東京工学大学の構内に、それは見事な桜がある。まさかの偶然だが、訪れた時には、卒業式の真っ最中。着飾った学生で溢れていた。今年は都合がつかなくて、晴れ姿を見られないのは残念極まりない。桜は、咲いているのでしょうか?
勤務途上の川沿いに、桜並木が延々と続く。孫の通う小学校であり、生徒数が少なくなって閉口に追い込まれた。今や、科学技術の最先端である。授業方法はいくらでもあるのに、難だかんだと行政の手回しで、子どものことは考えない。
原発再稼動を許可する判決が相次ぎ、広島や長崎の、福島の二の舞を繰り返す愚かさに、言葉を失う。原発が、核の残留物を出すからで、プルトニュームの処理が、安全で安心であれば問題ないのだ。だが、それは絶対にあり得ないよ。
萩尾望都さんの著作、菜の花に、放射線の危険性を訴えてきた科学者の懸念さえ、知ろうともせず、自分達の儲けばかりを優先する。電気は、原発に頼らなくても、充分にあるというのに解せない。物価も上げる腹心算に、やはりと思う。
安倍政権の杜撰さには、自分等の金でないから、好き勝手が出来るのだ。これが、あくせく働いて、生活している者であれば、無謀な政策にはならない。庶民の心などに無関係に、戦争へと向きを変えていく。需要と供給の落差解消策だ。
人民の人民によるが、何時しかアメリカのアメリカによるになっていっている。平和に慣れた今では、戦争こそ儲けになると考える。下請けや孫請けは尚更であろう。然し、戦争が始まれば、地球は一瞬にして消える。形だけは残ったとしても。
豊かな暮らしどころか、誰も彼もが生活できなくなる。昭和の時代なら、庭を畑にできたものが、コンクリートの上では、何も育たない。土もない状態で、放射能が溢れている場所で、一体どうやって生きていくのか。原発の再稼動は戦争への路。
誰もが、自分達は大丈夫だと考えていることだろう。でも、万に一つもあり得ない。生存者すら不明な状態で、誰が誰を探せるのだろう。自分の命の保障さえ、負い切れない事態に、どうやって対処するのでしょう。地球の滅亡は隣り合せです。
初冬の澄み切った空に、花芽の満開状態が映える。匂いも、風に乗って静かに漂う。やさしい香りに佇む。