未だ余震の続く、先々週来の熊本大地震だが、ようやく被災各位への援護や交通網、ライフ・ライン復旧への目途が立ち始めた様だ。国レベルの激甚及び特定非常災害への指定も進み、熊本の象徴とも言える、大ダメージを被った熊本城修復の為の資金調達も始まったと言う。
冒頭の余震も、頻度としては徐々に減って来ている印象を受け、度重なる強い揺れで、被災各位の心身の疲労は並み大抵ではないと心得るが、どうか無理のない所で復興へ向け歩み続けられる事を、引き続きお祈りする事としたい。此度の熊本の悲劇は、明日の当地東海の姿かも知れないからだ。
その震災復興に大きな力となるのが、被災各位の自助共助の努力と並ぶ、警察、消防、自衛の行政の力だが、その自衛隊の救護活動にとっても芳しくない動きが首都圏で生じたので指摘しておきたい。その動きとは、昨秋成立、今春施行の平和安全保障関連法制の違憲から来る法制無効と、それに絡む自衛隊活動の停止を要求する集団訴訟の動きである。4/26(火)付で、東京地方裁判所宛て提訴が行われた様だ。
平和安保法制自体は、それは全く問題のない無謬の法制と言う訳ではない。本当は、日本国憲法改正の上で審議整備されるのが正道だとは思うし、その面からの反対意見も多くある事は承知している。しかし、内外の情勢などより、平和安保法制成立施行はやむを得ない所も多々あり、法制無効まで求めるのは無理があろう。何よりも、高度の政治判断が厳しく求められる「統治行為」に属する平和安保法制関連の事共を、司法レベルで審判するのも無理があるだろう。
此度の提訴の中心人物は、過激とも言える護憲原理主義を標榜し、社会民主党でも放棄したと言われる完全非武装中立思考を未だに振り回す、首都圏で活動する某弁護士だと言われる。この人物は、特に日本国憲法第9条を偏狭に解釈して自衛を含む一切の自衛力、警察力を認めず、先年の憲法関係の専門家会合シンポジウムの席上では、万一我国が武力侵攻に遭った場合は、直ちに白旗を上げて降伏すれば良いなどと発言、多くの出席者の大いなる顰蹙を買ったとか。又、自由と人権の観念にしても、18世紀的放任主義と「人間は、絶対に悪事を起こさない」などとする粗悪性善説に固執して、確実な治安悪化に苦しむ我国の現状を顧みる事なく自説の喧伝に終始したらしい。バカか?
ネットの他記事で見かけた事だが、我国のある哲学者は「インテリは、現実を無視してまでも己の思い込みを絶対視し易い傾向がある」指摘をされていた。この人物は、この問題にズバリ当てはまる。生徒とも言える我々は、決して「間違ったバスに乗せようとする」先生に従ってはならないと言えはしないか。
こんな思考では、近年中に起きる可能性の強まった「テロとの闘い」に堪えられる訳がない。いきなり撃って来る相手には、前もって相応の備えをしていざと言う時に応戦できる様心がけるのは国として当然の事だ。又、この人物が「人類の理想」などとまるで宗教如きに崇める18世紀的自由放任主義は、あくまで欧米だけを向いた「偏った見方」そのものであり、全人類の1/4を優に超えるイスラム世界やアフリカの方々の事が一顧だにされていないではないか。もしそこまでの自信がおありなら、是非ともイスラム圏、それもイスラム国ISなどの過激勢力が多い所でその様な主張を願いたい。多分、生還できるかさえ定かではないだろう。しかしだ。己の生命を賭す位の覚悟で語り、主張するのが政治的信念と言うものではないのか。
前述の集団訴訟は、まだ熊本大地震の復旧途上のタイミングを計った様に起こされている。明らかに行政、特に自衛隊の名誉の貶めと、活動への不当な牽制を狙っていると言える。又、この訴訟の支持者多数が一部の若い世代を除き、安倍政権に概して批判的とされる60代後半に多い印象がある事も留意する必要があるかと思う。この世代は所謂「団塊世代」。ただ、団塊世代が全て悪い訳ではない。団塊世代の一部はその青春期、全共闘運動をメインとする左翼学生運動の影響を強く受けている。こいつらは又、人を感化する情宣が上手い。平和安保法制無効訴訟に同調する多くの者は、この元全共闘などの左派勢力。これが護憲原理勢力のお花畑連中と合体したのが今回の集団提訴の正体だろう。こんなのはもう犬、それも俺の近所に住む糞犬(くそいぬ)にでもくれてやれば良いレベル。本当に、熊本大地震の被災各位の気持ちなど一顧だにしない無神経。糞犬にしても「そんなもん要らん!」と不快感を露わにするのがオチだろう。本当に、被災地を狙う窃盗や、被災各位を標的にする詐欺行為に匹敵する悪質な所業と言えるのではないか。
今回画像は、これも過日の拙近所、金山公園にての満開の桜花の模様。JR東海、名古屋鉄道の各路線が眺められ、国道19号を跨ぐ歩道橋上のこの位置からは、折り返しの出発を待つ、名古屋鉄道列車の真紅の姿を拝む事もでき、中々に鮮やかな光景を収める事もできる様です。
