枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

星は瞬く・・・

2012年02月29日 | Weblog

 この時期、月と木星と金星が並んで観えるのだが、生憎のお天気に阻まれている。先日、ちょうど観えた時には、携帯撮影ができなかった。ちょっと高い山に行けば、水星も観えるのだ。今年は金環食もある。宇宙の天体ショーは華やかです。

 人工の光を夜間点灯するなど、電力会社に味方して、原発の放射能を浴びているのに等しい。宇宙を観ていれば、地震や津波のこともわかる。農事暦というのは、天変地異を知らしめる。土をいじくり、風の匂いを嗅ぎ、雨の色を見て感じることがある。

 自然の力を借りることは、自分のできることを返すことでもある。そしてそこには感謝の念がなければ、成り立たない。人間は、お互い様だと言いながら、自分の都合勝手を主張する。如何なる時にも正しくありたい。

 宇宙を観ていると、数奇な運気が伝わってくることがある。体に入ってくる波動を、誰かが必要とすれば、分けてあげられるが、邪気があるとたちまちにして毒となる。だが、そういったことが理解の範囲を超えているため、言葉を尽くしても無駄なのだ。

 Aさん家に寄る。リンパ腺マッサージをお嫁さんにしていると、小さな可愛い瞳が、真っ直ぐに見つめる。甘えた仕草で近寄って来る。抱き上げると声を出して笑う。あまり抱っこも拙いかと思ったが、愛らしさには勝てない。小さく軟らかな手が、顔中を触る。

 未知なる輝きの星の運気。果てしないエネルギー。眼には視えないが、天から降り注ぐ。その洸の渦に引き込まれぬよう、感謝することも忘れないでいよう。運命の不思議な糸が撚り合わさっていく。自然への畏怖の心を持ち続けよう。

 冬至の柚子。皮は味噌に入れたり、香りに玄関にも置いた。種は、洗って瓶に入れる。手荒れに良く効く。

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次元の違和感

2012年02月28日 | Weblog

 高い山から谷底見れば、ちょいなちょいな・・・。高い所は苦手である。であるが、高いという事に気づかなければ、どうということはない。屁理屈である。何億という金を持っていないから、破産したということもない。然し、原発の放射能は、見えないから怖い。

 見えないものが視えるから、尚恐ろしい。放射能は見えないが、体内にあるのがわかるから。私の手から出る波動には、悪い物を探り当ててしまう力がある。その人の思考がわかる。言い当てられた本人は、怖いだろうな。それがわかる自分が怖いよ。

 まあ、得てして信じようとはしないから。その方が都合がいい。枇杷葉茶を薦めるのも、本気になっては言わない。気の毒にとは思うが、教えても無駄な気がする。次元が低い。思考回路もお粗末なもの。そういう人に、心を尽くす義務もない。

 友人がお遍路に出よう。と言う。えっ~、誰と行くんだ?って、私とか!小豆島なら直ぐに回れるが、四国だと日数が半端でないよ。と、説得しようとしたが、何としても行く決心。四国には、牧野富太郎の記念館がある。巡礼では行けない。

 弥二・喜多道中になる気がする。それもあるが、このブログをどうするんだ?ああ・そうね。USBを持っていけば書けるか。色々と案じているというに、友人は孫の受験が終わったから、心配はないと言う。家庭放棄である。感化されてしまった。

 旧暦では如月。ところが早や、お雛様を出す。気の毒なお雛さま。寒々としていて、お風邪を召しますよ。とてもうれしい雛祭りの雰囲気ではない。スローライフでいけば、自然と共にあって、桃の花も咲いている。霞も棚引く。雪花ではないか。

 山茶花。垣根の垣根の曲がり角、焚き火だ焚き火だ落葉焚き。あたろうかあたろうよ、北風ぴいぷう吹いている。実に適切な歌詞です。

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邂逅

2012年02月27日 | Weblog

 きゃきゃと声を立てて笑う嬰児。あっくん、うっくん、うぎゃうぎゃら・・・。耳を清ませば、その語りかけがわかる。この愛しき者は誰ぞ。予知夢だ。美しく大きな、星が流れた。然し、実際には観ていない。その児の運気が輝いている。

