認知症の男性が徘徊(はいかい)中に電車にはねられ死亡した事故で、最高裁は家族にJRへの賠償責任はないとの判決を言い渡した。2025年には65歳以上の約5人に1人が認知症とも推計される時代。判決は私たちの生活にどんな影響を及ぼすのか。福祉と民法の専門家に聞いた。
●賠償責任の在り方見直せ 九州大大学院(民法)五十川直行教授
最高裁の裁判官5人とも「家族に賠償責任はない」との結論だったが、導き方が異なった。3人は、妻や長男は法定の「監督義務者」などに当たらないとした。2人は、長男は「監督義務者に準ずべき者」だが、週6日デイサービスを利用させるなど義務を怠らなかったと評価し、賠償責任はないと判断した。
つまり最高裁は「家族だからといってむやみに監督義務を負わすべきではない」「やるべきことをやっている家族に重い責任を負わすべきではない」という二つのメッセージを発した。バランスの取れた判決だ。
一方、言外にもっと深い意図があるようにも感じた。認知症患者や精神障害者、幼児を「責任無能力者」とし、家族や親に賠償責任を引き受けさせることで被害者救済を図る旧来のやり方で問題はないのか、ということだ。無能力者を保護しているように見えて、閉じ込めなどで行動の自由を奪いかねないからだ。
英米の法では個人の自由を最大限尊重する一方、他人に損害を与えた場合には本人に賠償責任を負わせてきた。ドイツなどには裁判所の判断で資力のある責任無能力者に賠償責任を負わせる規定がある。日本は、民法制定から120年間変わっていないが、社会の激変に対応できているのか。
この判決では被害が回復されないことにもなる。今回はJRの財産損害にとどまるが、もし乗客がけがをするなどしていたら大きな課題を残す。
自由と責任は一対だ。障害者も高齢者も共に生きるノーマライゼーションの理念が浸透する中、賠償責任の在り方も見直すべき時が来ているのではないか。
●果たすべき役割再確認を 大牟田市認知症ライフサポート研究会 大谷るみ子代表
もし家族に賠償を命じる判決だったら、認知症患者の閉じ込めにつながりかねない。そうならなくて本当に良かった。ただ、判決に物足りなさも感じた。認知症患者が700万人を超えるとされる2025年を前に、最高裁には社会が目指すべき方向性を示してほしかった。
今回は、妻や長男の妻による見守りとデイサービスの利用など、どちらかといえば「よくやっている家族」だったから免責されたという判決ではなかったか。実際にはそこまでできる家族は少ない。老老介護、遠距離介護、情報不足、経済的問題…。そんな家族だったら判決はどうだったか。
そもそも介護保険は家族だけでは支えられない実態があるから導入された。地域包括ケアも機能しているとは言い難く、判決で不安になった人もいただろう。
福岡県大牟田市では04年度から「認知症の人も安心して外出できるまち」を目指し、行方不明になったら地域住民が捜索するネットワークづくりを進めてきた。15年に市内で行方不明になった12人がこの活動で見つかった。でも、そうした取り組みも、家族や身近な人たちによる普段の関わりがなければ生きてこない。
不幸な事故を起こさないために本人はもちろん家族や介護事業者、行政、地域、政治が果たすべき役割と責任がある。判決を機にそれぞれが再確認したい。また、万一事故が起こったとき、当事者も被害者も救える制度づくりが必要だ。
認知症は誰がなってもおかしくない。あなたが認知症になったとき、どんな社会を生きたいか。そこが出発点だ。
=2016/03/24付 西日本新聞朝刊=