こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

母を恋うる記(もうお母ちゃんを泣かせへん)

2014年12月31日 00時01分58秒 | 文芸
母を恋うる記(もうお母ちゃんを泣かせへん)

十七歳の夏、その事件は起きた。母の悲痛な顔、物心ついてからこっち初めて見る表情だった。小さい頃からおとなしくてかしこい子どもで通ってきた。何の問題もない自慢の息子が、思いもかけない不祥事を起こして警察沙汰になってしまったのでは無理もない話だった。
 お喋りの母が全く口を開くこともなく、ひたすら私を見つめる目に、私への不憫さだけがあるように感じた。それが私の不貞腐れた胸の内を直撃した。申しわけないことをしてしまったとの思いが、私を耐えきれなくさせた。
反抗期に入ってからこっち、親を無視しっぱなしだった私が、母や父を前にもう子どもに戻って涙を流し、頭をあげられぬままだった。
半年近い施設生活から家に帰った時、母は嬉しくてたまらないという様子で迎えてくれた。
「お帰り、疲れたかい?お風呂にお入り」
何もなかったかのような母の態度と言葉は、世の中から落ちこぼれてしまって、どん底に近い気持ちになっていた私を温かく包んでくれた。私は思わず頬笑みを取り戻していた。
心地よい久しぶりの家の風呂につかっていると、不思議に元気が湧いてきた。
「湯加減はどないや、ぬるうないか」
 母だった。焚き口に座り込んだ母に泣いている気配が感じられた。
「お前が、無事に帰ってきて嬉しいんや。やり直したらええんやから、それでええんやから。お母ちゃんやお父ちゃん……何もできんでごめんやでな……」
 私は首まで湯に沈みこんで、母がポツリポツリ語りかける言葉に耳をひそめていた。しかし、母はあくる日から事件やこれからのことについては何も口にしなかった。ただ以前みたいに明るいお喋りの、普通の母に戻って私に接してくれた。仕事で忙しい父と顔をあわせるのは食事時ぐらいしかなかったが、その時も母は全く昔のままの雰囲気を作り出してくれた。家に戻って二週間近く、母は私が好きなように時間を送るのを見守ってくれた。
「どないする、学校?」
 私の心がようやっと落ち着いてきたのを見計らったように、母はそう持ちかけた。
「お前の好きにしたらええ。働きたかったら、それでええしな。学校はもう一度受け直してみたらって、中学校のI先生が言ってくださってるんやけど、自分で決めるこっちゃ」
 私が好きに送っていた二週間の間に、母が何度も中学校へ相談に行っていたのは、何となくわかっていた。しかし、母はそれをおくびにも出さず、私に判断を任せてくれた。
「オレ、学校に行きたい」
 私の言葉に、母は相好を崩して何度も頷いた。
「それがええかもしれへんな。うん、そないしたらええ、そないしたら」
 母の笑顔、私が事件を起こして以来、本当に見る母の底抜けの笑顔が嬉しかった。
 私の受験勉強が始まった。母は適当にお茶や夜食を運んでくれた。
「無理せんときよ。身体こわしたらどないもならへんのやから」
 母の優しさに包まれた私に何も不安はなかった。なるようになれだ!の心境になると、とても気分がラクになった。
 私は新しい高校に合格した。
 入学式に付き添ってくれた母の晴れがましい顔に、私は胸の奥深くで誓った。
(もうお母ちゃんを泣かせへん。あんな悲しい顔、二度と見るのんイヤや。どない辛かったかて、我慢したる。お母ちゃん、喜ばしたるさかい、待っとれや)
 帰途の電車の中で隣り合わせて座った母は、チラッと私を見て呟くように言った。
「やっと一歩やなあ」
 そうだ。私の人生のやり直しは、やっと一歩歩み出したところだった。これから気の遠くなるような道のりの私の人生がある。それは母に助けてもらえない私の人生なのだと、私の身体は緊張して震えた。
 妻と三人の子どもに恵まれ、仕事と趣味を両立させて、充実しきった私の今の人生の起点は、あの三十年前にある。あの事件が、そしてあの母や父の悲しい顔を見たことが始まりだった。そして、その人生のやり直しへの道をそーっと導いてくれたのは、間違いなく私の母――『お母ちゃん』だった。
 もうすぐ八十になる母は、老いたりといえども健在そのものだ。親不孝な息子のために酷使続けた身体は老い、不自由になった足腰も何のその、足を引き摺りながら、近くの畑で野菜作りに精を出す。
「もう家でゆっくりせいな」
 私の言葉に母はニッコリしながらも、
「アホいえ、まだまだ若いもんに負けてられっかいな」
 それがいつもの母の言い草だった。あの逞しい母の生きざまと息子への愛情の深さを、私は決して忘れはしない。
          (四十七歳の時・記述)
 