 先日、腰痛で仕事に行けなくなった時、数時間だけ使ってくれた人に、やっとお礼ができた。書くと長くなる。その人とは、独身の時にも出遭っていた。その後、何かに付け影響されることが多かった。Sさんとは違った意味で、援けてもらった。

 当時、ハローワークに通うものの、思った仕事の内容でなく、焦りを感じてもいた。新聞の折込広告を見ての応募であった。数時間の見習いであったのに、賃金をくれた。驚きの大きかったことは言うまでもない。電話をすると覚えてくれていた。

 事務所を構えている。とのことで、サンタさんからの珈琲を携えて行った。思った通り、方角が悪い。災いは除かねばなりません。そのことを伝えると、お礼を言われた。できる範囲の注意点を促して帰る。何故、そういったことができるのか、今以って謎です。

 Aさんの家に久々に行く。お嫁さんとお孫さんが居た。何と、お孫さんが、Aさんの抱かれていた腕を抜け、傍に近寄って来た。だっこしたり、あやしたりしている内に、眠り始めた。小一時間、腕に抱き、肩にもたれてすやすやである。

 お水を分けてもらって帰宅。勤務先では風邪が蔓延。マスクをしていても、咽喉がイガイガする。暖房のかけ過ぎ、室内を締め切って、澱んだ空気を入れ替えて。自然の摂理に適った方法で退治しないと、何時まで経っても風邪は治らない。

 

花芽のアップです。これをお茶にして飲むと、更年期障害や、うつ病、自律神経失調症に効果があります。漢方とは、体全体をやさしく包みこみます。

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思考停止・・・

2012年02月26日 | Weblog

 梅の蕾が程好く膨らんできた。全国の梅の名所に、その香りが漂う頃でもある。東風吹かば匂い起こせよ梅の花、主なしとて春な忘れそ。この句は余りにも有名だ。私にとっての梅園は、月ヶ瀬が印象に深い。春浅い一日、奈良を訪れて堪能した。

 中でも、白梅の香りがいい。その清楚な姿にも惹かれる。光源氏が元服の前日に、藤壺の宮に手ずから渡す。明日からは御簾越しでないと、言葉もかけられない。少年の真っ直ぐな心を、白梅の1枝に託して渡す。藤壺の複雑な想い。

 草原の風。天が人を生かす、という件に心を打たれる。そうなのだ。生かされるのも、死せる時にも同じであろう。難しいことはわからぬが、森羅万象の如く、人は神によって命を与えられる。神とは宇宙で、そこには膨大な気が集まっている。

 人は皆、何らかの使命を携えて生まれてくる。気づく者も居れば、そうで無い者も居る。そこに己の意思を持ち、行なうことができれば尚よし。凡庸に生きることも可なり。残酷で無慈悲なのは神なり。慈愛に満ち、行くてを照らすのもまた神なり。

 人間は嘘つきなのだ。自分本位に解釈すれば、真実になるかもしれない。然し、それだけなら許されもする。人が人を殺すことは許されず、他の生き物ならば由。己が命を守らんが為に、その生き物の命を奪うことは正しいのか。

 人類は、原発を造り、眼に見えない放射能に脅える。電気は必要だが、無駄なことには拒否がいる。原発が止まれば困る。と、定期検査を延ばす試みの、柏原発。北海道で地震や津波に来られたら、逃げ場がないばかりか近隣諸国にも被害は甚大。

 

パソコンの後ろに飾っている、観葉植物の類。ポニーテールもあるよ。娘が育てて。と置いて行った。土が乾いたら水遣りをする。

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漢方の優れたところ・・・

2012年02月25日 | Weblog

 日本に古来からあった。尤も、中国から渡って来た物もある。遣唐使、遣隋使がそうだ。漢方の優れたところは、副作用が少ないこと。全くないわけではなく、出る症状は格段に低い。体に優しい。つまりは、胃に柔らかい。西洋薬は部署的な効果に左右される。

 漢方は、体全体の機能を促進させ、できうる限りの、自然治癒能力に徹する。即効性もあるが、緩やかな働きをすることが多い。薬どうしの摩擦が少ない。個人差はある。殆んど、1ヶ月くらいを目安にするのがいい。

