枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

うさぎのダンス・22

2023年02月28日 | Weblog
 祖母がいなくなって、暫くは放心状態のふみこだった。それにしても、今わの際に祖母が云ったことも妙に気になり落ち着かない。ふみこは小さな時から身内や近所周りの者から、遠ざけられる存在だった。目の前にあることではなく、次に起きることが分かってしまうので気味悪がられた。それも数年先の事まで。

 ふみこはその度に嘘つき呼ばわりされ、何年か経ってのことには誰も取りあわない。祖母は、口を引き結んでいるふみこに「言わん方がええ、その力は今は使こうたらいけん」悔しさに眼を怒らせ泣きそうだった。祖母はふみこの背中を指すってなだめ「神さんがふみこだけにおせてくれとるん、だいじにせにゃ」

 ふみこは心奥底で、言葉が積み重なり繰られ織り込まれる度に視えて来る映像に怯えた。思うことがそのまま視え、そこに自分が居るのにも不思議だった。でも、行ったこともない場所なのだ。ふみこの記憶の残像であり、リョウを思い出せる印なのだが気づかないままでいた。祖母の傍は居心地が良かったのだ。

 月の光が辺りを照らす夜だった。ふみこは、誰かに呼ばれたように庭に出た。月からのあまねく銀のしずくが、ふみこの身体に降り注ぎ包み込んでいく。楽の音が耳に冴えわたったかと思うと、御仏の姿が視えた。差し招かれる心地に、ふみこはついと手を伸ばした。月に往きたかった、何故か知らず募る想いで。

 祖母がふみこの身体を強く引き戻し「今は往っちゃならん」朦朧とした意識の中で、祖母の必死な懇願を耳にふみこは寝床に連れ戻されていた。祖母ちゃん、兎がおったな白兎と玉兎言うたわ。昔のことじゃふみこ眠れや、という祖母の声を聴きながら胸にせり上がって来る想いを持て余していた。リョウ誰なん。
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うさぎのダンス・21

2023年02月27日 | Weblog
 宙に浮かぶ顔は、ふみこの知らない人だった。それなのに懐かしさと感情の波に揺れる心があり止まらない。意志の強そうでありながら気持ちを押し込めての眼差しに、にっこりとした時のやさしさが翔けていく。誰なの?あたしに何か言いたいの?何を伝えたいのだろう、ふみこは思い出そうとするが激しい痛みに苛まれる。

 リョウがいないの、あたしの腕から取り上げて連れていくなんて。あの時に、ふみこの心は鏡と同時に砕け散り元に戻らない。ふみこの去るのを見ていたまさ婆は道を歩いているその姿が、急に失せたのに腰がぬけた。あの二人が何処から来て何処に往ったのかと、不思議な思いでいたがその途端に二人との記憶が消え去った。

 ようこさん、誰かが呼ぶのだが…それはあたしの名まえじゃないわ。まちこでもなくひろこなどでもない、あたしはあたしなのに誰も気づかない。ふみこは時を翔け続けていたのだが、転生を繰り返しては蘇るので自分がもはや誰なのかが判らなくなった。夜のしじまに観える数多の星に眼をやれば、懐かしい響きが聴え来る。

 ふみこは、姿も名まえも異なりながら時を彷徨い翔け続けていた。心の奥底に誰かを捜すという想いだけがあり、感情を表には出さない無表情な者でしかない。何もかもが無意味で、呼吸をするのさえ煩強く思え自分を消したくて堪らなかった。学校に通うのも誰かと仲良くしようとも考えず、祖母だけが唯一の依代だった。

 その祖母も、ふみこが二十歳の時に彼岸に旅立った。「ばばは、あちらからのお迎えで逝くが…おまえのことが気がかりじゃ」ふみこは訝し気に祖母を見た。「おまえの捜しておる方はな、離れた処に居るけども一緒にはなれん」何を言うとん?さがしておる方って誰のこと?記憶の断片が薄れて散らばり、頭の芯が痺れていく。

