~「バリバラ」日比野和雅プロデューサーに聞く #2~ - てれびのスキマ
障害者番組=福祉という常識を打ち破り、そこに「笑い」を持ち込んだ『バリバラ』が始まって、既に約7年が経った。
若いディレクターの中には、いわゆるこれまでの福祉番組を経験せずにいきなり『バリバラ』を手がけることになる者も少なくない。
インタビュー前編で、この番組を立ち上げたプロデューサー・日比野和雅氏は、「福祉をきっちりやってきたメンバーだから、差別的なところに踏み込まないだろうという確信があった」と言っていたが、福祉をやったことがないディレクターに任せることに不安や怖さはないのだろうか。すると「怖さはない」という意外な答えが返ってきた。(以下敬称略)
こちらが優しすぎると何も起きない
「どちらかというと逆なんです。彼らは“善良な市民”として入ってきてますから。だから『これはやっちゃいけないですよね』という先入観がある。やりすぎてしまう不安より、弾けられないほうが大きい。だから、それをまず壊さないといけない。そのためにまず、障害者の自立生活センターに行かせるんです。とにかく障害者たちに会う。接触して知るということが、こちらで教えるよりなにより早いので、とにかく1泊2日くらい一緒に暮らしてこいと。彼らに会ってきて、手足のように使われてこいと。そしたら、自分たちが持っている障害者像が変わるからって。『なんか考え方変わりました』『脳みそクラクラしました』って帰ってきますよ(笑)」
たとえば、寝たきりの障害者芸人「あそどっぐ」は、修学旅行をしたことがなかった。重度の障害ゆえ、行ったことのある旅行は隣の県だけだという。だから、彼を修学旅行に連れて行くという企画が持ち上がった。行き先は京都。だが、それを任された新人ディレクターが彼をどう扱ったらいいかわからなくなってしまった。どこまでヘルパーにサポートしてもらえばいいのか、“善良な市民”ゆえ、判断ができなかったのだ。

寝たきり障害者芸人・あそどっぐ ©NHK
「バラエティのディレクターってちょっと意地悪じゃなきゃいけないんです。伏見稲荷に行くんですけど、そこでヘルパーと切り離せと言いました。車椅子を押してくれる人を自分で見つけて最後の千本鳥居をくぐるという場をこちらで設定する。それに加えて、その間に絶対何人かを笑わせろっていうミッションも与える。こちらが優しすぎると何も起きない。何でもかんでもサポート体制万全にしても何も起きないし、テレビ的ではないし、そこのところはバラエティとしての何か一工夫を考える。そういう意地悪なことをやることで、結果、彼らがキラキラ輝いてくれるんです。
あいつもやっぱり芸人だなって思ったのは、なかなか声をかけないなと思ってたら、やっと声をかけたのが和服姿の2人組のキレイな女性たち。ちゃんとテレビ映えする人を選んでいるし、欲望に忠実(笑)。それで一生懸命メールアドレスをゲットしようとして、1人には聞けたらしいんだけど、送ったけど全く返信が来なかったって(笑)。やっぱりバラエティーとして、そこを設定することで、彼らは人と触れ合ったりして、いろんなものが見えてくるんです」
こぶしを振り上げるのが障害者運動じゃない
『バリバラ』にとって、玉木幸則の存在は絶大だ。精神的・思想的な支柱といっても過言ではない。
日比野は、玉木には「福祉臭」がないと言う。
「『福祉臭』っていうのは、笑いが排除されて、基本、困難克服の感動というものがあり、理想的なあるべき共生社会とは、みたいなことがキーワードでくるまっている感じですかね。どこからも批判をしてはいけないんじゃないかと、腫れ物に触るような感じ。だから、誰もが寄り付きたくなくなってしまう。
