◇無理解がつくる障害
65歳以上の3割以上が老人性難聴と推計される「高齢化社会」。聞こえぬゆえに立ちはだかる障壁は、決して人ごとではないはずだ。
取材の最後に、僕は全国に4カ所しかないという聴覚障害者のための特別養護老人ホームを訪ねた。兵庫県・淡路島の「淡路ふくろうの郷」。平均年齢80歳の男女52人が、手話や触手話や書き文字で暮らしていた。
僕の傍らでいろいろと世話を焼いてくれたのは竹辺正晴さん(75)だった。戦中に両親を失い、敗戦の年の空襲で神戸のろう学校の寮を焼け出された。工場を転々としながら住み込みで働いたが、給料が払われず逃げ出す。道路工事をしていた15歳の時に、けんかが発端で無理やり精神科病院に入れられた。周りのだれも手話を解さなかった。
それから56年。聞こえぬゆえの行動を精神障害と誤診され、閉鎖病棟で暮らし続けてきた。00年、介護保険制度が導入され、病院にケアマネジャーが配置されたことで、竹辺さんの存在が明らかになる。翌年、手話通訳士らが病院を訪問して竹辺さんと面会した。
「長い間、手話を使う機会がなかったせいか、口でしゃべろうとされました。でも、手話で話しかけたら、急に目が輝いて。『また来てくれ』と繰り返していたことを思い出します」。当時を知る人はこう語る。
06年春、ふくろうの郷の開所と同時に入園した。所持品は、服と洗面道具を入れた小さな段ボール一つ。それが今、竹辺さんの部屋には彼が描いた似顔絵があふれている。来客や職員や入所者の笑顔が100枚近く。部屋の机に積んである。
勝楽(かつらく)進さん(80)と佐代子さん(81)は、女の子の人形の前に並んで話を聞かせてくれた。4年前に入所した際は、トラック1台に手作りの人形を満載してやって来た。結婚した時、親族から「ろう者が生まれると困る」と言われ、進さんは断種の手術を強いられた。以来、佐代子さんは我が子のように人形を作り続け、「譲ってほしい」と言われれば、「嫁に出すように」送り出してきたそうだ。
ふくろうの郷に4日間滞在して、僕は抱えきれぬほどの物語をうかがった。ろう者で施設長を務める大矢暹(すすむ)さん(62)の言葉が心を突き刺す。
「聞こえないことが障害をつくるのではない。社会の無知や無理解がつくる障害があることに気づいてほしい」。全国各地に聞こえぬことを理解されぬまま暮らしている老人は数知れない。
◇
この夏、僕は「聞こえない世界」を歩き、手話を紡ぐ人々に出会って、己の無知を痛感した。長い間、僕は身近にいる彼らの存在に思いをはせることもなく生きてきた。だが、その気付きはまだ入り口に過ぎない。人のきずなが薄れて見えるこの時代に、異なる言語や文化をはぐくむ人々とともに生きる長い旅路の始まりなのだ。
毎日新聞 2010年9月4日 東京朝刊
65歳以上の3割以上が老人性難聴と推計される「高齢化社会」。聞こえぬゆえに立ちはだかる障壁は、決して人ごとではないはずだ。
取材の最後に、僕は全国に4カ所しかないという聴覚障害者のための特別養護老人ホームを訪ねた。兵庫県・淡路島の「淡路ふくろうの郷」。平均年齢80歳の男女52人が、手話や触手話や書き文字で暮らしていた。
僕の傍らでいろいろと世話を焼いてくれたのは竹辺正晴さん(75)だった。戦中に両親を失い、敗戦の年の空襲で神戸のろう学校の寮を焼け出された。工場を転々としながら住み込みで働いたが、給料が払われず逃げ出す。道路工事をしていた15歳の時に、けんかが発端で無理やり精神科病院に入れられた。周りのだれも手話を解さなかった。
それから56年。聞こえぬゆえの行動を精神障害と誤診され、閉鎖病棟で暮らし続けてきた。00年、介護保険制度が導入され、病院にケアマネジャーが配置されたことで、竹辺さんの存在が明らかになる。翌年、手話通訳士らが病院を訪問して竹辺さんと面会した。
「長い間、手話を使う機会がなかったせいか、口でしゃべろうとされました。でも、手話で話しかけたら、急に目が輝いて。『また来てくれ』と繰り返していたことを思い出します」。当時を知る人はこう語る。
06年春、ふくろうの郷の開所と同時に入園した。所持品は、服と洗面道具を入れた小さな段ボール一つ。それが今、竹辺さんの部屋には彼が描いた似顔絵があふれている。来客や職員や入所者の笑顔が100枚近く。部屋の机に積んである。
勝楽(かつらく)進さん(80)と佐代子さん(81)は、女の子の人形の前に並んで話を聞かせてくれた。4年前に入所した際は、トラック1台に手作りの人形を満載してやって来た。結婚した時、親族から「ろう者が生まれると困る」と言われ、進さんは断種の手術を強いられた。以来、佐代子さんは我が子のように人形を作り続け、「譲ってほしい」と言われれば、「嫁に出すように」送り出してきたそうだ。
ふくろうの郷に4日間滞在して、僕は抱えきれぬほどの物語をうかがった。ろう者で施設長を務める大矢暹(すすむ)さん(62)の言葉が心を突き刺す。
「聞こえないことが障害をつくるのではない。社会の無知や無理解がつくる障害があることに気づいてほしい」。全国各地に聞こえぬことを理解されぬまま暮らしている老人は数知れない。
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この夏、僕は「聞こえない世界」を歩き、手話を紡ぐ人々に出会って、己の無知を痛感した。長い間、僕は身近にいる彼らの存在に思いをはせることもなく生きてきた。だが、その気付きはまだ入り口に過ぎない。人のきずなが薄れて見えるこの時代に、異なる言語や文化をはぐくむ人々とともに生きる長い旅路の始まりなのだ。
毎日新聞 2010年9月4日 東京朝刊