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私を変えた、先生の「ありがとう」

2014年12月30日 00時09分21秒 | おれ流文芸
私を変えた、先生の「ありがとう」

(学校なんか、行きとうない……!)
 朝を迎えるたびに、私の切羽詰まった思いはぶり返した。時には頭が痛くなったり、腹痛を憶えたりと、登校したくない気持ちが、そんな体の変調を次々と生み出した。
「また怠ける気か?仮病使うてもあかん、はよ行かんかいな。遅刻してしまうやないの!」
 最初の頃は息子の訴えを素直に認めて、学校を休ませて甲斐甲斐しく看病までしてくれた母も、そういつまでも騙されていてはくれなかった。私が暗い顔で訴えると、(なに甘いこと言うてるのん!)といった調子で、母は私を玄関から押し出した。結局、私はイヤイヤながら登校するはめになった。
 私がそこまで学校を嫌いになったのは、私の性格が影響していた。対人関係は全くダメな、ひどく内向的な人間だった。授業であてられて発表するのにさえ、言いようのないプレッシャーに襲われ、顔を真っ赤にして何も言えず、立ち往生する有様だった。何とか口が開けても、自分でも驚くほどの、蚊の鳴くような声で、しかも震え声とあっては、どうしようもなかった。発表が予想される授業がある日は、朝から緊張感に苛まれることが、しょっちゅうだった。
 そんな私を、同級生の何人かがからかうのも、私を学校嫌いにさせていた。
「頼んないやっちゃなあ、お前」
「こいつ、国語の本、読みながら、震えてやんの。本が睨みよるんけ?」
「猫つまみ、猫つまみ、授業の邪魔やさけ、猫つまみつまんで、放り出したろこ」
 猫つまみとは、私の頭が富士額みたいになっていたところから、付けられたあだ名だった。私のぶざまな仕草の物真似をして笑い転げる級友らを前に、悔しさが募って目が潤むと、また、すかさず級友らはからかった。
「こいつ、泣きよるこ!」
「猫つまみが泣きよるど!」
 自分の机に突っ伏して、彼らを無視するしか方法を知らなかった。そうしていると、頭の中が真っ白になった。もう誰の声も聞こえなくなった。
 そんな苦しい思いをしなければならない学校。いやになるのは当然だった。だが、母や父は私のそんな思いを知らない。私は家で、学校のことはいっさい口にしなかった。ただ、黙々と宿題をするぐらいだった。団欒で話題にしたくなるような楽しいことは、学校生活にはなかった。話そうとしたら、たぶん泣けてきて、どうしようもなくなったに違いなかった。
 ただ、私が話さなくても、父や母には察してもらいたかった。それが叶えられないのも、焦れったかった。
(誰も分かってくれへん……)
 むりやり家を出された格好で登校する私の心は、言いようのない不満と絶望感に苛まれた。
 そんなある日だった。授業が終わった時、教壇から、先生が私に声をかけた。五年の時から持ち回りで担任の吉田先生だった。
「おい、齋藤。ちょっと頼みたいことがあるんや」
「は?」
 戸惑う私の席へやって来た先生は、白い画用紙四枚と神戸新聞を机の上に置いた。
「この漫画を紙芝居にしてくれへんか?お前、絵が得意やったやろ」
 四年生ぐらいまでは、毎年、絵画コンクールや写生大会でなにがしかの入賞を果たしていた。それを吉田先生は言っていた。
「僕の奥さんが先生をやっとる、W小学校の授業で使うんやと。そやから頼むわ」
 私が返事もできずにいると、先生はニコリと笑った。そして、ポンと肩を叩くと、席を離れていった。
 新聞の漫画は、佃公彦のもので、よく見慣れたものだった。
「お前、すごいやないけ」
 いきなりかかった声に振り返ると、いつもからかってくる級友の一人だった。
「先生に、もう頼まれるなんて、ほんま、ごっついわ」
 私の席に何人かの級友が集まって、口々に褒めてくれた。照れくさくなった私は、頭を掻いて、「へへへ」とにやけてみせた。
 私は懸命に白い画用紙に向かった。新聞の漫画を拡大して描き写す作業に没頭した。その日、寝たのは、もう夜明け近かった。できあがりはまあまあだと思った。
「おう、もうできたか!」
 朝のホームルームが始まる前に先生に手渡すと、吉田先生は喜んだ。
「お前、やっぱり上手いのう。うちのやつも喜びよるわ。ありがとう」
 漫画が描かれた画用紙を食い入るように見ながら、先生は私に礼を言った。不思議に私の緊張感は解けていた。
 その日以来、私をからかう声は消えた。漫画を描いてくれと頼んでくる級友もいた。さすがに授業で覚えるプレッシャーに変化はなかったが、私の毎日は嘘みたいに楽しくなった。学校に通う楽しみを、私はやっと得たのだった。
 卒業式の日。教室で吉田先生は私を呼んだ。五冊の厚い白地のノートを手渡すと、
「これは、あの紙芝居のお礼や。一年生のみんな、喜んでくれたそうや。ほんまにありがとう、な」
 また先生は礼を言った。面映ゆい気持ちで先生を見た私に、
「中学に上がっても、頑張れよ。お前には、ちゃんと、こんな得意なもんがあるんや。誰にもできるこっちゃないんやど。自信持って、行けや。ええな」
 私はノートを受け取りながら、背中越しに級友らの賛辞が込められた拍手を聞き、自然と目が潤んでくるのを感じた。
 昨年末、私は五〇歳になった。振り返ってみれば、挫折と失意の繰り返しだった。だが、それを乗り越えさせてものの原点は、あの吉田先生との出会いにあったと、今さらながら鮮明に思い出し、感慨を深くする。
         (平成十一年文作)
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心に残る先生の笑顔

