ここを訪れてくれる皆さま。この1年、ほんとうにありがとうございました。感謝に堪えません。枇杷葉の話しを書いていたり、政策の横暴さに怒り心頭になったりする日々。一昨年、同い年の政治家が亡くなって、そのショックも消えない今年、別れがあった。
政治家と余り拘りたくないが、この方は一風変わった人柄で、常に庶民の暮らしを守ってくれていた。精力的に動き、病魔に侵された身体であるのに、水を得た魚のように泳いでいた。でもその水には、毒素が含まれ、気づいた時には手遅れになっていた。
市議から県議に、そうして国会議員になってくれるであろう、とのんびりと構えていた。テレビでの質疑でも、曲がったことには決して眼を瞑らない。やさしさと強さを持ち、素晴しい女性であった。何故、神さまは惨いのだろう。命の価値は同じだが無念である。
新聞の訃報欄で知り、愕然とした。テレビを観ないのは、こういう時には不便だ。お別れの会があったのも、気持ちが折れてしまい、どうしても行けなかった。その哀しみの癒えない今年、児童文学会の第一人者である、末吉暁子さんの訃報に言葉も無い。
お二人とも、熱心なクリスチャンであり、毎週礼拝は欠かさず、家に居ては母であり、妻であったもの。神さま、彼の人は、わたくし達の罪・咎を背負って逝かれたのでしょうか。余りにも過酷な闘病生活でさえ、じっと耐えて、奇跡を祈っていたものを。何故?
個人的には、無宗教であり、神の存在は、宇宙そのものと想っていますが、代わることができたのなら、死をも恐れなかったのに。末吉暁子さんには、上京した折、いつも笑顔で接してもらい、やさしく温かかったことが忘れられない。今以って心に虚しさが。
そうして、県議さんの後を追うようにして、はちのこ文庫を主催していらした、犬飼さんも逝ってしまった。誕生する命があれば、消えていく命もあるのだが、加えて要らない命などありはしない。それでも、惜しい方の逝きかたに、心には涙が溢れてしまう。
横田悦子さん。待っていてくださいね。あなたに恥ずかしくない生き方をして、そちらに参りますから。産まれてきた約束事をきちんと果たして、逝けるようにします。末吉暁子さん、たくさんのやさしさをありがとうございます。春になったら、鎌倉まで遭いに。
白百合。これは、種が風で飛んで来て、いつの間にかどんどん増えていく。抜くに忍びなくそのままに。