名古屋の白ウサギ・1964年生

自称・宗教家・・宗教家とは職業ではなく「私の生き方」です。
職業・会社員、投資家  趣味・偽善事業

十分条件とは?

2016-02-11 | 宗教

人格と、運命に絶対的な因果関係は存在するのだろうか?

残念ながら・・・世のなか見渡してみると、
必ずしも、高人格=幸運 とは言いがたい。

優しく、親切で、慈愛深い、決して曲がった事をしない
善い人が、一生を通して、不運の連続であったり、

また、その逆で、我が強く、利己主義な人が、
幸運の連続で、生涯安泰であったり・・・

どうしてこんな事がおきるのだろう?

説明しようと思えばいくらでも説明が出来る、
「 前世から持ってきた課題 」
「 来世のための準備 」
「 科せられた試練 」
「 愛だ・・感謝だ・・・」
「 徳積だ・・・」
「 みんなのために祈るのだ・・・ 」

こういった言葉は、
インターネットでも、コピー貼り付けされたように、
溢れかえっている。

間違ったことは言っていない・・・

だだ・・・言葉がひとり歩きして、
「 これさえ言っていれば安全だ 」
という「 呪文 」になってしまっているように思える。

「 呪文 」は、自分のコンプレックスを覆い隠す、「 バリア 」
となって、そのひとの弱い部分を隠蔽し、
強固なものにしてしまう。

この厄介な落とし穴に嵌ってしまった、
「 自称・善人 」は、
なかなか這い上がる事ができない。

皮肉な事に、こういうタイプの人間が、
「 お偉い先生 」のなかに多くいる。

宗教団体の危険性とは、、
このような「救いようの無いお偉い先生」
を多く排出することにあると思う。

  
善行をいくら積み重ねても、
多くの慈善をなしても、
血のにじむ努力をしても、

この7項目が出来ていない人間はすべてが空回りするだけで終わってしまう。
 
1  すべてのモノに感謝する。
2  神仏に対する、畏敬の念もつ。
3  神仏に対して、謙虚になる。
4  祖先を想い、崇拝する心を持つ。
5  何事にも「喜ぶ」。
6  他者の喜びを自分の喜びとする。
7  自分の魂の声に耳を傾け、決意したなら、
 それに対してバカを極める。

善良で、親切で、思いやりがある人間であるにも関わらず、
なぜか、不幸の連続、受難の連続・・・
こいう人は多くいる。
  
どうしてこうなるか?

数学的な手法でこれを説明します。、

善行 = 必要条件

感謝の念 = 必要条件

祖霊崇拝 = 必要条件

喜ぶ習慣 = 必要条件

いのちの尊厳の自覚 = 必要十分条件

(いのちの尊厳とは、人間は神の分霊・仏の化身いう真実)
  
人間の本質(いのちの尊厳)を自覚したとき、
その他の必要条件は、自分を変えようと努力したり、
必死になったりするまでもなく、
適切な想いが湧き上がってくる。
必然的に、自然なかたちで、
自分の成すべき事がわかって来る。

必要条件とは?  十分条件とは?

例えて言えば・・・
名古屋から、特急電車に乗って、京都へ向かったとします。

まず、乗車券が必要 ( 必要条件 )
特急電車で行く為には特急券も必要 ( 必要条件 )

乗車券 + 特急券 = 十分条件

この2つが揃って初めて特急電車に乗って、
京都へ行く事が可能となる。

必要条件は1つであるとは限らない、
同時に、十分条件も1つであるとは限らない。

もし仮に、
乗車券 + 特急券 の他に、座席指定券が無ければ
その電車に乗る事が出来なかったとしたら、

「 乗車券 + 特急券 + 座席指定券 = 十分条件 」
となる。

ならば、「 必要十分条件 」とは?
必要条件であると同時に、「十分条件」 でもあるという意味。

これを数学では 「 同値 」 と呼ぶ。

もし、仮に私が国会議員だとして
「 議員特権の乗車証 」を持っていたとする。
これは京都行きの特急電車に乗る為の
「 必要十分条件 」となる。

「 xが ‘ 3‘ で割り切れる 」 というのは、 
「  xが ‘ 6 ‘ で割り切れる 」 ための 必要条件

「 xが‘ 6 ‘ で割り切れる 」のは、
「 xが ‘ 3 ‘で割り切れる 」ための 十分条件

xは奇数であると云う事は、「x2乗は奇数である」というための
「 必要十分条件 」となり、この2つの命題は 「 同値 」と云うことになる。

これと同じカラクリで、
「因果の法則」 と 「人間の本質の自覚」・・・・
それ以外の要素(霊的要素・遺伝的要素)が
微妙なバランスを形成して、人の運命を決定付ける。
コメント
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