2014年12月29日 04時42分33秒 | おれ流文芸
心に残る先生の笑顔

「ちょっと手を見せて」
 面接の水野先生はいきなり言った。
恐る恐る出す手を易者のようにためつすがめつした先生はにやりと笑った。
「器用な手をしとるな。
なんか得意なもんあるやろ。
手先使うてやるもんで」
「漫画を描くのんが好きです」
「へえ、すごいなあ。
それやったら料理なんかもっと簡単や。
コツを僕が教えたる」
 書店に勤めていた私が一念発起して入学を目指したのが、みかしほ調理専門学校。
料理にさほど興味がある方ではなかったが、当時外食産業が花開き始めた時期で、それにちゃっかりと乗っかった格好である。
当時勤めていた書店の仕事に行き詰まっていた。
(このまま本屋の店員でいていいのやろうか?
対面販売が苦手じゃダメだよなあ)と自問自答の日々だった。
別に書店の仕事に不満があるわけではない。
ただ自分に合っているのか、ずーっと疑問に思いながらで、中途半端な仕事の取組みだった
 そんな時に目にしたのが地方新聞の片隅にあった学生募集広告だった。
『これからの花形、外食産業の担い手を育成。初心者に調理技術を分かり易く指導。
調理師免許習得。一流のレストラン、ホテル、割烹店…に就職できます。』と、心をそそられるアピールは私に決意を促した。
すぐに応募書類を用意して申し込んだ。
そして面接に立ち会って貰えたのが、あの先生だった。
水野先生である。
 みかしほ調理専門学校に通い始めた。
クラス担当の水野先生は学園長と同じ姓だったが、親戚でも何でもない。
腕とキャリアを買われて転職し、全般的な生徒指導を担当していた。
歴史ある著名なホテルのレストランでシェフだったらしい。
かなり太目で落語家の柳家金語楼にそっくりの風貌からは、とても想像できなかった。     それにざっくばらんな態度で生徒に接して人気があった。
 クラスは三十人ほどで、中学を卒業したばかりの男子から、主婦、定年退職した男性らと、バラエティに富んだ顔ぶれだった。
年齢差や男女差、生活のゆとりの差はあっても、目指すものはひとつである。
別に違和感もなくいい仲間意識が生まれた。
 実習と調理理論などの教科も、初体験なので面白かった。
初めて手にする包丁も、先生の指導通りに使うと、うまく切れた。
砥石で研ぐ授業も、なんとか乗り越えた。いつの間にか私はクラスのまとめ役の一人になっていた。
順調に進む調理師への道だった。
 ところが、半年経ったころ問題が起こった。仲良くなった学校仲間数人で授業を抜け出してパチンコに興じたのが見つかり大問題となった。
仲間に中学を卒業したばかりの男子を加えていたからだ。
謹慎処分を食らった。
 謹慎期間が明けた私は水野先生に呼ばれた。
誰もいない教室で先生と向かい合った。
あの面接の時と同じ光景だった。
しかし、先生の様子はまるで違っていた。
「いいか。調理師ってのは世間から偏見を受けて見られてる。まるでやくざな仕事そのものに思われているのが普通なんや」
 水野先生の顔は真剣だった。
私は頷いた。
「だからと言って君がいい加減な調理師になっていいはずがない。僕は社会に胸を張って堂々と仕事が出来る調理人を育てたくてこの調理師学校に転身したんだ。
よく覚えておいてほしい。
調理の仕事は人様の大切な命を預かっているんだぞ。お医者さんと同等なんだ。
だからこそ、常識も専門知識も技術も、どれもないがしろにしたらアカンのや。
今回の君らの行動は、僕の思いを裏切った。それを十分分かってほしい。
君にはクラスの模範的な役割を期待しとるから。
自分の夢を実現するために今は余分な事は自重するんや」
 水野先生の言葉は重かった。
顔を上げると、先生の笑顔があった。
ご機嫌取りのものではない。
信頼するものへ向けるものだった。
私は歯を食いしばった。(この先生の思いを、もう裏切れない。
先生が願う調理師の社会的な認知のために、いま自分が出来ることをやる。
もうよそ見はしない)先生の目に答えた。
 私の調理師修業は新たな段階に入った。
水野先生が見つけてくれた観光ホテルのレストランでアルバイトをしながら、卒業後の自分を模索しながら、調理経営や栄養学の苦手な分野もぎりぎりながら合格点を取った。
「ええか。君らの卒業まであと一か月や。
よう頑張ったなあ。
これからは少しぐらい羽目を外しても許したる。
ともに学んだ調理師仲間の思い出づくりに励んだらええ。
ばらばらになっても仲間を忘れんようにな」
 それが水野先生の最後の言葉だった。
翌日学校で知らされた驚きの事実。
水野先生の急逝だった。
くも膜下出血で倒れた先生は、運ばれた病院で息を引き取ったのだ。
 卒業式の日。教え子一人ひとりの心に、水野先生の笑顔はあった。
勿論、私の胸の内にも、(よう頑張ったなあ)と笑う先生がいた。
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兄の信頼と思いやりを知った日

2014年12月28日 00時20分49秒 | おれ流文芸
兄の信頼と思いやりを知った日

十年間続いた喫茶店の経営も、あっけなく終わりを迎えた。生後一年に満たない赤ん坊を含む三人の子供を抱え、蓄えなどないまま、収入源を失うはめになった。崖っぷちに立たされた私を支えてくれたのは妻だけだった。