 旧暦 針供養・こと始め 小潮・上弦
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如月に閏月が入る

2023年02月26日 | Weblog
 旧暦での一月は、日数が二十九日と三十日になる、その為に、年度での調整を行うのと時刻を標準にも合わせる必要が生じる。天地明察・冲方丁作家の書かれていることに、暦の大切さを再認識した覚えも。カレンダーは曜日と1週間での区切りなので、月の満ち欠けとは遠く離れてしまうし時には身体が伴わず。

 今朝も寒さは緩まずで気温も低く寒いが、雲は広がるものの天気に。庭の白南天の実がすっかり啄まれてしまい、枝だけになっている。赤のはとっくに消えていて、この処姦しかった原因も判明した。枇杷葉にも飛来で、目白始め野鳥が蜜に群がる様に驚くことも多いもの。こちらの思いとは裏腹で、あちらは餌。

 昨夜は、中々眠れずで混沌としていた。そろそろ起きようとして着替えていたら、足湯に行きたいと連絡が入る。ん?日曜日じゃないかと思うが、夜勤明けなのでお昼を持って行くと言う。正午に図書館の駐車場で待ち合わせ、足湯を施行して就寝中。エアコン点けてのことに満足している様子、何処がいいのかな。

 団地の会長をすることになり、厭いやでは気分も晴れないので承知しておく。副会長を指定させて貰ったので、その方との連携でしよう。高齢者・自分では思うが、順番て酷くね?若い方々に是非とも遣って貰いたくあり我儘なのかと内心では。まあ引っ越して来て早や20年も経てば、要領は分かるが体力的に無理。

 連載も明日からの第三章になり、粗筋を思い起こした当時からは数十年が経つのも灌漑深い。あの時には、その映像が判明せずで風景が視える度に疑問も持った。この物語を書くに中り、次々と現れる現象にも必然的な事象を感じる。決して偶然からのことではなく、あの場所に還る為であり試練とも想えてなの。
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気温は低いが

2023年02月25日 | Weblog
 庭の梅が蕾を膨らませて、近日中には咲くかと徘徊したものの寒い。8℃であるのに、天気なのを当て込み布団を広げておいた。風も少しあるようで、ほかほかにはならず如何せんと仕舞う。すばるもストーブから動かずで、実に温度を知っていると感心する。湯たんぽを入れた毛布に潜り、寛いでの様子なの。

 寒中に作業した枇杷葉茶を段ボール箱で管理中だが、風を入れるのに時々混ぜる。魔法の言葉も忘れなく、何処かの誰かへ援けになればとも思える日々です。枇杷葉の花芽は未だ堅い蕾も沢山あり、春分近くまでを咲く。一律に咲いてしまわないのは、昆虫の媒体を分けている為で結実を確実に行っているのだ。

 旧暦の長月辺りから、陽当たりの良い南側が最初に咲き実を結ぶ。次いで少し南西に移り、長崎茂木が綻んで満開となり庭中が香だす。我が家の品種は長崎茂木・田中・房州と、自然交配のも多く育つ。苗は鳥の啄んだのが発芽し何時しか大きくなるので、随分と増えてでせめぎ合う為あちこちに持参配布した。

 苗と云えども10年以上のもあるし、発芽して3年ばかりのも。移植時には根を傷つけぬことと、時期を誤らないことが肝心。特に人間の都合で、植えて直ぐに動かせたりは樹が弱るので気をつけたい。せめて声をかけての作業であればとも思うが、邪魔になるからは禁句。何でもかんでも手当たり次第に植えぬ。

 幼児が育っていく過程で、あちこち環境を換えられると人格形成に多大な影響が出る。本人の理解度を遥かに超えることもあろうが、複雑に感情への拘わりは否めない。枇杷葉も同じだと個人的には思え、その気持ちが必ず己に還って来るものと心得る。自然との対話には、精神的な開放を伴い素直さに直結する。
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うさぎのダンス・20

