こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

明け方の贈り物

2015年01月07日 00時44分50秒 | おれ流文芸
明け方の贈り物

 夕方から明け方にかけての深夜勤務についてから、子どもたちとすれ違いの生活が始まった。出勤するときには子どもたちは遊びに出ているか、まだ学校だったりするし、帰宅したときは夢の中なのだからしかたない。
 その日も明け方、眠い目をこすりながら帰宅した私が玄関を開けると、なんと玄関先に子ども三人と妻が揃ってお出迎えである。
「お帰りなさい!」
「お仕事ご苦労さま、おとうさん」
 正直驚いた。それにくすぐったい。
「なんだい、お前ら、おどかすなよ。それにまだ眠たいやろが」
 照れ隠しに質問の連発だ。
「お風呂、いい湯加減に沸かしといたから、すぐ入ったらええ」
 と小六の長男が進める。
「お前、沸かしてくれたんか?」
「うん」
 さっそく風呂に入った。本当にいい湯加減で気分はもう最高。
「はよ、上がって来てや」
 妻がそっと風呂場をのぞいて言った。
「どないしたんや?」
 さっきから気になってしかたがないので、今朝の家族の対応の理由をたずねた。
「もう、きのうはあなたの誕生日やんか。そやから、子どもらがお父さんにプレゼントするんや言うて、張り切ってはよ起きて待ってたんやで、みんな」
 そうだ。きのうは私の四十八回目の誕生日だった。すっかり忘れていた、自分のことなのに。
「奈津実がちゃんと覚えてたんや」
 中一の長女が覚えていてくれたとは。しかもみんな眠いのを我慢して起きて帰りを迎えてくれたなんて、もう最高に観劇だ。
 そして、子どもたち三人が相談して考えたと言うバースディ・プレゼントは、アイマスクと耳栓。昼の明るいときに眠らなければならない、私の苦労をよく知っていたのだ。
 その日は手製のボール紙を黒く塗りつぶしたアイマスクと、綿を丸めた耳栓を使ってグッスリと眠った。幸せいっぱいの暗闇の中で、心地よいイビキをかいたのである。
(母の友1996年12月号掲載)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失意の私の前に

2015年01月06日 00時04分46秒 | おれ流文芸
失意の私の前に!?

