Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

自助、共助、そして公助

2015-01-17 16:19:16 | 日記・エッセイ・コラム
新潟磐越と並ぶ、我が思い出の地 神戸を襲った、阪神・淡路大震災より、本日で満20年が過ぎた。俺は20代後半の一時、以前の勤務先の都合で約1年半神戸中心部に住んだ事があり、その折は同様の事情で大阪府南部にいた岐阜の悪友と共に、各所へ出かけていたものだ。JR(当時は国鉄)、そして阪急電鉄三宮駅のガード下は、色んな良き思い出のある場所でもあった。あの震災で、元のその場所は崩落してしまったのだが。

20年前のこの日、当地でも相当な揺れに見舞われた。なかんずく、後半の横揺れが長く、しつこく続くのが気になった。「もしかしたら、どこかで大きいのが来ているかも」と思いつつもう一眠り。7amのTV報道で、殴られた様な衝撃が走ったのも尤もだった。

まず目に飛び込んで来たのが、三宮駅東方で脱線転覆した阪急電車。全部ではないが、鉄道も高速道も高架が倒壊し、住宅地では広範囲に出火した所もある。震度は控えめでも6強、後に7だった事が判明。「大変な事になった」と言うのが第一印象だったのを覚えている。発生の約10年前、三宮界隈の往来が日常だったのだから、尚更だ。

当時の報道を見ても、時間の経過と共に犠牲の方々の人数が増え、悲嘆と共に「一体どうなってしまうのか」との不安が脳裏を過ったものである。神戸の西半分、長田区の状況はご存じの通りの凄惨なもの。ここをメインに、6000を大きく超える住民の方々が斃れてしまった。建物の倒壊は計20万棟にも達し、高校時代に世話になった、当時大阪・兵庫県境に住まわれた方の話では「自分の居る大阪側は辛うじて無事だったが、兵庫側は地獄絵図だった」と述懐されている。多分、この辺りが断層帯だったのだろう。

先年の東日本大震災と並び、大変不幸な出来事だった訳だが、復興への歩みは総じて早かった様に思う。勿論、全部が全部順調に立ち直った訳ではない。中には今でも、震災の後遺症に苦しむ方々がある事をも忘れてはならないだろう。それを踏まえるとしても、関西の方々の復興への決意と取組みには堅いものを感じると言うのが素直な印象だ。俺は震災当時の混乱が落ち着いた頃を見て、神戸周辺に居住の知友達に連絡を入れてみたが、お陰様で犠牲はなく、大きな人的被害は免れていた。又、2008=平成20年夏には、久しぶりで短時間、神戸中心部辺りを覗いてみたが、震災の痕跡はほぼ解消していて、一安心したものであります。

そうは言っても、阪神・淡路、そして東日本の両震災の惨状を拝見すると、決してこれらの悲劇は他人事ではないと思わければならない事も少しは分るし、そうでなければならないだろう。最早、大地震の空白域は、本州では当地東海だけだと言われ、これらの震災復興の足跡より、当地の我々も、防減災の為、少しでも学んでおかなければならないのも事実である。

阪神・淡路大震災のケースでは、救助された方々の内、警察や消防、陸上自衛隊などの行政に救われた人数は、全体の2割弱だったと言われる。他の多くは、勿論自ら助かったケースもあろうが、地域の住民同士が助け合って救われた所が多かった由。この事より、いかに普段よりのご近所との往来や連携が大切かが分る。つまり、地域社会の力が大事だと言う事だろう。地震以外の災害の時も、やはり地域の連携ができておれば、防災情報の伝達も早く、住民のや多くが早めに避難できる強みがあろう。東日本大震災の折見られた、大津波被害を抑えるべく中学生達が早めに避難を促す行動に出た結果もたらされた「釜石の奇跡」がその好例だ。こうした事例に学び、有効な行動を積み重ねられる様になれば、人的被害を大きく減らせる「減災」に結びつけられる事だろう。まずは、急迫した状況に見舞われたら自ら助かる「自助」努力をして、次に周りにいる人々が協力して乗り切る「共助」が大事と言う事だろう。警察や消防、海保や自衛隊が動く「公助」はやはり、最後の手段として理解されるべきだろう。

今回画像は数年前、当地名古屋の悪友達と共に出かけた、山口・島根両県下を走る、蒸機列車の模様。この機関車は、阪神・淡路大震災当時に兵庫県下にて整備中、強い揺れによるダメージを被るも、それを乗り越えて復帰して行った。やはり震災ゆかりの勇者として、称えたい所です。

P.S 次回は1/24(土)以降に掲載予定です。
コメント (6)
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