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枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

序奏とロンド・カプリ・チ・オーソ

2010年02月28日 | Weblog
 オリンピックで金メダルを手にした、キム・ヨナ選手が、エキビジョンで踊ったのは、タイスの瞑想曲だった。私は、この曲を生演奏で聴いたことがあって、とても好きな曲の一つです。CDも、前橋汀子さんので持っています。ヴァイオリンの醸す弦の旋律と、氷上で舞うキム・ヨナ選手の呼吸とが、狂いもなくあっていました。言い換えれば、踊っている人を浮き立たすように、曲が合わせていた。

 彼女が何故、金メダルが取れたのかは、一目瞭然だった。氷の上で滑れるだけではなく、曲そのものを体が、心が知り尽くしていないと、人の気持ちには届かない。辻井伸行さんのピアノも、目が見えないから弾けた。のではないでしょう?それが今回、本人も驚く点数に結びついたのではないかしら。

 トリノでの荒川静香選手も、点数にならないことを知りながらも、捨てて尚且つ、惜しくない心での演技があったからでしょう。トゥーランドット姫と、カラフ王子の駆け引きも、全てが必要ではなく、たった一つの愛のためだけに、誰も寝てはならぬ。と命をかけたのです。だからこそ、勝利の女神が微笑んでくれた。と私には思えます。

 天才と呼ばれようが、素質があろうが、弛まぬ努力と、日々の励みが続かなければ、結果には現れにくい。況してや、いざという本番に強いこともあろう。悔しさをバネにして、跳ね返っていくだけの、精神の集中力も欠かせない。『窮鼠猫を噛む』ではないが、窮地に立たされた時にこそ、真実の力は出るのではありませんか?

 序奏とロンド・カプリ・チ・オーソは、天才少年と、主人公の苦しみや哀しみが、フィギアスケートを通して描かれている。読んだ当初は、これがどんな曲かは知らなかった。CDで聴いて、衝撃を受けたものです。クラシックは苦手だったり、聴いてもわからない。退屈してしまう。と敬遠される前に、聴いてみてはいかがでしょうか。この地球上の、あらゆる全ての生命体に、少しでも繋がっていけはしないだろうか?生と死のドラマが、この時点から動き始めるのではないかな?

 チリでM8.8の大地震が発生し、今回は津波の危険も加わった。明日は、満月です。こういった自然現象にも、必ず、地球と月の、因果関係は見逃せません。満月が近かったり、満潮に向けていく場合には、危険が増していきます。どんなに科学技術が進んでも、逃れる術はありません。自然の驚異は計り知れない。今回の地震は、人間の慢心が引き起こしたようにも思えるのです。

 庭の梅が、8分咲になりました。玄関のも、5分かた咲き始めています。自然の叡智を教えてもらえるありがたさに、敬服するばかりです。
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判断の基準

2010年02月27日 | Weblog
 物事を判断する基準。というのはなんだろうか?仕事をする上に於いて、言われたままをすべきか、そうでないかは経験にもよろう。また感情の持ち方にもよるのではないか?とも思えるのだが、一体に判断の基準と言うのは、何処に置けばいいのだろう?例えて言えば、花の水遣り。で言うなら、雨が降っているのには、軒にあれば外に出すであろう。また、明日当たり雨が降る。ということであれば、外に出しておけばいい。

 けれども、何日もお天気続きだったり、他のことを優先したり、あまり好きでもないという自分の思いがあれば、知らぬ顔をしてはいないか。自分でやらなければならないこと。として時間をやりくりしていけば、可能なこともあるが、つい横着をしたり、忘れていたで済まそうとすれば、当然花は萎れてしまう。

 が。高々花である。物を言う訳ではない。枯れたら処分すればいい。そういった思いでいたらどうか?人間にはしないのだからいいではないか。と言えるのだろうか?それは、自分が健康でいられたり、元気な時には思いもよらない。自分を判断の基準にしてはいないか。相手にもよるが、困っている状況は、見れば分かるし、考えるより先に、傍に行ってあげるのがいいようにも思える。