 私の半生で最も痛烈な打撃だった。当時三十歳、それまでは多少の波はあれこそ、好運に恵まれトントン拍子にきていたせいもあって、失意のどん底を味わう事となった。
 独立の夢を描き脱サラ、調理師学校を経てレストラン、喫茶店で修業を積み、遂に一軒の店を任されるまで七年がかり、兎より亀になるんだと、慌てず騒がず、じっくりと取り組んできた。しかし開店二年目、不景気風もあり、売り上げがジリ貧状態になった。
 いろんな対策を講じてはみたものの、悪い時には悪い事が重なるもので、売り上げが回復しない内に体調を崩してしまったのである。店のオープン以来、年中無休の長時間労働に堪えてきたツケが回ってきたのだ。健康だけには自信があったのに……。
 オーナーは慰留してくれたが、自信をなくした私は結局辞める事にした。
 無職となり、失意にかまけてブラブラする毎日を送る私の唯一の希望は、結婚を前提に付き合っていたK子の存在だった。
「まだ若いし、身体さえ治せば必ず独立の夢がかなうわ。一緒に頑張ろうよ」
 そう励ましてくれたK子さえも、二か月後には、もう心変わりしていた。無理もない、まだ学生で将来の夢もいっぱいのK子に、デートする度、グチってばかりいる私の姿は、きっと堪え切れなかったのだろう。
「わたし、小学校の先生になるの。齋藤さんも自分の夢の実現に頑張ってね。今までありがとう。……さようなら」
 K子は明るく笑って別れを言って去った。
 この失恋はとどめの一発となった。私の生活はどんどん乱れていった。働きもしないで毎晩のごとく飲み歩いた。
 父も母も呆れてはいたが、ただ黙って見ていた。病気と失職、失恋……これらの事情を知っていただけに何も言えずにいたらしい。
 しかし、僻み根性に染まっていた私には、両親の思いやりは逆に負担になった。もう、どうにでもなれ!と捨て鉢な気持ちで家に閉じこもる日が多くなり始めた。
 そんな時、調理師学校時代に得た友人のO君から連絡があって、何年ぶりかの旧交をあたためた。O君は六歳年下だったが、調理のキャリアは私以上だった。中学を卒業した頃から喫茶店や食堂で働いていたらしい。そんな彼と出会ったのは、調理師学校だった。
「自分が店長やってた店に連絡したら、もう辞めたって聞いたんやけど、今どないしとんや?」
 人の好いO君は、自分の事のように、心配そうにあれこれ私の話を訊いてくれた。
 O君とあった時から不思議に素直な気持ちになっていた私は、堰を切ったように事情を逐一話していた。
「俺と一緒やな」
 O君は笑顔はそのままでボソッと言った。
 O君は先天的な心臓障害を持っていて、これまでに数回手術を受けた事を話した。
「しゃあない。これも運命や思ってる」
 アッサリ言ってのけたO君は、脇の下の切開跡まで見せてくれた。
「こんなんあったら、女の子なんか誰も相手になってくれへんわ。無理あらへんけど」
 若いのに悟りきった感じのO君。心臓障害と長年付き合って来たせいだったのだろう。
「いかん、いかん。こんな暗い話やめとこか。久し振りやからパッと行こうぜ」
 O君は本当に嬉しそうな表情をつくった。
 その日、私とO君は一日中遊び回った。パチンコ、打ちっ放しゴルフ、喫茶店、レストラン……夜になると酒を呑みに出た。
 もう嬉しくてたまらなかった。一人で呑んでた時の、あのクサクサしていた気分が嘘みたいに思えた。自分を取り巻く状況はまるっきり変わっていないのに、とにかく楽しかった。
「お互い頑張ろうや。俺、今、Yホテルのコックやっとるけど、来月から東京のホテルに移るつもりや。一流の腕、みがき上げるまで帰ってきやへんで」
「心臓の方、大丈夫なんか?」
「なんとかなるわ。今までそないしてやってきたんやから。負けとったてしゃあない」
 O君はあっさりと言ってのけた。
 数日後、O君と再会を固く約束し別れた。
 一週間後。私は経理学校に通い始めた。独立して店を持つ際に、必要になる経理の知識を身につけようと思い立ったからだ。身体が少々本調子でなくても出来る勉強だった。
 負けてられない!と奮起したのだ。O君と出会い語らったのが発奮材料だった。悪い状況でも、それなりに対応して前向きに生きているO君の姿をまざまざと見せられては、私も甘えている訳にいかないと思ったのだ。
 東京に行ったO君からも電話が度々あった。
「負けんなよ。お互いの夢、実現させようぜ」
 自分でもビックリするぐらい力強い言葉が出た。それは私が自分に言い聞かせる言葉でもあったと思う。
 経理学校に通い出して身体の回復は急テンポになった。健康を取り戻すと独立の夢の実現にまっしぐらとなった。
 二年後、遂に喫茶店で独立!
 開店準備も兼ねての東京行きで、私はO君の勤めるホテルに宿泊した。勿論、独立の報告は上京する前にしていたが、O君は大歓迎してくれた。夜の東京を案内して貰いながら、私は、
「ありがとう!」
 と呟き続けていた。
(1995年・文作)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先生との出会いに感謝して