失意の中での居候生活

「大丈夫よ。しばらく休養する気でいればいいわ。何とかなるって。私が頑張る番だから」
 妻は出産を機に辞めていた保母職に復帰した。臨時職であるため収入は少なかった。それがいまや一家の生計を担っていた。家計は厳しく、私は恥を忍んで、田舎の父に救いを求めた。
「お前の家やないか。気兼ねいらんぞ。はよ、みんなで帰ってきたらええ」と父。
「二人きりの兄弟やで。水臭いこといわんと、さっさと帰らんかい。にぎやかで楽しいなるやないか」と、兄も笑顔で迎えてくれた。
 田舎に落ち着いた私たちは、環境の変化こそ徐々になれてきたが、生活の苦しさは変わらなかった。私も働かなければと思うのだが、赤ん坊の面倒を頼める相手がいない。小学生の長男と長女の送り迎えや世話もあった。私は新しい仕事に踏み出すきっかけを失っていった。
 最初こそ、やらなければという義務感が優先したが、時間が経つにつれ、大の男が仕事につけないでいる状況へのジレンマが、徐々に私を苦しめていった。仕事から帰ってきた疲れ気味の妻をやさしく迎えるゆとりすら失っていた。兄は、そんな私たちのことをいつも気に掛けてくれた。
「焦ったかて、どないもならへん時はあるもんや。一年や二年、回り道したと思うたらええやないか。わしら、たった二人きりの兄弟やで。頼らんかい。兄貴に任しとけや」
 年子で育った兄弟。小さい頃から、何かにつけ私をかばってくれた兄。お互いに家庭を持った今も、そんな兄は健在だった。
 失意と傷心を引きずった田舎での居候生活も半年近く続いた。状況に全く好転の兆しは見られなかったが、兄も、兄の家族も、温かく接してくれた。私は、みんなが優しくしてくれるほど、ますます肩身が狭くなった。
 心理的に追い込まれた私と妻の間に、小さな諍いが目に見えて多くなった。本来なら、家族のために懸命に働いてくれる妻をやさしく慰労し感謝の気持ちを表すものなのに……。私は相手を思いやれないほどに精神的に追い込まれ身勝手になっていた。

兄が残してくれたもの

「おっちゃん!」
 ある日のこと、血相を変えた姪が飛び込んできた。異常な雰囲気に、私の胸は並みだった。
「どないしたんや?」
「……死んだ……!」
「?」
「お父さん……死んだ!」
「ウッ!兄貴が……死んだ……?」
 父と兄、二人でやっていたブリキ屋。職人の兄は、高さ四メートルの足場から落下して亡くなった。父の目の前で即死だった。
 朝、出掛けに顔を合わせた。
「おはよう。仕事行ってくるわ」
 と、いつもと同じ笑顔を見せた兄は、数時間後に新でしまった。
 兄の遺体と対面。通夜。葬儀。あっという間に時間は過ぎていった。
 一周忌の翌日、呼び寄せた私に話しかける父の顔は神妙だった。
「お前の家を建てるぞ」
「え?」
「元気やった頃から、兄ちゃんな、ずっとわしに言うとったぜ。お前に落ち着き場所を作ったらなあかん。長男やから、俺には最初から家があった。そやさかい、えらそうなことも言えたし、仕事かてちゃんとできとる。弟にも同じ条件、与えたらな、俺は大きい顔して説教もできひん。なあ、あいつの家、建てたろや。なあ、親父。そない言うてなあ」
 思いもよらない話だった。私の事をそこまで思いやってくれていた兄。あの底抜けに明るかった兄の笑顔が私の脳裏を占めた。
「あいつ、俺と同じ土俵に立っとったら、絶対負けよらん奴や。頭はわしよりええし、負けん気も俺以上や。家を持ったら、家族を守るために、ええ仕事やってのけるで。……自分のことみたいに言うとったわ」
父の口を借りて伝えられる、兄が弟に託した励ましと、期待と信頼。言葉も出せずに目を潤ませる私に、父は大きく頷いた。
 翌週から、私の家作りは始まった。赤ん坊を傍らに置いて、草刈りから盛り土、聖地と、父との二人三脚の作業が続いた。その過程で、私のために手配してくれたに違いない兄の足跡をあちこちに発見した。職人として年季を積んでいた兄の段取りは確かだった。
三年余りかかった家作り。その間に、私の置かれた環境も大きく変わった。こどもたちも、さほど手のかからないほどに成長していた。私自身は、家作りに直接たずさわることで、仕事についていた頃の自信と意欲を取り戻していた。
家の完成を前に、私の再出発は実現した。仕事も自分で見つけた。ガムシャラに働いた。回り道をした時間を取り戻すように……。
もちろん何度も行き詰まったが、そのたびに兄の顔が浮かんだ。
(……絶対負けへん奴や。……ええ仕事やってのけるで)
 兄の叱咤と激励がいつも身近にあった。やるしかなかった。兄の分も!
 兄の急逝から、十八年。還暦を前にした私が懸命に生きてきた人生を、堂々と兄に報告する私だった。
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歩いて徒然考

2014年12月27日 00時08分57秒 | おれ流文芸
歩いて徒然考

 あれだけ歩いたのは何十年ぶりだろうか。十一時に家を出て、目的地にようやく辿り着いたのは昼もとっくに過ぎた二時頃。山あり谷ありの行程と、途中で道に迷ったりと、総距離はハッキリしないが、とにかく長かった。
 このキツイ行動は、実は生来のウッカリ者の小生が免許証を紛失したことに端を発する。絶対抜けられない会合を目の前にして、免許不携帯か順法精神かの二者択一にかなり頭を悩ました挙げ句、これまた生来の小心者ぶりを発揮、自分の足で歩く決意に至る。
 車で二十分ぐらいの所だが、歩けば二時間はかかると目安をつけた。弁当とミカン、柿、それにちょっと大きめの魔法瓶をねじこんだリュックを背中に負ぶった。かなりの重さを感じたが、
「なにこれくらい!」
 と根っからの負けん気が顔を出す。若い頃、どこかしことよく歩き回ったキャリア(?)がある。
 コースは幹線道路を避けて、農道や畦道、山道のたぐいを選んだ。十一月に入ったばかりだが、数日前に木枯らし第一号が吹いている。出発した十一時頃も、やはり肌寒かった。年齢を考えて少し厚着をした。さ、スタートである。
 青空が広がる秋の田圃道を歩くのはさすがに気分がよかった。刈り取りの終わった稲株が点々と残る田圃を道がわりに歩くと、子どもの頃、農繁期に稲刈りに駆りだされたことを思い出す。
 今は亡き兄と藁を投げ合い、稲株を物ともせず、くんずほぐれつして転げ回った記憶。ツボキ作りに懸命な大人たちの大きな怒鳴り声。黄色いタクアンだけがおかずのデカイおにぎりを頬張った昼。神藁の匂いが漂うだだっ広い田圃に十人近くが円座を組み、賑やかに食べたおにぎりは最高に美味かった。
 時間を見るとすでに一時。道に迷ったのは確実だった。うらぶれた家並みが続いていても人影は全くない。石橋のたもとでドッカリと腰をおろすとリュックを開けた。紙コップにティーバッグ、そして熱湯。これで紅茶の出来上がり。まず一服。焦るのはそれからでいい。
 足元のリュックにツーと飛んできて止まったのは赤蜻蛉だった。胴の見事な赤色に目が吸い込まれる。そこに自然が息づいている。
 目的の建物が目に入ったときは二時前。二十分ばかりの遅刻だ。みんなの怒っている顔が浮かび、少し足は早まった。
 でも、いいじゃないか、時間なんて。時間に追いまくられる人間の不幸が、今日は他人事に思えない。そんなものを遥かに超越したゾーンを歩いてきた幸福。このまま歩き続けたい……!
 両肩の痛みが現実を呼び戻す。
 立派に護岸された川や、舗装道路の突然の行き止まり、人影のない田舎道、それでも、車クルマ……。人間はどこに向かって行くのだろうか?         (四十七歳記)
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憂鬱な逃亡・完結編