 普段から、多々なる全ての物に、目を向ける訓練をしていれば、自ずと分かることではないのか?花だから、と言うのでもなく、人間だから、猫だから、犬だから。というのでもないのではないか。要は、自分の関心を持てる範囲がどこまであるか。ということにも繋がって往きはしないか。心の有り様な気がします。

 働かなければ、その代価は得られません。でも、そのために、自分の厭な仕事内容はしないようにして、誰かに押し付ければいいのでしょうか?自分にあったやり方で、表面上なことだけで任務の遂行をしていればいいの?どんな仕事にも、相手はいます。決して一人でするのではない。と思いますよ。それこそそういった相手の心を慮る配慮こそ、大切なことになるのではありませんか?

 人間でも、性格も違えば、状態も様々な人の集まりが、地球です。似たような人はいるかもしれませんが、同じ人は一人としていません。でも、あらゆる人と協力は必要です。偏見や先入観があるから、判断の基準が狂ってくるのではないかしら?私も苦手な人はいます。むしろ多い。と言った方がいいのかもしれません。親友と呼べる人は二人しかいません。それでいいと思っています。

 花に心が向けられる人は、黙っていても気がついたり、言わなくても察することができはしないでしょうか?おしゃべりも楽しい雰囲気を作るのなら、それはそれで構わないでしょう。そういう特技だってあるのです。自分の判断の基準がしっかりしている人は、咄嗟の行動が取れる人です。要は、自分という人間を、知っていなければ、できないことにもなります。知性、教養に加えて、冷静な判断も大切な基準でしょう。

 雨上がりの庭に出てみましたら、枇杷葉から花芽の匂いがしてきました。一時、佇んで深呼吸をしました。
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春雨・・・には程遠いが

2010年02月26日 | Weblog
 雨である。昨夜から降りだした雨は、朝になっても止まない。それも雨脚が強い。同時に鉢物への水遣りがさぼれるので、助かると言うもの。うだうだと思いながら、弁当をこさえて、枇杷茶の魔法瓶に淹れたのを、手提げに並べ置き、林檎も加えた。おかずが魚なので、食後に食べるのである。
 
 朝食は、ご飯と味噌汁。それとリエさんの送ってくれた、カルロスさんの珈琲を頂く。さっぱりしている割には、香りがいいし、美味しい。新聞をちょっと見やって済ませた。オリンピックに隠れて、何やら不遜な動きが見える。人間は、生きていくためには、生活がなければ成り立たないというのに、高速を安く仕切り、唯同然の扱いをするから、おまんまの食い上げがなくなって、立ち行かない人が増えてしまった。

 白鳩も、何だか最近は、薄汚れて見え出した。まあ、元々そういった育ちなんだから、庶民の暮らし向きには疎いのでしょう。苦労という真実を知らなさ過ぎる。でも、苦労をしたから偉いのか、苦労をしなくても育ちで豪いのかは、亦違うであろう。人間らしさとか、人と成りは比べ物にはならない。勉強をするだけなら誰にでもできる。偉いのは、学んだことを如何に生かすか。ということである。

 孫が、手紙を書いている。母親の誕生日が近いので、内緒で書くには姥の家がいい。と一生懸命に綴っている。「お祖母ちゃん、読んでみて」と差し出す。小学校の二年生だから、ひらがなが多い。表紙がグッとくる。母親へ、誕生日のお祝いとお礼があり、副題は『わたしをそだててくれたノート』、とある。

 自分を産んでくれたこと。それがしんどかったんだなぁ。とある。私が常日頃から、丸一日かかって産まれたことを話していたのが、印象に残っているようだ。拙い文章には違いないが、目線が緩む。かと思えば、自分の通っている学校の名前の由来を知っているか?等、腹が捩れそうになった。まだ未完成だが、次の題が『おどる少女』とある。こけた・・・