2015年01月05日 00時04分18秒 | おれ流文芸
先生との出会いに感謝して

 その夜、夜勤に出る支度をしていた私に電話が入った。
「遅くに悪いな。どうしても電話したくてね」
 その声を耳にしただけで、O先生の底抜けの笑顔が私の頭に浮かんだ。数日前に公演した私の舞台を観劇したとのことだった。
 O先生は、出会った当時、小学校の先生だったが、別に私はその教え子というわけではない。
 私が先生と最初に会ったのは舞台を通じてである。その頃、加古川の本屋に勤めていた私が知人に薦められて足を運んだ地元のアマチュア劇団の公演舞台に、O先生は出演されていた。初めて観る生の舞台は新鮮で感動的なものだった。O先生の演出だと後で知った。
 当時の私は大学受験に失敗し、仕方なく選んだ仕事である本屋の店員だった。工業高校の電気科を卒業した私には何ともそぐわぬ選択だったが、(どっちでもいいや)という投げ遣りな気持ちだったのは確かである。
 そんな形でついた仕事に真剣になれるはずはない。それに、生来内向的な性格の私に本の販売など向いているはずもなかった。もともと高校時代に落ちこぼれた格好の私には、なかなか前向きになるきっかけが掴めなかった。
 心滅入る日々を送る私は、目の前の感動的な舞台に引き込まれてしまった。観劇後、優柔不断な私には珍しく、パンフレットにあった『劇団員募集』にすぐ申し込んだ。
 アマ劇団の稽古場だった加古川市の青年会館の会議室で、私を笑顔で迎えてくれたのがO先生だった。それでも初体験とあって不安に駆られながらO先生と対峙した。
 私に劇団へ入団を志望する動機を聞かれたO先生は、何度も頷いた後、口を開かれた。
「演劇をやるぞ!って難しく考えないで楽しくやりましょ。やることを、仲間を、とにかく好きになるのが一番。好きこそ物の上手なんてたとえがあるけど、あれ、本当だよ。それに仕事も同じ。好きになったら、どんな仕事でも楽しいものになる。アマチュアって、仕事と両立させてなんぼのもんやから、君も頑張って今の仕事好きになることやで。うん」
 別に説教めいた口調ではなく、まるで友達と談笑するようなO先生に、私の緊張と不安はみるみる消えた。
「これ、美味いで。僕の好物なんや。どうぞ」
 とO先生が出してくれた饅頭を私は遠慮なく頬張った。普段の私には考えられない行動だった。O先生を前に私は自分の殻を脱ぎ捨てていた。いつも曇りがちの心が不思議にすっきりとなっていたのが、すぐには信じられなかった。ここならやれるとの思いがした。
 本屋を辞めて加古川を離れるまでの三年間、私はO先生に演劇のイロハと、先生が永遠のテーマにされていた人権を通じて、人間愛の素晴らしさを教えて貰った。そして、先生の言葉通り、私は仕事への考え方を改め、いきいきと働くようになっていた。
 三年目に、O先生が創作された脚本の舞台で全国青年大会に兵庫県代表で参加することとなった。三日も休みを貰えるかどうか、オズオズと本屋の社長に申し出ると、心配とは裏腹に、
「仕事のことは気にせんと頑張って来たらええ。兵庫県の代表なんて名誉やし、齋藤くんは日頃、よう仕事してくれてるよって、骨休みやがな。それにO先生からも丁寧な電話を頂いたぞ。君はえらい頼りにされているんやな。大したもんや。休みは三日でええんかいな」
 と、社長は喜んで休みを許可してくれた。
「仕事をないがしろにしとったら、アマチュアの活動は出来ん。仕事に懸命に励んでたら、自然と周りも認めてくれるんや。ええ仕事するから、ええアマ劇団の活動が出来るんやな」
 O先生の口癖だった。そんな先生の前向きな姿勢を私は見習って、あれ程イヤイヤ勤めていた仕事にやりがいを見出せるまでになった。その成果が、社長の理解を生んでくれたのだと、私には確信するものがあった。
 その後、姫路に移った私は、O先生とも無沙汰を余儀なくされてしまった。しかし、O先生に教わった演劇の魅力は、所変わっても私をしっかりと捉えて離さなかった。違うアマ劇団で頑張って、同時に仕事もそれに負けない程充実した。O先生の教え通りだった。
 十四年前、私は新しいアマ劇団を旗揚げした。私はリーダーとして、あのO先生と同じ道を走り始めた。O先生の教えを私は忠実に再現し、若い後輩たちに伝えた。
 落ちこぼれて自信を失い、劣等感に苛まれてビクビクしていたのが嘘みたいに、自信満々に生き始めた私の姿がそこにあった。
 出会いの日から三十年近い年月が経っているのに、O先生の声は、やはり若々しかった。
「いい芝居やったな。感動したよ。えらい頑張ってるんで、もう僕は嬉しくてね」
 O先生の声は弾んでいた。もしかしたら、先生は昔を思い出されていたのかも知れない。
 電話口に感無量の気配があった。
「これからも、先生に教わった感動創り、やって行きます。先生にそれ見守って貰わんと」
 私の言葉に嘘偽りはなかった。O先生の素晴らしい芝居創りを通じた人間教育、私はそれで再生したのだ。その再現を私の手でと、強く誓っている。
 O先生の電話が切れた後も、暫く立ち尽くす私の頭の中で、O先生への感謝の言葉が山彦のように響き続けた。出会えたこと、教えられたこと……その幸運と先生に、有難う!
          (1998年・文作)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お小遣い