 枇杷葉茶には、血液を清浄にして、細胞を活性化し、各々の役目と働きに分ける。その上で、体をコントロールできるよう、自然な動きにもっていく。他の漢方といっしょでもいい。枇杷葉茶単独でも可能。血液を綺麗にするので、血管の中を規則正しく流れる。

 動悸、息切れ、不整脈や、顔の赤らみ、浮腫、自律神経等への働きを促す。乳幼児や子どもにも危険はない。然るに、専門医にご相談されるのがいいです。漢方は高い。と言うが、副作用を考えれば、体のためには尤もなこと。

 テレビに出ているアナウンサーが、いろいろ話していたが、これは常々、私の言っていること。科学的な根拠も、研究の資料もないから、あまり大きくは云えなかった。でもこれで確信を持てたのも確かだ。枇杷葉茶だけではない。ドクダミも、鉈豆も同じです。

 日本の野に自生する薬草は、とても再生力がある。ドクダミは無論だが、スギナやセイタカアワダチソウ、蓬、オオバコ、千振、山女等、旬の季節に手に入る頃が最適なのだ。殆んどの人が、見落としてしまう旬は、旧暦が教えてくれる。

 冬は寒く、夏は暑いのが当たり前です。四季のある生活ができる日本だからこそ、そこに古来からある野草を摘み、自分の体に優しい効き目に転じる。そういった工夫は、とても大切なことです。電気はなければ困りますが、冷暖房を利かせ過ぎはどうかな?

 今年、光度はー2.6等星。昨年の輝きをそのままに、線を引いたように金星のー4.2等星、水星ー1.1等星が観え、月も斜め一直線に並びます。

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春に近づく・・・

2012年02月24日 | Weblog

 昨夜もそうであったが、この暖かさにストーブをつけなくていい。電気は無論で、灯油も同じである。氷が音を立てて、割れているようで、何か心が弾む。僅かではあるが、春は刻々と近づいて来ている。梅の蕾も綻びつつある。

 旧暦によれば、今年は弥生に閏弥生が入る。従って、春は肌寒く、長い季節になる。先一昨日からの如月で、次が弥生。閏弥生はその次に来る。子どもの頃、春が長く感じられ、一気に真夏になったことを思い出す。

 年を重ねる毎に、そういった暮らしの一端を思い出すのは、物には不自由であり、不便を強いられていた事とは裏腹に、何と自由であったことか。貧しい台所事情であるのに、何故か懐かしさがこみあげる。誰でもなく経験したことがあり難い。

 先日、湯たんぽを机の下に入れていて、毛布を直そうとしていたら、眠っている銀河が居た。寒い時には顔を擦り付けて布団に潜り、熱くなるともこもこと出て来た銀河だ。胸の上に、足元に、懐へと丸くなっていた。

 父と母に、銀河へとお茶を注いでいく。毎朝、どんなに時間が迫っていても、これだけは必ずしていく。父や母の手が、銀河の姿が透き通って視える。きっと視えなければ、滑稽な風景だ。朝も銀河に『行って来ます』と言う。帰宅も同じ。

 野良猫の毛並みの黒を見れば、銀河が浮かぶ。思わず、名前を呼んでいる。きっと私が往く日まで、ここに居てくれるのかもしれない。実際、同居できる環境ではなかった。それでも、捨てるには忍びない想いがあった。

 今年買った、岩合さんの『のら』のカレンダー。可愛さだけでない、自然に生きる逞しさも兼ねる姿に、胸がじ~んとなる。猫であって玩具ではない。着飾ることとは無縁の野良に、拍手を送った。血統書つきが、強ち幸せであるとも云えない。

 3年物の淡路田中枇杷。ここには鉢と地植で5本ある。まさにひしめき合っている。間隔をあけよう。

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気温が緩む・・・

2012年02月23日 | Weblog

 風邪の要因は、閉め切った状態で乾燥が続く事にある。クシャミが出る。鼻水もそうだ。手洗いや嗽を徹底しないことにもある。きちんとした対応がされていれば、感染などしない。皆、いい加減である。一番可笑しいのは、マスクをして鼻を出すこと。しないのがいい。