2023年02月24日 | Weblog
 その朝、早くから暑い陽射しが照りつけていた。リョウの姿を見かけていないが、母屋だろうと洗い張りを始めたもののふみこは胸騒ぎしてならない。まさ婆に聞くと、学校のお仲間と出かけたようだと告げられた。ふみこはリョウが、誰かと遊んだりしないのも知っている。三学年にもなると、傍にいるばかりもできない。

 それにふみこの熟す仕事は増える一方で、まさ婆ばかりに頼れもしない。機を織るには綿の栽培もで、初夏の声を聴けば植え付けていくし手入れも怠れない。山の斜面を鍬で耕し、土を均したりしておかねば苗は育たないからだ。冬の間に作業を終えるのもあり、かじかむ手を擦りながら惜しむことなく身体を動かせていた。

 リョウを見かけたら、ふみこは綿の花を見に行こうと決めていた。洗い張りの糊を煮詰めながらも、離れに来るであろうと木杓子で掻き混ぜていたものだ。それがその日に限って、リョウの顔が目の前に浮かぶしで妙に気になり心から離れない。ふみこ!背中にリョウの声を聴いたと振り返えれば、まさ婆が顔色もなく立つ。

 ふみこは、まさ婆の止める声も聴かず駆けた。リョウさん!あたしを置いていかないで。水の音がしているのは川だ。山際を縫うように流れており、川幅は狭いが岩の多い水底の深い場所もある。ふみこは翔けながら、リョウの意識が途切れてしまうのを感じた。ぐったりと横たわるリョウを腕に抱き、ふみこはへたりこむ。

 ふみこは身体が弾け飛び、砕けそうだ。リョウさん、なんでなん?川に行っちゃいけんてあれだけ言うたじゃろ。河童が悪さしたな、これからは胡瓜も何も供えてやらんわ。ふみこはまだ温かさの残るリョウを胸に適わずと知りながらも、願わずにはいられない。自分の命と代えてと、リョウへの想いを籠め祈るふみこだった。
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うさぎのダンス・19

2023年02月23日 | Weblog
 ふみこはリョウを送り迎えし、まさ婆に代わっての台所や家畜の世話に明け暮れていた。夏が来ると少し長い休みになり、リョウはふみこが立働く姿を見ていて奇妙な物を作り上げた。竹細工だが人形の手や足が、時間で動く仕掛けになっている。「ほらっ、ふみこがしていることだよ」ふみこは眼を丸くして感心した。

 リョウの作る物を見ながら、ふみこはそういうことを思いつくのに不思議な気持ちで「リョウさん、学校で習うの?教わるん」「誰も教えてはくれないよ。僕がね、考えて作るの」ふみこはリョウを間近に見て、なんて強い志なんだろうと思う。同時にふみこの心を捉え揺さぶりだし、寄せる波のように浸すのだった。

 リョウには学校という場は必要なく、知識にかけては教師よりも多くを知り得ていた。ふみこと一緒にこの時代に紛れ込んだ限り表向きには通らないし、まさ婆が困るのも承知だ。リョウが、年齢よりも年かさに見えるのも正直なところだ。ふみこはリョウに対して時に気持ちがおいつかずなのが、もどかしかった。

 ふみこの月日は、日々の暮らしに追い立てられる。風に涼やかさが混じり、天空に輝く星の位置が変わると冬支度の用意だ。山に栗を拾いに行き、茸類を探しておいたりも欠かせない。柿は皮を剥き藁で紐を編んで吊るすのも、まさ婆とふみこの仕事だ。柿剥きには、茣蓙を膝に敷いてするのは渋が付くと落ちないのだ。

 枇杷葉の樹に花が咲きだすと、冬を知らせる雪が散る。ふみこは、花の香りとその姿に自分を重ねてしまう。まさ婆は枇杷葉に関しては長けていて、表には回れない者に頼りにされている。ふみこは、まさ婆のしていることからも眼が離せないのだった。学校に通わずとも、学ぶ気持ちであれば知識は増えるのだもの。