2015年01月04日 02時39分57秒 | おれ流文芸
 結婚した当初、お小遣いは月一万円。ガソリン代等は別に出るが、かなりシビアな金額だった。それが子供が出来ると、もっとシビアに。なんと五千円。
 深夜に働いていたので、友達との付き合いは滅多にない。酒もたばこもやらないのだから、「遣うことないでしよう」と妻の言い分。当たっているから黙って従う。一日一本の勘コーヒーを自動販売機で買い求めるが、時には二本となる。小遣いの半分は消える。自分で弁当を作って職場に持参して賄う。
 子どもが四人、教育費が掛かるようになると、小遣いの定額(?)給付はなくなった。毎日百円硬貨を貰って仕事に向かう。職場の自動販売機は一本百円だったので、帳尻は合う。手弁当は必要不可欠となった。
 そこで新聞や雑誌に投稿し始めた。採用されて二千円前後の図書カード。これが私の小遣いになった。私の小遣い稼ぎに、妻は「当然でしょ」としたり顔を向ける。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

親子であることの証明

2015年01月03日 01時12分34秒 | おれ流文芸
親子であることの証明

 前触れもなく父はいきなり勝手口から入って来た。ノソッという感じだった、
「おるかっ!」といつものぶっきらぼうな口調で居間に上がり込んで来て、私が寛いでいる炬燵の向かい側に足を入れた。
 珍しいことだった。別に険悪な仲だというわけではないが、父と私はどうも気楽に話せない間柄だった。私も父も似通った話し下手の不器用な性格だった。
 その父が今日はなんと自分から私と向かい合う位置に座ったのだから、内心驚きだった。しかし、私は父の用向きが即座にわかった。
 とりとめのない話を自分から始めた父の顔は、七十四歳の老人の顔そのものだった。
「ほんまに釘ばっかり打つ仕事やわ」
 私は父が聞きたいと思っているに違いないであろう、今の仕事の話の口火を思い切って切った。
「そやろ」
 父はわが意を得たりとばかり合槌を打った。
 私は二週間前に転職を図り、新しい会社の研修で新潟県の長岡市に滞在して帰ったばかりだった。新工法で近ごろ脚光を浴びている輸入住宅のパネル製作工場が新しい職場だった。
 私の転職の理由は、妻の妊娠だった。当時、私は父のブリキ屋の仕事を手伝っていたのだが、妻の保母としての収入を合わせて何とか生計は成り立っていた。
 それを妻が出産で仕事を辞めれば、収入源は私一人の肩にかかって来る。その分を今の父とともに営む仕事から得ようと望むのは無理というものだった。結局、月々しっかりと固定した収入がある仕事を探すしかなかった。
「お父さんも年やなかったら、仕事もっとできるんやけどのう。済まんのう」
 父の立場を理解している母は申し訳なさそうに言った。母はいつも父の代弁者だった。
 父はブリキ屋の後継者たる兄を事故で亡くして以来、寄る年波にも拘わらず、たった一人でブリキ職人の現役を張って来た。
 私が父の仕事を手伝うようになったのは、父が膝の痛みに耐えながら屋根に上がって仕事をしている、と母から聞かされたからだった。少しでも父の手助けが出来るならと思ったのである。しかし、経済環境がそれを許さなかった。
「どないやった?」
「何とか出来そうや」
「ほうか。そらよかったのう」
 ぶつ切れの父親と息子の会話だった。
「これのう」
 父が戸惑ったように三万円を突き出した。
「これまでの日当や。少のうて済まんけど」
「そんなん、ええのに」
 と言う私に受け取らせて、父は気弱に目を伏せた。私は自然に頭を下げていた。
「身体だけは気ぃつけて、精出せや」
 帰る父の背中に隠せない老いを見詰めながら、私は自分の腑甲斐なさに打ちのめされた。