 私は、自前で持って行き、きちんとつける。出勤時の手洗い、嗽は無論のこと、退出時の時にも、同じようにする。これが意外と落とし穴。自分の身を守ることもだが、他人に対する迷惑にもなるのだ。風邪は感染するものだから、移っても仕方ない?違うよ。

 暖房のかけ過ぎ、換気をすること。湿度計にある針が、危険地帯を指していれば、当然の換気です。また、温度も良く見て、汗が出るほどにしない。寒いのは当たり前です。体をどうしたら寒さに耐えれるかを考えましょう。薄着をして暖房をかけては意味がありません。

 雨水を過ぎたら、雪よりも雨が多くなる。季節の言葉を知り、暮らしの知恵に生かしましょう。最近は手紙を書かなくなったから、季語を知らない。或いは、俳句を作ることに興味がないから、その言葉の持つ意味がわからない者が多い。

 だが、調べればわかることだ。その気持ちがないだけ。学ぼうとする気持ちがあれば、どこでも勉強できる。学校でしかできないのではない。知識は人間性に潤いをもたらす。研究心があれば、広がりが持てる。他人の気づかないことを知るチャンスに恵まれる。

 言葉はたくさん集まると文章になる。相手が居れば会話になる。文章にしろ、会話にせよ、長々と書いたり、喋ったりではうんざりする。伝えようとする自分の言葉がなくてはならない。またそこには相手が話しやすく、聴きやすくなる雰囲気もいる。

 リエさんに白枇杷の生葉を贈る。実は、誕生日までに済んでいなければ、ならなかったのだが、朔日を待っていた。その日がちょうどリエさんの誕生日。先に、リエさんから本を贈ってもらった。『カリーナのりんご』チェルノブイリの原発の事故が書いてある。

 夜、遅いのを承知で電話する。ごめんなさい・・・何も出来ない自分が悔しい。直ぐに駆けつけることも、適切な言葉もかけれない。できないではなく、たった一つできることをしよう。白枇杷は赤枇杷の30倍の効力があるよ。遠くても心の傍に居るよ。

 花芽がたわわに咲いた。この慧も云えぬ匂い。心を包みこむような、とはこういう香りなのだろうか?

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自然治癒能力

2012年02月22日 | Weblog

 昨日は早退した。家を出るまでは、体温も平常であったのが、仕事をし始めると、鼻水が垂れる。気分も悪くなる。困った。風の蔓延で空気が澱み、邪気も溜まっている。息苦しいのを我慢していたが、次第に悪寒がしてきた。

 現場の人数もだが、最強のメンバーが揃っている。主任に連絡して帰宅。薬剤師の方に、適切なアドバイスをもらう。家で暖かくして眠るのがいい。との助言だ。明日は休みということもあって、心配ない。また、インフルエンザではなく、風邪である。

 昨夜は、半身浴にして、湯たんぽを足元に眠ろうとしたが、ひどくしんどい。何回も眼が覚める。夜明けには眠っていたらしい。AM7時である。37℃、体がだるい。厭な予感がした。膀胱炎だ。やっとこ体を引きずって、台所に向かう。

 蒟蒻を鍋で温め、腎臓と背中に貼る。これを何回も繰り返し、トイレに通いつつ、枇杷葉を貼り換える。白枇杷の葉がたくさんあることに気づく。葉の大きさは赤枇杷の半分から三分の一。そうだ、リエさんにも贈ってあげよう。

 枇杷葉温圧療法をやっている内に、悪寒は止まり、震えもなくなった。しかし、ここで止めたら長引くので、そのまま枇杷葉を貼り続ける。この時点で改善されてきた。耳鳴りもしない。食欲も出て来た。お粥を作ろう。

 昨夜から蓮根の入っている葛湯だけであった。お粥に梅干がいい。明日は仕事なので、体調を整えなければ。しかし、人間の持つ、自然治癒能力は侮れない。薬で改善しようとするより、時間もかかるし、気も長くなるが、副作用がない。

 ありがたいことである。枇杷葉に援けてもらえることは、自分を生かしてもくれる。枇杷葉の力には、無理のないやさしさがある。何も不平や不満を訴えず、ひたすら力を惜しまない。人間も驕らず謙虚でいれば、自然に悟れるのか。