2014年12月26日 00時03分48秒 | おれ流文芸
「この新聞、あいてまっか?」
 隣に座っていた中年の男が無遠慮に手を突き出して訊いた。判事も待たず、男はすかさず手をグイッと伸ばし新聞を鷲掴みしていた。祐介は伝票を掴むと立ち上がった。もう自分がいていい時間のエリアはとっくに過ぎていた。これ以上、長っ尻でおれる図々しさを持ち合わせていなかった。
「ありがとうございました。またどうぞ」定番のレジ係の言葉に送られて店の外へ出ると、祐介はなぜかホッとした。淀んだ空気から、漸く解放された思いがあった。エスカレーターを降り切った所で、階下のパチンコ屋の開店時間を待ちきれず、たむろした男や女が賑やかしく列を作っていた。
 祐介は自分のいる場所を探しあぐねた格好で結局姫路駅に戻った。駅のど真ん中に居場所を確保している、丸くて大きい時計が目に入った。チッチッと秒針は動き続けていた。仕事を休むと決めて得られた解放感に浸った、あの時間からまだ一時間も経っていないのを確かめて、祐介は思わずため息をついた。時間手奴は、なんて思い通りにならないヤツなんだ、と小憎らしかった。きのうの日曜日は家でゴロゴロして過ごしたが、その時間はアッと言う間に終わった。今朝は身勝手な手段で手に入れた休日だが、やはり同じように過ぎてしまいそうな予感があった。祐介はまた憂鬱な気分に襲われた。どこかに祐介が自由な時間を満喫出来る場所があるなどとは到底思えない。大体、休日に家を離れて遠出するなど、まるで無縁の祐介に、それは最初から無理な相談だった。祐介は財布の中身を調べた。給料を貰ってまだ二週間、そんなに減ってはいなかった。給料の半分は家に入れて、後の半分は小遣いである。それとて恋人もいないいない祐介に余り使い道はなかった。他人に生真面目と見られるように、祐介は遊びや買い物、グルメみたいなものとは皆目縁のない、寂しい若者だった。
 いきなり、京都へ行こうと思い付いた。唐突だったが、前に職場の同僚が得意気に喋っていた、太秦の映画村に行きたくなった。無駄に一日を送るぐらいなら、思い切って京都に行ってみよう。何かがあるかも知れない。祐介は初めて目的を持った。胸はドキドキと、期待と不安がないまぜになった鼓動を打った。
 窓口で京都までの往復切符を買った。駅員が訝るように覗いている気がして、祐介は身を固くしたが、それは祐介の思い過ごしでしかなかった。駅員はさも退屈そうに生欠伸を繰り返しながら切符を発行した。
 京都は祐介の期待を裏切った。別に京都に罪があったわけではなく、祐介自身がそう思い込む原因を抱えていたからである。太秦の映画村は、そう問題なく行き着いたのだが、バスに乗っても、映画村を歩いても、、どこに行こうと、やはり祐介は全くの一人ぼっちだった。それで面白いようだったら、元より人間は群れて社会を構成する必要などない証明になる。自由は人間の夢や願望であっても、所詮一人で生きていけない脆弱な本性が現実の人間だった。祐介は、そんな人間のひとりである。
 祐介は映画村をひと回りもしないうちに踵を返した。とにかく詰まらなかった。賑わいはそれ相応にあるだけに、祐介の孤独感は一層募るのだった。半年前に職場の慰安旅行でで京都を訪れた時は、それでも結構楽しかった記憶が残っている。ミヤコホテルで食事をした。幸せな気分でご馳走に箸を運ばせたのも憶えている。同じ京都なのに、一体何が違うのか?そうだ。あの時はみんんがいた。祐介の頭に次々と、職場の気心が知れた連中の顔が浮かんだ。あの若い事務員も、いつも祐介に笑いかけてくれた。職場をまとめる専務のどこか間延びして見える顔も浮かんだ。
 祐介はバスに急いだ。太秦を後にした。京都駅に辿り着くと、そのまま快速電車に乗り込んだ。
 京都にやって来る途中、京都へ近づくに伴い、白けた気分がいや増したものだったが、姫路へ帰る今はちょうど逆転した形で、不思議に鼻歌を口ずさみたい程、気分が高揚した。
 姫路駅に着くと、祐介はとたんに空腹を覚えて、地下街にある大衆中華料理店に飛び込んだ。よく利用する店だった。ホッとした。腹拵えが出来て人心地がつくと、祐介は店の油にまみれた汚らしい風情の時計を見上げた。職場の就業時間になっていた。
 嘘で手にした臨時の休日は、もう終わろうとしていた。長かったようで短かった、祐介の虚構の一日は、結局はかなく終わりを向かえ阿多のである。
 しかし、無駄ではなかったと、祐介は思う。いつまでとは定かではないが、憂鬱な月曜日の訪れは、ここ暫らくはなくなるだろう。それでも再び憂鬱な朝がやって来ようものなら、今日と同じ無為な休日を送ればよいではないか。祐介は、思わず苦笑した。(完結)
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憂鬱な逃亡・その2