 次に来た時に完成させるそうである。そうでないと間に合わない。内緒と言う割には、バレバレなのだが、私も嫁には教えないし、嫁も聞かない。当日、びっくりするであろう母親に、孫は仕掛けを作っているのだから。孫が可愛いと、嫁を憎めない。何にしろ孫の母親である。嫁いびりをすれば、孫が悲しむだろう。特別に仲良くする必要もないが、適当にしているのがいいというものです。

 この孫は、某作家を恐竜だと教えたら、本気で信じている。何より、その作家に、自分が描いた絵を写真に撮って送って。とせがむのだ。ええ、ちゃんと送りましたよ。某作家さんは、非常にびっくりされておられました。青い恐竜です。私が、初対面の時に着ておられたのが、ロイヤルブルーの素敵なセーターでしたから、驚きましたね。

 暖かくなってきて、銀河は足元の毛布の上で丸くなっています。湯たんぽは外していますが、いい気持ちでいるようです。庭の枇杷葉も、雨に濡れて一呼吸しているようです。
 
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吉凶を言えば

2010年02月25日 | Weblog
 人間とは実に厄介である。従って厄払いをする。特に、と言う訳ではないが、数字の上でのごろ合せが悪いと、気にしなくてもいいことを気に病む。子どもの頃には、意味もわからず逆らっていたが、近頃は、したい人には、それなりの理由があるのだ。と考えることにしている。何だかんだといった処で、本人ではないのだから、安易なことは慎まねばならぬ。

 お化けがいると思えば、怖い。一度そう思い出したら、そういった類の者が居ないとは、到底考えられなくなる。更なる恐怖を味わう。私は、霊魂は何処にでもいるが、さしたる悪さはしない。と思えるのです。魂が浮かばれないのには、理由があるから、解決してさえあげれば成仏する。してしまわないのにも理由があるらしい。それはそれでその生き方が気に入っているらしいのだ。

 私が、気になることは、欠けた茶碗やお皿を平気で使うこと。怪我をするではないか。持った時や、口に近づけた時が危ない。洗っていても指を切る。もったいなくて使っているのなら、それでいいのです。自分が使うには、それなりの気持ちでしているから、たいしたことではない。ケチったりするのが厭であるのだ。それも他人に対しては尚更です。

 次には、鷲掴みで物を持つこと。或いは、食べ物に指が当たったり、汁物に指が入っていたりは、頂けません。見た目がよろしくない。やはり口に当たる部分は、触ってほしくないです。更に言えば、誰彼の構わず、使い回す方には閉口する。何時も何で飲まれているか、見て覚えてもらいたい。名前がないから使った。では済まされない。とも思うのです。

 新型インフルエンザが蔓延するというのも、原因は案外こういった感染経路であったのではないのか?いやいや例えですよ。細菌などという生命体は、顕微鏡でも見つけにくい。なまじかからない方が不思議です。唯、抗体や免疫などが、偶然からか、体内にできていたかで、事無きを得ただけである。同時に、タイミングの佳し悪しもあるだろう。

 生死を分けることでもないが、あるかもしれない。どんなに快適な生活空間を創っていても、細菌の入りこめる隙間はミリ単位以下である。人間などの計り知れない世界なのだ。と思えるのです。厄災は有難くないが、向うからやってくる場合もあろう。しかしそういった場合も、厄ばかりを気にしてはいけない。同時に福も来ていることがあるからだ。そこをうまく乗り切っていくのが、人間の知恵である。

 君子危うきに近寄らず。では何もできなくなる。解決方法は必ずある。そういった冷静な心を持つことで、糸口が見つかると言うもの。物は試しである。やってみなくてはわからない。算盤も、何も弾くだけが使い道ではないだろう。時には、床を滑ってみるのも楽しい。使い方はあるのだ。トニー谷は算盤の使い方がうまかった。腰痛にも効くかも知れん。