 真冬の宇宙に美しい姿を魅せる月。12月10日の皆既月食。

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春に向かう行事

2012年02月21日 | Weblog

 雪祭り、かまくらも、裸祭りにお水取りも、春を待つ行事ではある。そのためには、冬の間の仕度が要るのだ。数年前には、雪が足らないと騒ぎ、今年は豪雪の有様に嘆く。自然は決して、人間の思うようにはいかないのが当たり前。

 原発も、人間が造ってきた自然破壊の付け。電気が足らない、という建前も、本音で言えば儲けることしかない。現在は、2基が稼動のみで、世相に逆らえなくなって、点検の名目で停止。然し、これら54基の原発を、再稼動させてはならない。

 リエさんの紹介の本があった。孫が一人でも読め、私も読みたく思っていた。定価も千円札でお釣りが来る。大人の中には、電力会社に丸め込まれている者も、居なくはない筈。電気代が一番安いコストだと言う。

 風力発電は、羽の回る音が煩く、民家の密集した場所では不向きだし、火力発電は元手が大きい。水力に至っては、めんどくさいと。それでは自然を破壊するのはいいのか?さもあらん。要は、自分で行なう場合には、きれいで簡単な方を選ぶのだ。

 私には、何もなく、できることは限られている。けれども未来は、自分だけのものではない。資源は大切に使っても増えない。だが核燃料は、それらをうわまる膨大な歳月を、地下深く、或いは無人島で管理される。尚、危険は伴う。

 原発が稼動する毎に、残していくゴミが問題で、放射能をばらまくからだ。これが、空気中に分散されて、体内に取り込まれれば、内部被爆にいきつく。この一連の過程に対して、あらゆる保障をしても尚、電気代が安いのか?疑問である。

 原発の怖さを知らなかった過去から、知ってしまった今では、その意味合いは違う。専門の知識を持っていた人は、隠していた。研究費という賄賂を受理していた。知らぬが仏、と言うが、知らぬ奴らはほっとけであった。

 皆既月食の時間での変わりよう。寒かったので、防寒して観ていた。古人も観ていたであろう月のさまは、安倍の清明、藤原不比等、卑弥呼に及んで感慨深い。

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食べることの基本

2012年02月20日 | Weblog

 食事の献立もだが、目で見て、指令を出し、美味しいかそうでないかの判断をする。次に食べて味わい、納得する。先日、野菜嫌いの方がいたのだが、水炊きになった。人参、榎、シロ葱、糸蒟蒻、もやし、白菜、大根と野菜のオンパレード。肉も入れる。

 盛り付けをする段階で、どうしようか迷った。残されてもしかたない。でも、少しでも食べてくれたらな。半分以上を諦めていた。ふと見やると、何と皿は空っぽ。あ・人参は残している。でも、よかったあぁ!美味しくないとも、何とも言わないでいる。

 どんな食事も、手抜きはできない。時間も限られているし、材料も安くしなければならない。素材の持ち味を引き出す工夫は大切だが、そればっかりには拘れない。決して料理が上手い訳ではない。然し、どの材料も無駄にはできない。

 それにしても、料理嫌いの自分が、皆に食べてもらう物が、どうにか作れるようになろうとは。全くもって信じられない。誰かの為に、という大義名分ではあるのですが、食べてもらうからには、美味しいと言ってもらいたく、心を込めて作ってはいる。

 お粥も同じで、作るからには一味違わせたい。昨年、お粥を早く、旨く、冷めても美味しく作るコツを、やっていたのを観た。我が家はガスだが、職場は電気。これが微妙に左右する。ちょっとしたことで、味にばらつきが出るのだ。

 以前は、作るにはできるが、何と糊状になってしまう。これは見た目も悪いし、不味いのだ。試行錯誤で何とか加減を見つけた。水は容器の半分までで、米は適宜では硬かったりする。この場合には1升が目安になる。

 生きていくためには、食べねばならず。同じ食べるなら、美味しい物がいい。些細なことかもしれないが、台所はきれいに整理整頓され、命を感謝して作りたい。戴きますにも、ご馳走さまにも、心から祈りたい。

 皆既月食の始まり。月が欠けていく。しかし、きれいだなぁ・・・。

 

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