2014年12月25日 01時22分29秒 | おれ流文芸
職場の誰かの家族に不幸があれば、会社からそれなりの弔慰金が出ることになっているが、伯父、甥なら対象にはならない。だから反射的に伯父を殺すはめになった。伯父が知ったら、頭から湯気を出して怒るだろう。殺されても死なないようなゴツイ伯父の顔が、祐介の頭に浮かんだ。
「それはどうも、ご愁傷さまです。はい、専務の方にはちゃんと連絡しときますので」
「よろしく頼んます」
ガチャッと受話器を引っ搔けると同時に、祐介の内部にみるみる解放感が広がった。さっきまでのどんよりした気怠さが嘘みたいにかき消えた。事実、嘘だったに違いなかった。
 祐介の足は自然と、いつもの駅前の喫茶店に向かった。グランド喫茶の肩書通り、店内はかなり広かった。いつもと一時間ぐらいの時差なのに、混み方も客層もガラリと変わっているのが、ちょっとした驚きだった。祐介の指定席は幸運にも空いていた。別の席でも一向に構わないのだが、不思議と落ち着けないのは、前に一度、掟破りのフリーの客に指定席を奪われた時に体験済みだった。祐介は新聞ラックから、朝刊三紙と、スポーツ紙一紙を取り上げてテーブルに着いた。今朝は、ゆっくり新聞が読める。いつもの十分間では、珈琲カップをせわしく口に運びながら、空いている片手でピッピッと性急にめくり、紙面に目を走らせるのが精一杯だった。せいぜい一紙の政治面から社会面、テレビ欄まで走り読みして満足する時間でしかなかった。
「今朝はゆっくりなんですね?」
 顔馴染みのウェートレスがおしぼりと水の入ったグラスをテーブルに置きながら声をかけた。顔馴染みだといっても、私的な会話を、そうしょっちゅうするわけではなかった。今朝のを含めれば、これまで三度ぐらいのものである。
「おはようございます」
 とオーダーを取りに来る彼女に軽く会釈して見せるだけのコミニュケーションが殆どだった。ちょっとふくよかな体型で、スマートには程遠い女の子だったが、祐介は彼女の醸し出す田舎っぽさに好感を持っていた。彼女の底のなさそうな笑顔が、祐介の胸をときめかしさえした。それでも、十分間の逢瀬(?)は、名公的な性格の祐介の持ち時間としては、余りに短かった。
「お休みなんですか?」
 最初の質問にドギマギしているうちに、彼女は更に訊いた。朝のピークタイムが終わった後だけに、ゆっくりした対応だった。
「ええ、まあ」
 祐介はやっと、それだけ答えた。
「いつものでいいですか?」
「はい、お願いします」
 せっかくのコミニュケーションを深めるチャンスがついえ去った。ウェイトレスは笑顔を残してさっさと立ち去った。よく突き出た尻が格好よくスカートに包まれて、右に左に揺れて遠ざかるのに、祐介はしばし見惚れた。珈琲とモーニングセットの皿を彼女が運んで来た時、祐介はスポーツ新聞の大相撲の記事に神経を奪われ、目の前にそれが置かれるまで迂闊にも気付かずにいた。
「ありがとう」
 祐介は消え入りそうな声で慌てて礼をいったが、既に役割を終えた彼女は、こちらに背中を向けていた。遠ざかる魅力的な彼女の尻は、もう祐介とは無関係にリズミカルな揺れをを見せているだけだった。祐介はゆっくりと珈琲を味わい、新聞の隅から隅まで目を通すつもりでいた。それは、毎朝時間に追われ続ける祐介のささやかな願望である。どう考えても時間が自分の自由になるなんて不可能だった。その時間が今はどうにでもしてくれと、祐介に身を任せて来ていた。じっくりと料理すればいいだけだった。祐介は十分もせぬうちに尻が落ち着かなくなった。思惑に反して、どんどん居心地が悪くなるばかりだった。珈琲をじっくりと口に含んで味わおうとしているのに、口に入った珈琲は喉へ直行してしまい、みるみる間に白い肉厚の珈琲カップの中身は底を見せた。珍しくモーニングセットのトーストを平らげるべく手をつけたが、それも時間稼ぎにはならなかった。ゆで玉子すら、あっさりと殻は剥けすぐに胃の腑へ収まってしまった。新聞は、いざ落ち着いて読もうとしても、そう簡単に習慣づいたことは改まらないもので、せっかちにピッピッとめくっているちに、もう興味のある記事はひとつもなくなった。新聞を抛り出すと、椅子の背に身体を押し付けて、落ち着かぬ視線を店内に遊ばせた。また客層が変わっていた。主婦らしい女たちの姿が目立っている。集金袋をテーブルに投げ出したブローカー然とした男が、シーシーと歯を穿っていた。風体の定まらぬ連中もあちこちに見える。階下にあるパチンコ屋の開店を待っているのだ。               (続く)