 どう考えても老人の父と壮年の息子の立場は逆である。父が思う存分、好きなことをしながらの余生を送れるように、物心両面で支えになっていて当然の年齢の私が、いまだに父に心配して貰う子供でしかないのである。何とも情けない限りだが、この現実は今更どうこうしようがない。
 新しい職場にも少し慣れて来たある休日、久しぶりに父の仕事の助っ人を務めた。錆びたトタン屋根を剥がし、成形したカラートタンの屋根に葺き直す厄介な仕事だった。
「グラインダーは、この角度で支えたら無理せんとトタンを切れるんやど」、「この取り合いをええ加減に仕上げたら、雨が漏るぞ」
 父はえらく饒舌だった。作業ごとのコツをいちいち私に念を押しながらも、父の手際はよかった。速度こそゆっくりしていたが、丁寧な父の職人ワザは健在だった。
 父の仕事を手伝っていた頃は、いちいち父の指示にカチンと来ていた私だった。それがまるで嘘みたいに、今は素直に聞けた。
「息子さんと一緒に仕事が出来るんは一番ですな。そらあんた、幸せでっせ」
 父はその家の奥さんに声を掛けられた。
「ああ。自分の仕事が休みの日だけやけど、手伝うてくれおるんですわ」
 父の言葉に弾むものがあった。そして、私自身もくすぐったいような喜びを感じた。
「おい、道具片付けてくれや」
「ああ」
 私はすぐ片付けにかかった。父は最後の仕上げに余念がなく、狭い取り合い部分に半身をこじ入れていた。
 軍隊時代に「チビ、チビ」と苛められたらしい、本当に小さい身体の父である。その父の小さい身体に、今は仕事にかける職人特有の逞しさが漲っていた。
 やっぱり私のオヤジだと誇りを感じた。その父の子に生まれ育った私は、その逞しさを受け継いでいるはずだった。曲がりなりにも自分の家庭を持って人並みの生活をしている。それは、このオヤジのセガレだったからだ。
 仕事に没頭する父の様子を見詰める私は、思わず笑った。いきなり父が顔を覗かせた。
「なんや?」
「いや……」
 このぶっきらぼうさは、私とオヤジが親子である証明なんだ。そうだろ、オヤジ?
          (1997年・文作)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サイさんの余計なお世話

2015年01月01日 01時09分53秒 | おれ流文芸
サイさんの余計なお世話?

「あんた、この仕事、やる気あるのん?」
 いきなりたずねられてドッキリ!本を整理していた私の手は反射的に止まった。
 そーっと声の主のほうを窺うと、彼女は黙々と納品伝票の数字を帳簿に転記していた。
 サイさんは、当時勤め始めた書店の先輩だった。事務を任されていて、一か月前に店売員として入社した私とは、日ごろ接触のない部署の先輩で、顔を合わせた時に挨拶を交わすぐらいの存在でしかなかった。
 そのサイさんと取り組んだ初仕事は、新学期を事前に控えての倉庫整理だった。大量の学習参考書や、辞書類の仕分けと数量確認である。
 一か月前まで大学受験に備えた浪人生活を送っていた私は、結局受験に失敗してしまった。
「もう何でもいいや」
 という心境で、手元にあった新聞の求人欄に掲載されていた書店に、アッサリと就職してしまったのである。
 そんなヤケッパチ的に選んだ仕事。当然前向きに打ち込む気になれるはずもなく、ただ、ときの流れにまかせた怠惰な日々を送るはめに陥っていた。
 表面的には、いつもニコニコと愛想を振りまきながら、それなりの仕事ぶりを見せていたので、店主や同僚らの受けは、よかった。そんな裏側で、少しも楽しめずにいて、
「もう辞めよう、もう辞めよう!」
 と思い続けていたのである。そんな私の正体を、ハッキリと見抜いたようなサイさんの言葉だった。