 物事は、一遍通りでない。如何様にも通せる。イソップにも、グリムのもそういった教訓がたくさんある。日本の昔噺にも多い。探偵はそういった事柄を多く覚えている方が、信用されるものだ。しかしくどいと疑心暗鬼に陥る。人間とは実に厄介な生き物である。宮部みゆきの『日暮し』を先に読んで、しまった!と思った。慌てて『ぼんくら』を借りてきた。

 白梅が咲き始めたよ。あれ?昨年は、紅梅ではなかったかな?こういうとんまもしでかすだ。世間に疎いのではなく、肝心なところが抜け落ちているのです。
 ドクダミの中で、発芽した枇杷の苗。現在は移植して、プランターで育っています。
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春をかじってみる

2010年02月24日 | Weblog
 今日の勤務は、昼過ぎまでで、しかもお天気は陽気な温かさ。Aさん家に水を頂きに寄って、てあてをしながらオリンピックに昂じ、つい長居をしてしまう。枇杷茶とお八つを頂きながら、ふと流しの上にある薄緑の物体に釘付けになる。あっらぁ、蕗の薹ですよ。Aさんのご主人は、夙に趣のある方で、散歩されてか竹笊に蕗の薹が入れてある。

 春の香りが清々しい。辛子酢味噌を手早く作ってくださって、蕗の薹を3つばかりもらいました。食べ方をしっかり頭に入れて、帰宅しての夕餉に食しました。ちょっとばかりあるほろ苦さが、何とも言えない旨みですね。Aさんによれば、蕗の薹も遅すぎるらしい。立春辺りのが旬であるらしい。自然を大切にすることは、何もほっちらかしや乱獲でなく、時期にある食材をうまく料理して、眼も愉しませてくれることになるではないか。

 自然を知ることは、人間の生活を、地球上のあらゆる生き物の、営みを知ることにもなるのではないか?そんな風にも思ってしまう。この暖かさに、啓蟄を待つまでもなく、そろそろと虫が這い出して来ている。蜘蛛が物干しにぶら下っていた。枇杷葉の葉の裏側には、何やかやと蠢いている。春はすぐ其処である。

 昨日は、休みであった。お昼頃、急に思い立って散らし寿しを作った。具には蒲鉾、沢庵に金糸卵と海苔。それに焼いた鯛の身を解した。青い物がなかったのですが、ふと出窓を見ると、蕪の菜の花が目に入った。それをあしらいにしたら、春の野原になった。孫達は美味しいとお代わりをする。嫁もお代わりをしてくれた。

 最近は、安くて美味しそうに見える物がたくさんあります。お金さえ出せば、誰でもいつでも買えます。でも、そういった物には、防腐剤は勿論、添加物もたくさん入っています。病気になるために、お金を出しているようで、私は鼻ッから遠慮です。安い物をたくさん食べるより、高くて頻繁に食べれなくても、健康なのがいいかな。と思うのです。

 昔の諺には、『腹八分』というのがありますが、働こうとすれば、お腹一杯では動けません。生まれたての赤ん坊が、お腹がよければ眠っていますが、それとは反対です。実際、仕事をしようと思えば、身軽でないとできないのです。かといって、出生率が低いので、若い方には産んでもらいたいですね。でも強制はできません。個々に違った考えがあるのです。生き方が違っていて、至極当然でしょう。

 勤務途上の畑に、白梅が咲き始めました。窓を閉めて走っていますが、梅の香りが漂ってくるようです。我が家のは、未だ蕾が咲きませんが、毎朝眺めてはいます。庭のアネモネがぐんと背を伸ばしました。クリスマス・ローズは、1輪2輪と咲き出しています。春の陽射しに心が躍る瞬間です。2月も、時間の渦に巻き込まれていくようです。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                         
 
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低体温は冷血か

2010年02月23日 | Weblog
 今朝は、頃合いのいい天気で、もうちょっと眠っていよう。と携帯が鳴る。っとに。宅配便であるが、何だってこんなに朝早く、もないか。9時だ・・・。しかし配達物は午前中であったように思うが?この業者、時間指定をしているにも関わらず、昼過ぎて持ってきたりするわ、夕方6時以降だとしてあるのに、5時に来て不在表を突っ込んでいく。