冒頭の余震も、頻度としては徐々に減って来ている印象を受け、度重なる強い揺れで、被災各位の心身の疲労は並み大抵ではないと心得るが、どうか無理のない所で復興へ向け歩み続けられる事を、引き続きお祈りする事としたい。此度の熊本の悲劇は、明日の当地東海の姿かも知れないからだ。
その震災復興に大きな力となるのが、被災各位の自助共助の努力と並ぶ、警察、消防、自衛の行政の力だが、その自衛隊の救護活動にとっても芳しくない動きが首都圏で生じたので指摘しておきたい。その動きとは、昨秋成立、今春施行の平和安全保障関連法制の違憲から来る法制無効と、それに絡む自衛隊活動の停止を要求する集団訴訟の動きである。4/26(火)付で、東京地方裁判所宛て提訴が行われた様だ。
平和安保法制自体は、それは全く問題のない無謬の法制と言う訳ではない。本当は、日本国憲法改正の上で審議整備されるのが正道だとは思うし、その面からの反対意見も多くある事は承知している。しかし、内外の情勢などより、平和安保法制成立施行はやむを得ない所も多々あり、法制無効まで求めるのは無理があろう。何よりも、高度の政治判断が厳しく求められる「統治行為」に属する平和安保法制関連の事共を、司法レベルで審判するのも無理があるだろう。
此度の提訴の中心人物は、過激とも言える護憲原理主義を標榜し、社会民主党でも放棄したと言われる完全非武装中立思考を未だに振り回す、首都圏で活動する某弁護士だと言われる。この人物は、特に日本国憲法第9条を偏狭に解釈して自衛を含む一切の自衛力、警察力を認めず、先年の憲法関係の専門家会合シンポジウムの席上では、万一我国が武力侵攻に遭った場合は、直ちに白旗を上げて降伏すれば良いなどと発言、多くの出席者の大いなる顰蹙を買ったとか。又、自由と人権の観念にしても、18世紀的放任主義と「人間は、絶対に悪事を起こさない」などとする粗悪性善説に固執して、確実な治安悪化に苦しむ我国の現状を顧みる事なく自説の喧伝に終始したらしい。バカか?
ネットの他記事で見かけた事だが、我国のある哲学者は「インテリは、現実を無視してまでも己の思い込みを絶対視し易い傾向がある」指摘をされていた。この人物は、この問題にズバリ当てはまる。生徒とも言える我々は、決して「間違ったバスに乗せようとする」先生に従ってはならないと言えはしないか。
こんな思考では、近年中に起きる可能性の強まった「テロとの闘い」に堪えられる訳がない。いきなり撃って来る相手には、前もって相応の備えをしていざと言う時に応戦できる様心がけるのは国として当然の事だ。又、この人物が「人類の理想」などとまるで宗教如きに崇める18世紀的自由放任主義は、あくまで欧米だけを向いた「偏った見方」そのものであり、全人類の1/4を優に超えるイスラム世界やアフリカの方々の事が一顧だにされていないではないか。もしそこまでの自信がおありなら、是非ともイスラム圏、それもイスラム国ISなどの過激勢力が多い所でその様な主張を願いたい。多分、生還できるかさえ定かではないだろう。しかしだ。己の生命を賭す位の覚悟で語り、主張するのが政治的信念と言うものではないのか。
前述の集団訴訟は、まだ熊本大地震の復旧途上のタイミングを計った様に起こされている。明らかに行政、特に自衛隊の名誉の貶めと、活動への不当な牽制を狙っていると言える。又、この訴訟の支持者多数が一部の若い世代を除き、安倍政権に概して批判的とされる60代後半に多い印象がある事も留意する必要があるかと思う。この世代は所謂「団塊世代」。ただ、団塊世代が全て悪い訳ではない。団塊世代の一部はその青春期、全共闘運動をメインとする左翼学生運動の影響を強く受けている。こいつらは又、人を感化する情宣が上手い。平和安保法制無効訴訟に同調する多くの者は、この元全共闘などの左派勢力。これが護憲原理勢力のお花畑連中と合体したのが今回の集団提訴の正体だろう。こんなのはもう犬、それも俺の近所に住む糞犬(くそいぬ)にでもくれてやれば良いレベル。本当に、熊本大地震の被災各位の気持ちなど一顧だにしない無神経。糞犬にしても「そんなもん要らん!」と不快感を露わにするのがオチだろう。本当に、被災地を狙う窃盗や、被災各位を標的にする詐欺行為に匹敵する悪質な所業と言えるのではないか。
今回画像は、これも過日の拙近所、金山公園にての満開の桜花の模様。JR東海、名古屋鉄道の各路線が眺められ、国道19号を跨ぐ歩道橋上のこの位置からは、折り返しの出発を待つ、名古屋鉄道列車の真紅の姿を拝む事もでき、中々に鮮やかな光景を収める事もできる様です。