「自分を裏切っているようなもんや」

「本屋の仕事なんか地味で退屈で、ちっとも面白うないもんなあ。こないしてホコリだらけになるのも、かなわんやろ」
「はい……?」
 思わず頷いていた。サイさんは初めてこちらを向くと、ゲラゲラと笑った。
「そやけどなあ。そんな仕事でも、自分が選んだんやろ。ちょっとぐらい前向きにやったからって損にならんやろ。そやないと自分を裏切っているようなもんや。それが他の人に迷惑をかけることになるねんで。そんなんやったら、ちょっとでもはよ辞めたほうがマシやわ」
 図星をさされて、何も言えずに項垂れてしまった私に、サイさんは慌てて、
「あ、ごめんやで、余計なこと言うてしもて。それでも、あんたのことが気になったさかいなあ」
 私は思わずサイさんの顔を見直した。サイさんは面映ゆそうに頬笑んでいた。
「あんた、目指していた大学へ行けへんかったんやろ。履歴書見てもたわ。自分の夢がつぶれて、どうでもええって気持ちで、ここへ就職したんと違うか。ようわかるんや。うちかて同じようなもんやったから。自分が希望するとこは、みなあかんかってん。けっきょくここへ就職するしかなかったんや」

もうちょっと頑張ってみよう

 サイさんが希望する仕事に就けなかった事情は、私のように甘ったれたものではない。先日耳にした、営業担当者らの非常識な会話をから容易にそれが推測出来た。
「あのおんな、生意気なやっちゃで。日本人やないくせにのう。堂々と向こうの名前で通しくさってからに」」
「いっぺん、自分の立場を思い知らせたらなあかんで」
 そんな彼らを同僚に、サイさんの仕事は、かなり大変だったに違いなかった。
「そやけど、唯一、自分を受け入れてくれた職場やんか。それに応えるんが当たり前やろ。そない思うて頑張っとったら、いつの間にかこの店に必要な人間になれていたわ。ほんまに不思議やけど、退屈で地味なこの仕事が、えろう好きになってた。ええか。あんたなんか、私より恵まれてるんやから、もうちょっと本気で頑張ったら、私以上になれるわ」
 サイさんは、また頬笑んで、ポケットから取り出した飴玉を放ってよこした。
「休憩しようか。ただ働くばかりじゃ能がないもんな」
 制約だらけの中で、自分の仕事を手に入れた先輩の顔が輝いていた。
(もうちょっと頑張ってみよう。私もサイさんみたいになりたい)
 そう思うと、自然に本の山に手が伸びた。
         (2002年・創作)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私を変えた、先生の「ありがとう」