 今朝のように連絡するのはまだいいほうで、指定の時間に配達しないこともある。今や遅しと待っているのに、連絡は愚か持って来ない。エリア担当に電話で聞けば、客番号を言えだの、本日の何時のお届けですか?と、呆けるたことを聞く。こっちが電話しているのだから答えが違っておる。品物が時間に届かないから、電話かけているのよ。理由を知りたいのはこっちです。

 況してや、その到着した品物が、出かける先に必要なの!そのために時間指定をしてるのよ。極めつけは、誰が電話代を払うんだ。こちらからおかけします。って、教えてまでかけてほしくもねえぇよ。頭から湯気が出るじゃない。そういうトラブルがしょちゅうなのね。代わって、違う業者は、至極丁寧な対応をしてくれる。配達の小父さんの態度が柔和で好ましい。何だか自分の都合で配達してもらうのが、申し分けない気分になる。

 で。四季折々のことに、風邪を引かないように。暑いからお茶どうぞ。身体の調子はどうですか?等、話が弾む。親切である。然し、きちんと仕事をされる。言葉や態度に、卑屈でもなく極自然な振る舞いがあって、頭が低いのです。これは業者の問題でなく、その人と成りの人間性なのでしょうね。まあ腹を立ててもしようがないので、できる限り頼まないこととした。トラブルは避けたほうがいいのです。

 昨年の新型インフルエンザでの猛威から、起きたら体温を測る習慣がついた。勤務表に記録をしている。私の場合は、その殆どが35度台で、低い時には34度であった。逆に、36度を越えると調子が悪い。どうやら他人とは危険体温が1度低いらしい。36.5度ではしんどく感じる。まあそれでも今冬はどうにか乗り切った。夏の冷房が怖い!のだが・・・。

 枇杷葉茶を飲み始めて、低体温でも難なく生活できだした。身体の疲れがなくなったし、腰や足を冷やさなければいいので、腹巻は年中している。ウエストが1cmほど緩んだが、何という支障もない。強いて言うなら、スカートがきついだけである。勤務に慣れてきて、油断したのが間違いだった。ケーキや饅頭の類を控えよう。と言いつつ、ロイズのポテトを摘んでしまう。

 枇杷葉茶も、最近はもっぱら種茶にしている。香りがいい。今年も種はもらえるようにしているので、焼酎にも漬け、お茶にもしよう。3年物の風味は何とも言えない。いや、癒されてしまいます。りささん。種茶はいかがでしょうか?
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何処かで春が・・・

2010年02月22日 | Weblog
 今日は、久しぶりのお昼過ぎの勤務だった。駐車場に向かう距離が、ついぼんやりとなるのは、暖かで頭が回転していないよう。然し、ほんとに回転したら大変だが、まだるかしい気温である。明日、雨かな?耳も痒かったりする。帰宅して、雑巾掛けと掃除機をかける。年末以来の掃除です。普段は、雑巾掛けだけな訳で、掃除機までは出さない。

 雑巾掛けを侮ってはいけない。これを丁寧にしておると、痩せること請け合いです。最近横着をしているので、力を入れてやりました。銀河は、掃除機が嫌いで、湯たんぽの上に乗っかって、こちらを見下ろしています。30分程かかりましたが、無事に終えました。ちょうど3時だったので、朝の珈琲をもう一度淹れて飲みました。お茶受けは、しおみ饅頭です。

 勤務先でなら、お抹茶を点てるのですが、他にすることもあったので、止めておきました。この風味がたまりません。おいしいなあぁ・・・。此処のは高いのね。そこいらのスーパーで売っているのとは違うのです。もらい物もこれは有難いです。F堂のワッフルや、某饅頭にはありきたりで、ちょっと厭きちゃった。