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憂鬱な逃亡・その1

2014年12月24日 00時06分59秒 | おれ流文芸
憂鬱な逃亡

 朝起きた時から、どうも気分はしゃんとしなかった。だいたい月曜日の朝は、いつもこんな具合に始まり、なかなか軌道に乗らない日が多い。朝は元々苦手だが、中でも日曜明けは特別に酷かった。それでも洗面に立って、トイレを済ませると、何とか出勤する気になった。朝食は昔から取らない習慣で、時間があれば駅前の喫茶店に入って珈琲を注文する。それに付いて来るモーニングすらあぐねてしまう程、朝は胃がなかなか目覚めないでいる。家から二十分かけて自転車、S駅から姫路駅まで四十分。駅前の喫茶店で十分ばかり過ごし、それから十五分歩いて職場に入る。ディーゼル機関車の引っ張る列車が遅れない限り、毎日判で押したような行動だった。
 S駅でギュウギュウ詰めの列車に押し込まれて、祐介の気分は一層滅入った。田舎育ちのせいでか、どうも人混みは苦手だった。姫路駅に降り立つと、祐介はたまらず駅頭のベンチに座り込んで頭を抱えた。頭が痛んで、気分は最悪だった。吐き気すら覚えた。やっと落ち着くと、祐介はぼんやりと人の流れを見た。通勤の人の波が狭い改札口に殺到している。改札の制服は手慣れたもので、器用に捌いていた。仕事とはいえ見事だった。祐介は目を閉じて、イヤイヤでもするように頭を振った。スーッと奈落の底へ落ち込む感じで目眩を憶えた。尻をベンチの上で、前の方にずらせた。グッタリと、まるで酔っ払いである。腕時計を確かめると、九時十五分前だった。もう動き出さなければ間違いなく遅刻してしまう。祐介はフラッと立ち上がった。まだ人並みの義務感は残っていそうだった。夢遊病者みたいな足取りで、祐介は東出口に回った。改札を出ると、見知った顔に出喰わしはしないかと、キョロキョロと辺りを見回した。駅員以外に人影は見当たらなかった。祐介はなぜかホッとしたものを感じたが、今度は足が前に踏み出せなくなった。早く出勤しなければとの焦りは募るのだが、それがうまく全身の筋肉に伝達しなかった。身体が妙に気怠かった。祐介はプレッシャーに逆らうのを止めて、近くの電話ボックスに入った。かれこれ三年も勤める職場だが、その電話番号はいまだに記憶できない。それで別に支障もなく勤まっているのが不思議だった。これまでに外から職場に電話を入れたのは二度しか憶えがなかった。その二度の電話も、この二、三ヶ月の間で最初のは、やはり今朝と同じ月曜日、憂鬱な気分で迎えた朝だった。 
 あの朝も駅に着いた早々、気怠さに襲われてベンチでひと休みしたが、遅刻は間違いなしとなって、慌てて電話ボックスに走り、せっつかれたように手帳の一ページ目に書かれた数字を辿ってプッシュボタンを押した。
「あの、ちょっと熱が高うて、済んませんけど、少し遅れてから、仕事出よ思て」
 大分逡巡した末に、職場の電話口に出た事務員に嘘を告げた。祐介は見えない相手に殊更ペコペコと頭を下げた。その日は一時間ばかり遅れて仕事に出た。いつもの駅前の喫茶店で無為に時間を過ごした挙げ句、職場に駆け足で向かった。二度目は、三週間前の、やはり月曜日だった。起き抜けから気分がすぐれずに、姫路駅まで何とか辿り着いたものの、どうしても職場へ出る気にならないまま、やはり前回に倣って電話ボックスに入った。
 今度は前の時よりは、かなりスムーズに職場へ電話が入れられた。相手は同じ事務員だったが、彼もこなれた調子で受けた。
「ちょっと足…捻挫しちゃって、病院に回ってから、仕事に出ます。
 捻挫なんて口から出任せだったが、何の罪悪感も感じず、えらくスラスラと口から出た。それで午前中は姫路城の城内公園のベンチでボヤーッと過ごし、結局、仕事に出たのはその日の昼過ぎになった。同僚が捻挫を心配して、声をかけてくれるのに、えらく焦って弁目にこれ務めたものだった。
三度目の正直ってやつなのかも知れなかった。祐介は手帳をめくる手が小刻みに震えているのに気がついた。何か大それたことをしでかす前に、こんな風に心の乱れが手足の末梢部位に反映したりするものだ。祐介は気後れする自分を鼓舞しながら電話をかけた。
「はい、清流倶楽部ですが」
職場はすぐにつながって、例の事務員の、苦々しい程事務的で明るい声が応じた。まだ二十歳になったばかりの事務員は、まさしく青春を謳歌していた。五時になると、同僚がいかに残業で追いまくられていようとも、些かの躊躇もせずに脱兎の如く職場を出る。以前、盛り場で見かけた彼は、身なりのいい美人と手を繋ぎあって歩いていた。他にもかなり発展している彼女がいるらしかった。
「あの、矢島です。今日休ませて貰いたいんですが。はあ、田舎の方で不幸がありまして。いえ、伯父なんですが」   (続く)
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海へいこうよ・完結

