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私の半生で最も痛烈な打撃だった。当時30歳、それまでは多少の波はあれこそ、幸運に恵まれトントン拍子にきていたせいもあって、失意のどん底を味わうこととなった。
独立の夢を描き脱サラ、調理師学校を経てレストラン・喫茶店で修業を積み、ついに一軒の店を任されるまで7年がかり。兎より亀になるんだと、慌てず騒がず、じっくりと取り組んできた。しかし開店二年目、不景気風もあり、売り上げがジリ貧状態になった。
いろんな対策を講じてはみたものの、悪い時には悪いことが重なるもので、売り上げが回復しないうちに体調を崩してしまったのである。店のオープン以来、年中無休の長時間労働に堪えてきたきたツケが回ってきたのだ。健康だけには自信があったのに……。
オーナーは慰留してくれたが、自信をなくした私は結局辞めることにした。
無職となり、失意にかまけてぶらぶらする毎日を送る私の唯一の希望は、結婚を前提に付き合っていたK子の存在である。
「まだ若いし、体さえ治せば必ず独立の夢がかなうわ。一緒に頑張ろうよ」
そう励ましてくれたK子さえも、二か月後には、もう心変わりしていた。無理もない。まだ学生で将来の夢もいっぱいのK子に、デートするたびグチってばかりいる私の姿は、きっと耐えきれなかったのだろう。
「私、先生になるの。齋藤さんも頑張ってね。今までありがとう。……さようなら」
K子は明るく笑って別れを言って去った。
この失恋はとどめの一発となった。私の生活はどんどん乱れていった。働きもしないで毎晩のごとく飲み歩いた。
父も母も呆れてはいたが、ただ黙って見ていた。病気と失職、失恋……これらの事情を知っていただけに何も言えずにいたらしい。
しかし、僻み根性に染まっていた私には、両親の思いやりは逆に負担になった。(もう、どうにでもなれ!)と捨て鉢な気持ちで家に閉じこもる日が多くなり始めた。
そんな時、調理師学校で得られた友人のO君から連絡があって、何年ぶりかの旧交を温めた。O君は6歳年下だったが、、調理のキャリアは私の倍以上だった。中学校を卒業した頃から喫茶店や食堂で働いていたらしい。そんな彼と出会ったのは調理師学校だった。
「齋藤さんが店長をやってた店に連絡したら、辞めたって聞いたんやけど、今どないしとんのや?」
人の好いO君は、自分のことのように、心配げにあれこれ私の話を訊いてくれた。
O君と会った時から不思議に素直な気持ちになっていた私は、堰を切ったように話していた。
「俺といっしょやな」
笑顔そのままでO君はボソッと言った。
O君は先手的な心臓障害を持っていて、これまでに数回手術を受けたことを話した。
「しゃあない、これも運命や思ってる。
アッサリ言ってのけたO君は、脇の下の切開跡まで見せてくれた。
「こんなんあったら、女の子なんか誰も相手になってくれへんわ。無理あらへんけど……」
若いのに悟りきった感じのO君。心臓障害と長年付き合って来たせいだったのだろう。
「いかん、いかん。こんな暗い話やめとこか。久しぶりやからパッと行こうぜ」
O君は本当に嬉しそうな表情をつくった。
その日、私とO君は一日中遊びまわった。パチンコ、打ちっ放しゴルフ、喫茶店、レストラン……夜になると酒を飲みに出た。
もう楽しくてたまらなかった。一人で飲んでいた時の、あのクサクサしていた気分が嘘みたいに思えた。自分を取り巻く状況はまるっきり変わっていないのに、とにかく楽しかった。
「お互い頑張ろうや。俺、今、Yホテルのコックやっとるけど、来月から東京のホテルに移るつもりや。一流の腕、みがき上げるまで帰ってきやへんで」
「心臓の方、大丈夫なんか?」
「なんとかなるわ。今までもそないしてやってきたんやから。負けとったてしゃあない」
O君と再会を固く約束し別れた。
一週間後、私は経理学校に通い始めた。独立して店を持つ際に、必要な経理知識を身につけようと思い立ったからだ。体が少々本調子でなくても出来る勉強だった。
(負けてられないのだ!)O君と出会い語らったのが発奮材料になった。悪い状況でも、それなりに対応して前向きに生きているO君の姿を見せられては、私も甘えているわけにいかないと思ったのだ。
東京に行ったO君からも電話が度々あった。
「負けんなよ。お互いの夢、実現させようぜ」
自分でもビックリするぐらい力強い言葉が出た。それは私が自分に言い聞かせる言葉でもあったと思う。
経理学校に通いだして体の回復は急テンポになった。健康を取り戻すと独立の夢にまっしぐらとなった。そして2年後、ついに喫茶店で独立!