 そこいくと、昔ながらのしおみ饅頭には、甘過ぎず辛過ぎずの微妙な味があって、口にすると外側の皮が蕩けるようです。餡子の甘さも程々があっていて、絶妙ですわ。旨い!白とお抹茶と堆、頂いてしまいました。甘い物も辛いのも、どちらも嫌いではありません。贅沢を言えば、自然の甘さがいいのです。

 祖母が元気だった頃は、その殆どが手作りでした。饅頭というより、蒸篭で蒸かしてくれました。小豆は畑で採れた物で、砂糖はあんまり入ってなかった。それでも大満足で食べていました。何せ、お八つがなかったよ。冬の間中、ひもじくてたまらなかった。干し柿の皮も食べていた。柿には、体臭や殺菌作用もあったので、風邪を引かないのだった。

 この時期、蕗の薹を掘っては、湯がいていたような記憶もある。酢味噌で食べるのだが、ちょっとある苦味が、祖母は旨いんだよ。と呟いていた。私は、一口入れて閉口した。子どもの頃には、そういった旨みはわからなかった。からし味噌の方が合うかしら?最近は思うのです。歳月を重ねていき、素材の旨みに辿りついた感じがします。

 この陽気で、クリスマス・ローズの蕾が、ぐんと大きく膨らみました。一日一日、春がこっそり近づいていますね。心が躍ります。白と、赤と、ローズがあります。その色も微妙な色合いで、咲いた時を想うとワクワクします。枇杷葉の根元で、育ってくれたのもうれしいよ。春が何処かで、一斉に翔けようと待っているようです。

 リエさん。お誕生日おめでとう♥こんな素敵な日に、生まれられたのですね。心からの祝福を贈ります。幾つになったかは、お聴きしませんから、ご安心ください。
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上弦の月に

2010年02月21日 | Weblog
 子どもの頃、黄昏時の妙に物悲しい心の揺れは、異次元への入り口へと誘っていった。差し招く誰かについて行き、ふと宇宙を見上げ、月が冴え々と輝いていた。そんな想い出がある。周りで遊んでいた筈の誰もが居なくなって、私一人が取り残されていた。母の呼ぶ声を聴いたようでもあり、そうでなかったような。気がついたら、月の光が燦々と降っていた。

 あれは幻か、夢であったのか。とも思う。一瞬、自分が何処にいるのかわからず、それなのに、思考すれば家の庭に突っ立っていたのだ。なんだかなぁ・・・明見さまの狐に誑かされたのか。祖母が両手をパン、と大きく鳴らして眼が覚めた。へんだなぁ?まるで宇宙をとんでいたようなんだもの・・・。祖母は翌日。豆腐屋に出かけて行き、油揚げをたくさん買って、明見さまにお供えをしてくれた。

 堆、昨日がお正月だったのに、早2月も過ぎようとしている。気忙しいことである。仕事は順調に行けているが、自分の資料の整理に、手間取っているのです。枇杷葉の新しくわかったことを追加して、文章を綺麗にまとめたいんだ。要点がかなりずれていたり、表現方法が拙い箇所もある。推敲してから書けばいいのを、そのまま書いっちゃったんです。随分と独り善がりなところが多いのです。

 ファイルに書いていっていた頃は、漠然とした思いだけでしたが、いろいろやってみる内にわかってきたことも間々ある。知らないでいたことや、教えてもらったことも多い。まあ失敗をしてみなければ、そういった経験ができない。何事も然もありなん。中でも、枇杷葉の実が、毎年鈴生りになるとは限らない。という発見をした。

 人間の思い通りには、一つとしていかない。と言うのにも納得した。こういったことは、学校では教えてもらえない。自然が気づかせてくれる。自然というのは、厳しいけれども嘘はつかない。人間の素直な心には、ありのままに入ってきてくれる。有難いです。学ぶという謙虚な姿勢で、今後も取り組んでいきたいものです。

 時々、大学に行って、研究に没頭していたくなったり、書籍の山に囲まれて、知識を貪欲に吸収していたくなります。物理、宇宙工学、哲学から漢方に至るまで、学びたいことがたくさんある。60の手習い。と言うけれど、諦めないで夢を持ち続けていよう。そんな風に考えていたりするのです。但し、非常に路は険しい。と思えますが・・・。