 暦・別記 天皇誕生日 八せん始まり
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気温上昇・猫はすばる

2023年02月22日 | Weblog
 晴れたので、布団を干そうとしたが携帯にメールあり。足湯に行きたいとのこと、唐揚げも食べたいらしく急遽予定変更になる。ご飯も炊いて、お稲荷さんをしようと準備。夜勤明けを着替えて直行と云うのは、落ち着けば眠気が出る為なのでOKの返事を入れる。連載は休みにて明日に回そう、気持ちを切り換える。

 それにしても、物凄く良い天気に眠さを誘われる。8時間はたっぷりなのに、春眠暁を覚えずの心境。寒さの区切りもついたか庭のクリスマスローズだけではなく、アリッサムや球根類も新芽を覗かせたり勢いも良くなってきている。本格的な春に向い、季節は忘れずなのも有難いことと感謝を忘れずでありたくもで。

 すばるのトイレを朔日に換えられなかったので、昨日決行した。排泄が済めば必ず知らせに来るのだが、早よしてなと煩い。二つ返事だと傍まで来て催促し、飼い主の態度を図ってか?物品の値上がりで、人間は我慢だがすばるには通用しない。分量を減らす?それもなぁ…最近はご飯を横取りされて痩せる一方なの。

 卵料理には目がなく、オムレツや卵焼きに催促をしてくる。いるの?にゃう、即答であるがお箸で取り分けてでないと勝手には食べない。右手を出して頂戴をするので、これに弱い。決して甘やかしてではなく、何時もは知らんぬ顔でいるから好物なんだ。菓子パンも美味しいのでないと、近寄って来ないので分かる。

 枇杷葉を飾っていたら、花芽を齧っていた。お茶で飲用してなので、違和感がないようなのも可笑しい。枇杷葉茶も我が家のは無農薬・季節限定を、誰よりも知っている。農薬が少しならと飲む者の気が知れぬのは、価値観の違いかもと。これまでに寒中での作業を諄い程書いて来たが、悩む理由が不明でもあるのよ。
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うさぎのダンス・18

2023年02月21日 | Weblog
 梅が咲き始め桜に桃が綻びて来るのは、冬の寒さがあればこそとふみこは早朝の空気を吸い込んだ。明日からはリョウの通う尋常高等小学校に、ふみこもお供で行く言いつけだ。リョウはその前から母屋に移り、神妙な面差しで大人しくしている。妙に大人びた顔つきが、ふみこから急速に離れて行くようにも感じる。

 ふみこの日常は相変わらずで、リョウに付いて行くからといって仕事が減るものでもない。まさ婆のことを思えばふみこの方が身体は軽いのもあり、一つでも多くして出かけられる。時間にぎりぎりまでを働き、小さな手鏡を覗き見てふみこは着替え支度する。リョウが数日前に渡してくれた物で、苦心が見てとれた。

 リョウは少しはにかみながら、懐から手鏡を出しふみこに差し出した。渡される時に触れたリョウの手の温かさは、ふみこの胸の奥底まで沁みた。「あたし、リョウさんに何も…」「僕からふみこへのお礼だよ、受け取ってね」リョウのやさしさに、ふみこは視界がぼやけてきてしまい堪らなくて思わず背中を向けた。

 学校には歩いて行くので、リョウの後をふみこはつかず離れずで送る。下校時間までが長いので一旦帰って来て、その時間には門の側に立ち待つ。雨の降りそうな日には道がぬかるむため早目に出掛け、リョウの姿に駆け寄るふみこだ。帰り道ではリョウが学校でのことを話すので、その度に新鮮な気持ちで耳を傾ける。

 ふみこはリョウの話を聞き逃すまいと、真剣そのものになる。まさ婆にはふみこからが多くだが、時折リョウが離れに来てかみ砕くようにしてくれる。まさ婆には、字が読めるのが何よりもうれしいものか土に木切れで何度もなぞる。ふみこはここでの暮らしをたのしみ、リョウと一緒なのも心の片隅に安心が膨らむ。
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如月・朔・大潮、春一番