2014年12月30日 00時09分21秒 | おれ流文芸
私を変えた、先生の「ありがとう」

(学校なんか、行きとうない……!)
 朝を迎えるたびに、私の切羽詰まった思いはぶり返した。時には頭が痛くなったり、腹痛を憶えたりと、登校したくない気持ちが、そんな体の変調を次々と生み出した。
「また怠ける気か?仮病使うてもあかん、はよ行かんかいな。遅刻してしまうやないの!」
 最初の頃は息子の訴えを素直に認めて、学校を休ませて甲斐甲斐しく看病までしてくれた母も、そういつまでも騙されていてはくれなかった。私が暗い顔で訴えると、(なに甘いこと言うてるのん!)といった調子で、母は私を玄関から押し出した。結局、私はイヤイヤながら登校するはめになった。
 私がそこまで学校を嫌いになったのは、私の性格が影響していた。対人関係は全くダメな、ひどく内向的な人間だった。授業であてられて発表するのにさえ、言いようのないプレッシャーに襲われ、顔を真っ赤にして何も言えず、立ち往生する有様だった。何とか口が開けても、自分でも驚くほどの、蚊の鳴くような声で、しかも震え声とあっては、どうしようもなかった。発表が予想される授業がある日は、朝から緊張感に苛まれることが、しょっちゅうだった。
 そんな私を、同級生の何人かがからかうのも、私を学校嫌いにさせていた。
「頼んないやっちゃなあ、お前」
「こいつ、国語の本、読みながら、震えてやんの。本が睨みよるんけ?」
「猫つまみ、猫つまみ、授業の邪魔やさけ、猫つまみつまんで、放り出したろこ」
 猫つまみとは、私の頭が富士額みたいになっていたところから、付けられたあだ名だった。私のぶざまな仕草の物真似をして笑い転げる級友らを前に、悔しさが募って目が潤むと、また、すかさず級友らはからかった。
「こいつ、泣きよるこ!」
「猫つまみが泣きよるど!」
 自分の机に突っ伏して、彼らを無視するしか方法を知らなかった。そうしていると、頭の中が真っ白になった。もう誰の声も聞こえなくなった。
 そんな苦しい思いをしなければならない学校。いやになるのは当然だった。だが、母や父は私のそんな思いを知らない。私は家で、学校のことはいっさい口にしなかった。ただ、黙々と宿題をするぐらいだった。団欒で話題にしたくなるような楽しいことは、学校生活にはなかった。話そうとしたら、たぶん泣けてきて、どうしようもなくなったに違いなかった。
 ただ、私が話さなくても、父や母には察してもらいたかった。それが叶えられないのも、焦れったかった。
(誰も分かってくれへん……)
 むりやり家を出された格好で登校する私の心は、言いようのない不満と絶望感に苛まれた。
 そんなある日だった。授業が終わった時、教壇から、先生が私に声をかけた。五年の時から持ち回りで担任の吉田先生だった。
「おい、齋藤。ちょっと頼みたいことがあるんや」
「は?」
 戸惑う私の席へやって来た先生は、白い画用紙四枚と神戸新聞を机の上に置いた。
「この漫画を紙芝居にしてくれへんか?お前、絵が得意やったやろ」
 四年生ぐらいまでは、毎年、絵画コンクールや写生大会でなにがしかの入賞を果たしていた。それを吉田先生は言っていた。
「僕の奥さんが先生をやっとる、W小学校の授業で使うんやと。そやから頼むわ」
 私が返事もできずにいると、先生はニコリと笑った。そして、ポンと肩を叩くと、席を離れていった。
 新聞の漫画は、佃公彦のもので、よく見慣れたものだった。
「お前、すごいやないけ」
 いきなりかかった声に振り返ると、いつもからかってくる級友の一人だった。
「先生に、もう頼まれるなんて、ほんま、ごっついわ」
 私の席に何人かの級友が集まって、口々に褒めてくれた。照れくさくなった私は、頭を掻いて、「へへへ」とにやけてみせた。
 私は懸命に白い画用紙に向かった。新聞の漫画を拡大して描き写す作業に没頭した。その日、寝たのは、もう夜明け近かった。できあがりはまあまあだと思った。
「おう、もうできたか!」
 朝のホームルームが始まる前に先生に手渡すと、吉田先生は喜んだ。
「お前、やっぱり上手いのう。うちのやつも喜びよるわ。ありがとう」
 漫画が描かれた画用紙を食い入るように見ながら、先生は私に礼を言った。不思議に私の緊張感は解けていた。
 その日以来、私をからかう声は消えた。漫画を描いてくれと頼んでくる級友もいた。さすがに授業で覚えるプレッシャーに変化はなかったが、私の毎日は嘘みたいに楽しくなった。学校に通う楽しみを、私はやっと得たのだった。
 卒業式の日。教室で吉田先生は私を呼んだ。五冊の厚い白地のノートを手渡すと、
「これは、あの紙芝居のお礼や。一年生のみんな、喜んでくれたそうや。ほんまにありがとう、な」
 また先生は礼を言った。面映ゆい気持ちで先生を見た私に、
「中学に上がっても、頑張れよ。お前には、ちゃんと、こんな得意なもんがあるんや。誰にもできるこっちゃないんやど。自信持って、行けや。ええな」
 私はノートを受け取りながら、背中越しに級友らの賛辞が込められた拍手を聞き、自然と目が潤んでくるのを感じた。
 昨年末、私は五〇歳になった。振り返ってみれば、挫折と失意の繰り返しだった。だが、それを乗り越えさせてものの原点は、あの吉田先生との出会いにあったと、今さらながら鮮明に思い出し、感慨を深くする。
         (平成十一年文作)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心に残る先生の笑顔