福祉番組ってそういう起承転結を作って最後に専門家が理想を述べて「今は無理だけど、将来的にはこうあってほしい』『こういうことを考えていきましょう』みたいな作りがほとんどだったんです。『でも、今困っているこの人にとって、それを言ったって何の役にも立ちませんよね』という思いがずっとあった。障害者を取り巻く課題は、もっと地べたに下ろして、もっと違う感覚で、本当の話ができる人が必要でした。それが玉木さんだったんです。運動家なんだけどそれまでの運動家とはちょっと違う感じなんですよ。軽やかで、日常生活に密接したところで話をするんですよね。だから、説得力が半端なくあるんですよね。関西人だから、基本おもろくなくてどうするっていうのがある。こぶしを振り上げるのが障害者運動じゃない、っていう感じはありますよね」

第1回「SHOW-1グランプリ」王者の脳性まひブラザーズ ©NHK
誰もが持っている差別心と「相模原事件」
相模原の障害者施設で障害者たちを惨殺するという痛ましい事件が起こった。『バリバラ』では、いち早くこの事件を取り上げ、特集を行った。
「玉木さんは、あの加害者を特別視するのは違うってずっと言うんですよ。あの人が異常だったからあの事件が起きたというふうにメディアが書き立てれば書き立てるほど、彼は怒るわけ。加害者の個人的なところに寄せてはいけない。そんなことで何の問題も解決にならない、と。加害者が言った『障害者は役に立たないからいらない』と心のどこかで思っている人は、国民の中で90パーセントはいると言うんです。僕もそれはそうだと思う。それを暴かれるのが嫌だから、実は戦後最大の殺人事件にもかかわらず、それほど大騒ぎにもならずに、あの特定の加害者が、どんな生い立ちだったとか、どんな手紙を送ったとか、そんなことばっかり言っている。だけど、そうじゃない。もっと根本的な、誰もが持っている差別心というところに切り込んでいかないといけない。さらに言えば、施設に入っていた人たちはあそこでどういう生活をしていたのかすら報道しない。なんで地域じゃなくてあそこの施設にいなきゃいけないのかということも、ちゃんと考えなきゃいけない。そういうもっと根本的に考えなきゃいけないところを玉木さんはずっと言っているんです」
現在も障害者の多くは地域に出て自立した生活をするのは困難で、障害者施設に“隔離”された生活を送っている人が多い。だが、その実態は当事者以外にはほとんど知られることはない。
「『別々にしたほうがこの人たちは住みやすいはずだ。支えやすいはずだ』というのが今までの考え方なんです。そうじゃなくて、一緒の社会に住んでいるんだから一緒に暮らして、そこで何ができるか、そこに課題があったらそこでみんなで考えればいいじゃん、っていうフルインクルージョンの社会を目指そうというのが世界の潮流なんです。そうすることによって多様な社会ができる。多様な社会というのは何が生み出されるかというと、結局、社会自体が強くなるんですよ。一人ひとりが『あ、こういう場合、こうすりゃいいんじゃねえ?』と考えて工夫するようになるから。じゃあ、自分が逆の立場になった時に、もう当たり前のように、そこのリソースやサービスを使えるようになるわけですから」
『アメトーーク!』的なひな壇にしたかった
『バリバラ』の前身番組『きらっといきる』では毎回ひとりの障害者に焦点をあて、その人の生活を描いたVTRを作り、それを見ながら、本人と山本シュウと玉木という2人のMCらが話し合うという内容だった。
だが、この形には大きな欠点があった。
「VTRで出てきた課題に対して、スタジオでいつも番組MCの玉木さんが解決法をコメントする。すると、それが模範解答みたいになっちゃうんですよね。『僕はこうやってこういう課題を解決したよ』とか『もっと他にもこういう課題もあったよ』とかというのは、本当はそれぞれ個人の体験なんです。だけど、1人に焦点をあてると、ひとつの答えが象徴的に出ちゃうんですね。
そうじゃなくて、いろんなメニューがやっぱり必要で。『バリバラ』では、いろんな人が、同じ恋愛でも『僕はこうだし』『僕はこうだし』と、同じ発達障害でもこんなに違うのかよ、っていうことを見せていくということをしたかった。恋愛なら『だってうちはうまくいってるよ』『うちは同じ状況なのにこんなに違うわ』っていうことが、当たり前のようにある。だから、『アメトーーク!』的にひな壇にしたかったんですよね」