2023年02月20日 | Weblog
 青空が覗き洗濯物を外に出し、予定をこなして行く。強風にたじろぐものの、冬場での刺すような冷たさはなく気が緩む温かさで有難い。春一番かと思うのは、雨水が基準になる為で春への気温も徐々に上がるもの。こういう天気の不安定さに、体調が低迷したり情緒に何等かの異変が起きることもあり得えますから。

 難題・火の粉が降りかかって来た時に、火傷をしてもじっと我慢でいられるか?熱いと叫ぶだろうか。無論、悩みもするし解決策も講じてみる。現状維持への努力をするが、辺りは煙と熱で呼吸さえ出来なくなれば覚悟をしよう。悩み事相談という行政は嘘つきばかりが多くなのも、人員の配置さえ疑問に思えるわ。

 そりゃそうだわ、他人のことですし最終的には自分の判断とにべもない。資格は持っていても、四角四面の物云いで終始するのが定番。ちがうんだなぁ…、これ以上は精神的に無理と思うからを、頑張って下さい。命を粗末にしているのでもなく、気力も体力も尽きた状態の何が判ると云うのだろう?それでも尚で。

 人格形成には、自分も気づかない我が潜んでのことがある。人体には五感以外に、第六感も備わっていて何かの時に表面に出る。自分でありながら、不信感と違和感に捉われるから判るのです。己に正直であろうとして他人へは辛辣な言葉や態度をとり、相手の出方を伺う。わたくしにも無いとは思えずの時がある。

 頑張らないのも、身体・精神的に酷使は止めたのよ。此処に至るまでには、羹に懲りて膾をふくの心境に達したからでもある。年齢的にも無理や無茶は出来ないし、そこまでの気持ちも更々失せたのも事実。但し枇杷葉で援けてと請われれば、無下にはできないのは真実で気づいてと祈りつつ想い見守るしかないのも。
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雨水・大潮・睦月

2023年02月19日 | Weblog
 二十四節気 雨水 冬の氷水が陽気に融け、天に昇り、雨水となって降るの意で、雨水と云う。毎年、二月十九日頃である。昨年にも感じたが気温が上がり、温かさに感謝。連日の雨に、洗濯物が乾かないというのも致し方ない。着替えはあるので困ることはないものの室内での乾きに遠慮、ストーブを点けた。

 枇杷葉茶を煎じつつ、今朝の新聞にあった献立を思いつき鍋に水を張ってじゃが芋投入。茹で上がるまでにと図書館に出向き、返却と貸し出しをして階下に降り選挙を済ませ帰宅。頃合いも良くてじゃが芋の皮を剥き、ボールに蕎麦粉を容れて混ぜ焼く。フライパンだと焦げ目がつかずで、途中からトースターに。

 新聞に載っているのとは大違いになるが、安上がりとお腹も一杯に。蕎麦粉もね、使わなきゃ意味ないと試行錯誤の日々です。野菜も一工夫で食卓が賑わうが、今朝はご飯と梅干にしたのをすばるに横取りされてしまった。年金だけでは相当に考えないと底を突くので、暇もなければ認知症状等至らぬのも正直とも。

 枇杷葉茶での健康維持に医者通いはしない為、読書優先になれるし自分の時間が愉しめる。人間嫌い・運動音痴であるから、散歩は元より出歩かない。相手の気持ちが無断で入り、気を遣うのも半端ないと疲れ果てる。何が楽しくて?面白いのかが不明で、沈黙状態。図書館で借りた書籍を、静かに堪能が好都合也。

 現在進行中の物語も粗筋・シノプシスは出来ているので、その肉付けに支障部分を削ったりも愉しい。祖母のことを書ければとの想いと、当時の暮らしも見逃せないから。野良仕事は過酷な上に全てが手作業で、手伝いよりも遊び半分だったのを詫びたい。祖母の細やかな楽しみは野良に咲く花々で、眺める姿が甦る。
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