 枇杷葉のことを知れば知るほど、疑問が浮かび、驚きが広がっていきます。謎がなぞを呼びます。これがとても愉しい。深く掘り下げていく過程も面白い。いやいや思わず顔が綻んできますよ。この醍醐味は応えられません。一人碣たりします。聞き役は銀河です。猫に、人間の言葉が通じない。と思ってますでしょ?まあ、それでいいのです。

 今日は、日曜日でしたね。平日が休みだと、何だか調子が狂ってきますね。自分の休みの日に、お天気が悪いと、布団が干せなくてがっかりします。これも自分勝手な思いです。
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季節は巡る

2010年02月20日 | Weblog
 今日は、バケツに氷が張っていたり、大霜が降りていたりするが、お天気です。この時期には、其処儚と梅の香りがしるようです。孫が小さかった頃には、毎年梅見に出かけていましたが、このところ仕事の都合で行けずです。玄関の両脇に、紅梅と白梅が鉢で置いてあるし、庭にも紅梅がある。未だ硬い蕾です。

 リエさんの誕生日が、明後日だったと思うが、勤務がうまくいかないので、昨日プレゼントを贈っておいた。冷酒、日本酒の3年物です。旨いのね。冷暗所に置いているので、こういうのをグラスで飲むのは、美味しいのです。梅を眺めながら飲めると更に旨い。備前焼の猪口でも、ぐい飲みでもよく、とくとくん。と注いで、たったた。と喉をこすのは応える。

 お正月からこっち、濁りを開けているのが、なかなか飲み切れない。同じ酒蔵のものですが、矢張り冷酒がいいですな。甘くてやさしい味ではあるけど、結構酔いは回る。720mlですが、これを1本も飲むと目が回る。ぶっ倒れてしまう。いやいや下手すりゃ、そのまま100年ほど眠ってしまいそう。

 昨日は、Aさんの家に水を頂きに行き、序のことに手当てをする羽目に。然し、困っているのを知りながら、見捨てれない。で。そのお礼に、コートとトンカツの揚げたてをもらって帰った。コートは言わずも新品でした。トンカツは今日の弁当に入れて食べました。冷えてはいましたが、肉の高いので、味が落ちてなく、美味しかったです。

 勤務先に着て行きなさい。と頂いたのだが、もったいない。と渋っていたら叱られた。その言われることは尤もなこと。小奇麗な恰好で行かないと、仕事自体がいい加減になるでしょう。と言うもの。然も在らん。そうですね。相手に添った、心のこもった対応は、着て行く物で決まる。その日の気分が表面に出るからです。人間の見た目も大事です。

 服装は、くたびれた恰好でなく、洗濯して小ざっぱりな物で行きます。でも、大体がエンドレスになっていき、日替わりメニューが、同じ物になりつつある。だって、未だ寒いんだよ。何だ間だ言っても、寒いと仕事になりません。そこで厚着になり、着込んでしまう。風邪を引いて休むよりいいと思うんだが。

 加えて、毎日に洗濯に耐えてくれなければ。また、活動的な装いでもあること。然も、清潔感が必要だしね。これらに自分の好みも入る。たった1枚の服にしても、いろいろ悩んで買うことになる。シンプルなこと、自分に似合う色は外せない。私は、冬のタイプだから、99%間違った色は買わない。体型もほとんど変わらないから、都合もいい。

 しかし最近は、太ってきました。やばいなぁ・・・。特にウエストの辺りが、ルーズなズボンを履くからだろうか締りがない。いかんなぁ・・・。それともロイズのポテチを食べ過ぎたのか?このままお腹の辺りが、ひな壇になっていったら何としよう。

 昨年の、我が家の枇杷の実です。果汁が滴り、甘酸っぱい味が口中に広がりました。今年もリエさんに送れるかな?りささんや、サンタさんにも送れるといいな。
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自然に学ぶ

