何となく気忙しさが残る昨今です。時間の経つのが、とても早く感じられて、動作が鈍くなった分、気づけば一日が終わる。如何なぁ、と思うのだが、慌てていて転倒してもと更にゆっくりとなる。職場に出向いて、その有り様になっている方がいて、びっくりする。夜勤者は1人なので、あっという間だ。
元々、足元の悪い方なのだが、押し車でもなく、疾風の如く走るが、可なり傾いての格好に危ぶんでいる。認知症状もあるので、自分のことが判っておらずで、気の毒には違いないが、矢張り歳を重ねてきていることに自覚がない。でも、かと言って、縛り付けて置く訳にもいかないのだ。重労働でもある。
人間の習性と言うか、今までの培ってきた中で、朝が来れば田畑に行き、夕方には戻って来るという生活では、体内時計が作用するから、じっとしているのが苦痛になるのだ。無論、ご飯を戴かねばならず、三度の食事の用意や、子どもの世話、姑等のことなどが手に余る。施設でゆっくりは無理なのだ。
自分が歳を重ねて、認知症状になった時に、どうするのだろう?とも思うが、本人には分からないので有難い。でも、確実にしていたことや、出来ていたことは覚えているので、違った環境に置かれると混乱を招く。自宅でも出来なくなったことが、新規で遣って来た場所で分かる筈もない。面会もなく。
人間としての尊厳にも、様々な形があるが、子が親を思うよりも、親の子を案じる気持ちは深い。そうしてまた、小さな時へと還っていくのだ。学校に行っている、明日は運動会、遠足等の想いに親は急き立てられる。こちらは現実が解るから、とんでもなく不思議に思える。確かに、自分に都合が好い。
実に様々な方々が、施設に入って来て出て行かれるが、症状の差はあれども、愛情の薄さに愕然とするばかり。自分があるのは、親のお陰でしょう?産まれてきたことを感謝する、心にはなれませんか。物を買って与えるだけでは、躾はできません。他人への迷惑を説くと教え、命の貴さを悟らせてほしい。
我慢したり、譲ったり、お互いが協力することで、人間として成長するのです。欲しい物は、金に任せて買い与えていては、自分を制御することも、何かを遣る気力も起こりません。今時の子どもではなく、大人が遣っている。機械が何もかも遣ってくれて便利かも知れませんが、何かが失われていくのだ。
澄ましているすばる。最近は、携帯やデジカメにちゃんと顔を向けてくるが、アップには弱い。