2014年12月23日 00時33分38秒 | おれ流文芸
「ただいま!」
 お父さんが帰ってきました。はたらいてつかれているのに、いつも元気いっぱいです。
「どうしたんだ?みんな」
 その場のふんいきがおかしいのに気づいたお父さんは、だれにともなくたずねました。
 お母さんが、さっきの話をせつめいすると、お父さんはニヤリと笑いました。
「なーんだ、それでか。おい、リューゴ、お前は海がきらいなのか?」
「好きだよ、とても」
「ショーゴは?」
「大好き!」
「それじゃナツミは?」
「いきたい!」
「じゃ問題はないじゃないか。みんな、お母さんといっしょに海へいって楽しんできなさい」
 お父さんは、やっぱりニコニコして言いました。
「でも、お父さんがいかないと、つまらない」
「つまらないよ」
「つまらないもん」
 子どもたちは声をそろえて言いました。
 そこでお父さんは申しわけなさそうに言ったのです。
「お父さん、ほんと言うと、ぜんぜん泳げないんだ。だから海は大きらいなんだ」
 お父さんのいがいなことばに、みんなはキョトンとしてしまいました。
「そんなお父さんを、みんなはムリヤリ海へつれていくつもりかい。どうだ?リューゴ」
 お父さんにきかれてリューゴは考えこんでしまいました。
「みんなだって、きらいなところへムリヤリつれていかれても楽しくないだろ。だから、お父さんは海へいかないことにしたんだ。こんど山へいくときは、お父さんもいっしょにいくよ。山は大好きだから、そのときは、山のきらいなお母さんが、おるす番だ」
 お父さんは、子どもひとりひとりの顔を見ながら、とてもわかりやすく話してくれました。
「これでも、みんなは海へいかないで、お父さんの仕事をてつだうって言うのかい?」
「ウウン、海へいく」
 一番下のナツミが言いました。
「ぼくも海へいって泳ぐんだ」
 二番目のショーゴも元気に言いました。
「ぼくも海へいってさ、絵日記にかくんだ」
 さいごにリューゴが言いました。
 お父さんは、やっぱりヒコヒコして、一人一人に大きくうなずいてくれました。
「それじゃ、もう一度きくわよ。今度の日曜日、お母さんと海へ遊びにいきたい人―!」
「ハーイ!」
「ハイ!」
「ハーイ!」
 リューゴも、ショーゴも、ナツミも力いっぱい手をあげて返事をしました。
 お父さんとお母さんは、顔を見あって、とても楽しそうに笑いました。

「アレ?これ、お父さんでしょ」
 アルバムを見ていたリューゴが言いました。
 そばにいたお母さんが、ソーッとのぞくと、お父さんの写真がはってありました。それも海水パンツで砂はまに立っているのです。
「お父さん、泳げないのに、こんなカッコしてるよ。だれか悪い人が、お父さんのきらいな海へムルヤリつれていったんだね。かわいそうな、お父さん」
 お母さんはクスリと笑ってしまいました。だって、お父さんをムリヤリ(?)海へつれていったのは、お母さんだったからでした。
               (おわり) 
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海へいこうよ・その1

2014年12月22日 00時02分27秒 | おれ流文芸
海へいこうよ

「次の日曜日に海へいこうか?」
 お母さんが、いきなりてい案しました。
 ちょうど晩ごはんの途中だったリューゴは、箸をごはんにつきさしたまま、お母さんの顔を見ました。あまりにビックリしたからです。
 だって、家は商売をしていたので、今まで一度も、みんなそろって遊びにいったことがありません。いつもお母さんは、
「みんながごはんを食べられるように、お仕事がんばらないとね。ごめんね、みんな」
 と済まなそうに、あやまってばかりでした。
 それが、海へいこうだなんて、一体どうしたんだろうと、リューゴは不思議に思ったのです。
 同じように晩ごはんを食べていた、弟のショーゴや妹のナツミも、信じられないと言った顔をしています。
「どうしたの?お母さん」
 リューゴは思いきってたずねました。
「どうもしやしないよ。なに変な顔してんの、海へいくのが、そんなにうれしくないのかい」
 お母さんはガッカリしたようでした。そりゃそうです。お母さんは、きっと子どもたちが、もっと喜ぶときたいしていたのです。
「そんなことないよ。うれしいさ。なア」
 リューゴは、あわてて言うと、弟たちにも呼びかけました。
「うん、うれしいな。海って広いんでしょ」
 ナツミが、はしゃいで言いました。
「泳いでもいいんでしょ。ぼく少しだけど泳げるようになったんだぞ」
 ショーゴも、うれしくてたまらないふうです。スイミングスクールに通って、やっと泳げるようになったからです。
 みんなが、とてもうれしがったので、お母さんも、やっとニコニコしました。
「お仕事のほう大丈夫なの?」
 さすがリューゴは、お兄ちゃんです。もう新一年生になって、しっかりしてきました。ちゃんと質問もできるようになったのです。
「うん。お父さんが一人でがんばってくれるんだって」
 お母さんが、そう言うと、とたんにみんなは元気がなくなりました。家族みんなでいけると思ったのに、やっぱりお父さんはいけないのです。お父さんは、るす番なのです。
「お父さんもいけばいいのに」
 お父さんが大好きでたまらないショーゴが、つまらなさそうに言いました。
「そうよ、お父さんだけ、なかまはずれにしたら、かわいそうだわ」
 ナツミも小さな口をとがらせました。
「一日ぐらい、お休みとっていけばいいのに。お父さんは、ぜったいいけないの?」
 リューゴは、お母さんにききました。
「お店は休めないからね。でも、せっかくお父さんが、みんなに夏休みを楽しんでもらいたいって思ってんのよ。みんなが海へいかないなんて言ったら、きっとお父さん悲しくなってしまうよ。それでもいいかい?」
「……ううーん……」
 お父さんが悲しむなんてイヤです。でも、やっぱりお父さんもいっしょにいってほしいのです。だから元気のないへんじになりました。
 お母さんも子どもたちのようすに、
「ウーン」
 と弱ってしまいました。   (つづく) 
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