2010年02月19日 | Weblog
 今朝は、抜けるような青空に、布団を干そうかと思ったが、瞬く内に雲が広がった。出かける用事もあったので断念。この時期のお天気は変化が激しいので、用心に越したことはない。除湿機のスイッチを入れて出かけた。時雨もなかったようだが風は冷たかった。未だ春遠からじですね。

 庭の枇杷葉は、枯れかけている花芽が見える。先日の陽気さで咲いたのもある。自然はわからない。不可思議が一杯だ。枇杷苗は、そこそこに育っている。昨年のは、小さな葉をつけて、縮こまっている。一昨年のは、20cm程には丈がなってはいるが、葉数は然程ない。せいぜいが8枚程度です。2年物になると、50cmくらいにはなるが、花芽はつかない。

 そういった枇杷苗を、困って居る人には分けてあげたりする。枇杷苗も行った先が合わないと、枯れてしまうことがある。また、災難や厄祭を被って、根つかなかったりする。枇杷葉は生命力の強い木だが、そういったことも間々あるのだ。人間の身代わりをするのです。初めの内こそ、単に枯れてしまった。と思っていたのが、事情がわかると納得得ざる。

 枇杷葉には、何等かの想いがわかるのではないか。とも思うのです。科学的な証明はできませんから、いい加減に思われることでしょうが、人間だけが思考できている生物ではないでしょう。言葉でしか話せない人間と違って、伝達方法が異なるのではないかしら?自然と語り、話せる者が居ればわかることですが。

 そういった特殊な能力を備えていて、何かの折にそれがわかったら・・。有頂天になるどころか、己と我が身が怖いと思う。人の心が読めたり、物体が念じただけで動いたり、視えないものが見えることは。恐怖以外の何者でもない。そういったことに慣れたり、自分を抑制できるまでには、並大抵の精神では無理でしょうね。悲劇って、そういった時に起きるのです。コントロール不能が引き起こす、地球滅亡もあるかもしれない。

 Aさん。せっせと枇杷茶を作っておられる。木から葉を採っているだけだが、結構手間ならしい。それでもなんとかしているのには、私が、生葉を鋏で切り、市販のお茶パックに詰め、丁寧に乾かせて持参していたのを知っているからだ。その手間隙は、枇杷葉茶を飲んでもらいたい。元気になってもらいたい一心であった。手当ても然ることながら、時間を惜しんでは作っていた。

 枇杷葉をお茶にして、差し上げるのは容易い。お金をもらえばいい。ビジネスですればいいことだが、体の芯までは治らない。それには自分から治ろうという気力が欠けてしまう。枇杷葉でしてもらいたい方は、気を病んでおられる。そこがわからないと、病気には勝てない。幾ら外野が騒いでも無駄である。また、一気に治るのでなく、薄紙を剥ぐように、気づかないで治っている。

 私自身、枇杷葉と向き合ったところで、何等生命の不思議さがわかる訳ではない。何となく感じる程度。はたまた小首を傾げる位の納得なのです。知れば知っただけ、奥が深く学んでいくことが努めです。けれども例え小さなことでも、心の中に入って来てくれるのは、とても有難いことです。誰かが、惜しまないでいれば、授けてくれるのです。

 知識というのは、誰の物でもなく、知ったことも自分の物でもありません。神の意思によって授けてもらえることなのです。学ぶ。ということは、与えらた場所に於いてのみ、させてもらえることかもしれません。特に、自然に学ばせてもらえることは、早々あることではないでしょう。

 大地の恵み、宇宙の摂理。壮大な理念には、人間などなす術もないのです。知らないことの方が多いでしょう。それらが全てわかってしまえば、最早人間でなくなります。其処に到達できれば、宇宙の何たるかがわかるのではないのかしら。枇杷葉を静かに眺めながら、そんな想いがいたしました。

 枇杷葉も、春の訪れが待ち遠しいのかしら?ふつふつと呟きが聴こえました。
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