開店準備も兼ねての東京行きで、私はO君の勤めるホテルに宿泊した。もちろん、独立の報告は上京する前にしていたが、O君は大歓迎してくれた。夜の東京を案内してもらいながら、私は(ありがとう!)と呟き続けていた。(1990年作文)
私の半生で最も痛烈な打撃だった。当時30歳、それまでは多少の波はあれこそ、幸運に恵まれトントン拍子にきていたせいもあって、失意のどん底を味わうこととなった。
独立の夢を描き脱サラ、調理師学校を経てレストラン・喫茶店で修業を積み、ついに一軒の店を任されるまで7年がかり。兎より亀になるんだと、慌てず騒がず、じっくりと取り組んできた。しかし開店二年目、不景気風もあり、売り上げがジリ貧状態になった。
いろんな対策を講じてはみたものの、悪い時には悪いことが重なるもので、売り上げが回復しないうちに体調を崩してしまったのである。店のオープン以来、年中無休の長時間労働に堪えてきたきたツケが回ってきたのだ。健康だけには自信があったのに……。
オーナーは慰留してくれたが、自信をなくした私は結局辞めることにした。
無職となり、失意にかまけてぶらぶらする毎日を送る私の唯一の希望は、結婚を前提に付き合っていたK子の存在である。
「まだ若いし、体さえ治せば必ず独立の夢がかなうわ。一緒に頑張ろうよ」
そう励ましてくれたK子さえも、二か月後には、もう心変わりしていた。無理もない。まだ学生で将来の夢もいっぱいのK子に、デートするたびグチってばかりいる私の姿は、きっと耐えきれなかったのだろう。
「私、先生になるの。齋藤さんも頑張ってね。今までありがとう。……さようなら」
K子は明るく笑って別れを言って去った。
この失恋はとどめの一発となった。私の生活はどんどん乱れていった。働きもしないで毎晩のごとく飲み歩いた。
父も母も呆れてはいたが、ただ黙って見ていた。病気と失職、失恋……これらの事情を知っていただけに何も言えずにいたらしい。
しかし、僻み根性に染まっていた私には、両親の思いやりは逆に負担になった。(もう、どうにでもなれ!)と捨て鉢な気持ちで家に閉じこもる日が多くなり始めた。
そんな時、調理師学校で得られた友人のO君から連絡があって、何年ぶりかの旧交を温めた。O君は6歳年下だったが、、調理のキャリアは私の倍以上だった。中学校を卒業した頃から喫茶店や食堂で働いていたらしい。そんな彼と出会ったのは調理師学校だった。
「齋藤さんが店長をやってた店に連絡したら、辞めたって聞いたんやけど、今どないしとんのや?」
人の好いO君は、自分のことのように、心配げにあれこれ私の話を訊いてくれた。
O君と会った時から不思議に素直な気持ちになっていた私は、堰を切ったように話していた。
「俺といっしょやな」
笑顔そのままでO君はボソッと言った。
O君は先手的な心臓障害を持っていて、これまでに数回手術を受けたことを話した。
「しゃあない、これも運命や思ってる。
アッサリ言ってのけたO君は、脇の下の切開跡まで見せてくれた。
「こんなんあったら、女の子なんか誰も相手になってくれへんわ。無理あらへんけど……」
若いのに悟りきった感じのO君。心臓障害と長年付き合って来たせいだったのだろう。
「いかん、いかん。こんな暗い話やめとこか。久しぶりやからパッと行こうぜ」
O君は本当に嬉しそうな表情をつくった。
その日、私とO君は一日中遊びまわった。パチンコ、打ちっ放しゴルフ、喫茶店、レストラン……夜になると酒を飲みに出た。
もう楽しくてたまらなかった。一人で飲んでいた時の、あのクサクサしていた気分が嘘みたいに思えた。自分を取り巻く状況はまるっきり変わっていないのに、とにかく楽しかった。
「お互い頑張ろうや。俺、今、Yホテルのコックやっとるけど、来月から東京のホテルに移るつもりや。一流の腕、みがき上げるまで帰ってきやへんで」
「心臓の方、大丈夫なんか?」
「なんとかなるわ。今までもそないしてやってきたんやから。負けとったてしゃあない」
O君と再会を固く約束し別れた。
一週間後、私は経理学校に通い始めた。独立して店を持つ際に、必要な経理知識を身につけようと思い立ったからだ。体が少々本調子でなくても出来る勉強だった。
(負けてられないのだ!)O君と出会い語らったのが発奮材料になった。悪い状況でも、それなりに対応して前向きに生きているO君の姿を見せられては、私も甘えているわけにいかないと思ったのだ。
東京に行ったO君からも電話が度々あった。
「負けんなよ。お互いの夢、実現させようぜ」
自分でもビックリするぐらい力強い言葉が出た。それは私が自分に言い聞かせる言葉でもあったと思う。
経理学校に通いだして体の回復は急テンポになった。健康を取り戻すと独立の夢にまっしぐらとなった。そして2年後、ついに喫茶店で独立!
開店準備も兼ねての東京行きで、私はO君の勤めるホテルに宿泊した。もちろん、独立の報告は上京する前にしていたが、O君は大歓迎してくれた。夜の東京を案内してもらいながら、私は(ありがとう!)と呟き続けていた。(1990年作文)