、私はスラックスが脱げないくらいに脛が腫れ、両肩に5本の指の後が残っていました。
この前、小学生に日本は戦争しない事になっているから戦争無いよねといわれ答えに窮しました。
偏見は植え付けたくは無いですし、今平和でない事を説明するのも結構難しいですね。やはり、小さい子に伝えるのは両親の責任です。
この感覚、今の人には理解できないでしょうね。
そして戦争のこと
娘には27歳のラオス人の友人がいますが、北ベトナム側として従軍していたお父さんから聞いた話をたくさん聞いたそうです。
きっと、戦後生まれの私が父親から戦争の話を聞いたのによく似ていると思ったりしました。
そんなこともあり、一昨年の春、娘はハンドルネームをdon’t atac iraq としていました。
機会がないと、なかなか思考が深まらないものです。