実際、先日放送された『バリバラ』から生まれたスピンオフ的な特番『ココがズレてる健常者』では、100人の障害者たちがひな壇に座り、健常者の芸人たちの周りを囲んだ。
「『きらっといきる』では、最後のほう、出演者探しに苦労しましたけれど、『バリバラ』なら出たいっていう障害者の人たちは多いですね。自分の素の声を発信できる、言いたいことを言えるって。
『多様性』と言う時に、どれだけ寛容であるかというのがセットで語られるんですけど、もう1つ、『個別性』というのが大切だと思っているんです。われわれが本当に多様な、いろんな人がいるというのは、個別性がそれぞれにあるから。その個別性を認識していかなきゃいけない、理解していくということがどれだけ大切かということを、『バリバラ』でももっと語っていかなきゃいけないんじゃないかなと思っています。
たとえばトレンディエンジェルがハゲをネタにしても、他の薄毛の人を同じようにイジっちゃいけないっていうのは、もう社会的なコンセンサスはあるんですよ。でも、障害者や性的マイノリティの人たちに対してはまだひとくくりにしてしまいがちなんです。けど実際は、本当に個人個人違いますからね。こんなに違うの? っていうぐらい」
社会の障害者像を崩すことは、テレビ的なこと
『バリバラ』は障害者=マジメというイメージを壊し、面白い障害者像という新たなイメージを作り出した。だが、間違ってはいけないのは、それもまた障害者のある一面でしかないということだ。
「本当に個別的な問題なんです。『バリバラ』に出ている大西瞳のように義足を手にとって明るく振り回したりするような人もいる一方で、たとえば、突然の事故で障害者になってしまった中途障害の人たちの中には、なかなか障害を受け入れられない人もいるわけです。足を切断してしまった。もう生きている意味を見いだせないと苦しむ人たちがいる。そういう障害受容ができない人のためには、『ハートネットTV』のような番組があるとは思うんだけど、『バリバラ』の役割としても、次のステップを考えなければならない時期に来ているのかもしれない。ひとつの像は提示できたけど、まだ一方の課題は残っていますね」
障害者も健常者も性的マイノリティも在日外国人も抱える問題はそれぞれ違い、その答えも様々だ。なにが正解かはわからないし、正解があるのかどうかさえ分からない。
『バリバラ』はそんな答えのない問いを発し続けている。そしてその裏にはテレビマンとしての矜持が見え隠れしている。
「テレビマンとして、テレビのこれまでのやり方じゃ面白くないんじゃないかっていう思いがあったんです。生身の人間を扱っているドキュメンタリーをやろうとしたら、起承転結のあるものってリアリティーがない。こちらの想定内のものを提示したって誰も見てくれないし、自分たちもワクワクしない。どれぐらいいい意味で裏切れるか、壊せるか、というところは、やっぱりみんなどうにかしてやろうと思っていて。それは『バリバラ』ではある意味やりやすい。なぜなら、これまで福祉のがんじがらめの作りが、あまりにも大きすぎたので、そこはやっぱり突き崩しがいがある。そして、特にそれがメディアのこともそうだし、社会全体がやっぱりそういう障害者像というのを持ち続けているわけだから、それをいかに崩していくかということは、とりもなおさずテレビ的なこと。これまでのイメージを覆していく、そしてそこに新しい価値を見出して、新しいものを生み出したりしていくということだと思うんですよね」
ひびの・かずまさ/1964年、京都府出身。1990年にNHK入局。現在、NHKプラネット近畿総支社番組制作センター統括部長。『バリバラ』制作者として放送文化基金賞、日本賞ノミネート、ギャラクシー賞奨励賞を受賞しており、今も『バリバラ』の制作に関わっている。
写真=石川啓次/文藝春秋