2014年12月29日 04時42分33秒 | おれ流文芸
心に残る先生の笑顔

「ちょっと手を見せて」
 面接の水野先生はいきなり言った。
恐る恐る出す手を易者のようにためつすがめつした先生はにやりと笑った。
「器用な手をしとるな。
なんか得意なもんあるやろ。
手先使うてやるもんで」
「漫画を描くのんが好きです」
「へえ、すごいなあ。
それやったら料理なんかもっと簡単や。
コツを僕が教えたる」
 書店に勤めていた私が一念発起して入学を目指したのが、みかしほ調理専門学校。
料理にさほど興味がある方ではなかったが、当時外食産業が花開き始めた時期で、それにちゃっかりと乗っかった格好である。
当時勤めていた書店の仕事に行き詰まっていた。
(このまま本屋の店員でいていいのやろうか?
対面販売が苦手じゃダメだよなあ)と自問自答の日々だった。
別に書店の仕事に不満があるわけではない。
ただ自分に合っているのか、ずーっと疑問に思いながらで、中途半端な仕事の取組みだった
 そんな時に目にしたのが地方新聞の片隅にあった学生募集広告だった。
『これからの花形、外食産業の担い手を育成。初心者に調理技術を分かり易く指導。
調理師免許習得。一流のレストラン、ホテル、割烹店…に就職できます。』と、心をそそられるアピールは私に決意を促した。
すぐに応募書類を用意して申し込んだ。
そして面接に立ち会って貰えたのが、あの先生だった。
水野先生である。
 みかしほ調理専門学校に通い始めた。
クラス担当の水野先生は学園長と同じ姓だったが、親戚でも何でもない。
腕とキャリアを買われて転職し、全般的な生徒指導を担当していた。
歴史ある著名なホテルのレストランでシェフだったらしい。
かなり太目で落語家の柳家金語楼にそっくりの風貌からは、とても想像できなかった。     それにざっくばらんな態度で生徒に接して人気があった。
 クラスは三十人ほどで、中学を卒業したばかりの男子から、主婦、定年退職した男性らと、バラエティに富んだ顔ぶれだった。
年齢差や男女差、生活のゆとりの差はあっても、目指すものはひとつである。
別に違和感もなくいい仲間意識が生まれた。
 実習と調理理論などの教科も、初体験なので面白かった。
初めて手にする包丁も、先生の指導通りに使うと、うまく切れた。
砥石で研ぐ授業も、なんとか乗り越えた。いつの間にか私はクラスのまとめ役の一人になっていた。
順調に進む調理師への道だった。
 ところが、半年経ったころ問題が起こった。仲良くなった学校仲間数人で授業を抜け出してパチンコに興じたのが見つかり大問題となった。
仲間に中学を卒業したばかりの男子を加えていたからだ。
謹慎処分を食らった。
 謹慎期間が明けた私は水野先生に呼ばれた。
誰もいない教室で先生と向かい合った。
あの面接の時と同じ光景だった。
しかし、先生の様子はまるで違っていた。
「いいか。調理師ってのは世間から偏見を受けて見られてる。まるでやくざな仕事そのものに思われているのが普通なんや」
 水野先生の顔は真剣だった。
私は頷いた。
「だからと言って君がいい加減な調理師になっていいはずがない。僕は社会に胸を張って堂々と仕事が出来る調理人を育てたくてこの調理師学校に転身したんだ。
よく覚えておいてほしい。
調理の仕事は人様の大切な命を預かっているんだぞ。お医者さんと同等なんだ。
だからこそ、常識も専門知識も技術も、どれもないがしろにしたらアカンのや。
今回の君らの行動は、僕の思いを裏切った。それを十分分かってほしい。
君にはクラスの模範的な役割を期待しとるから。
自分の夢を実現するために今は余分な事は自重するんや」
 水野先生の言葉は重かった。
顔を上げると、先生の笑顔があった。
ご機嫌取りのものではない。
信頼するものへ向けるものだった。
私は歯を食いしばった。(この先生の思いを、もう裏切れない。
先生が願う調理師の社会的な認知のために、いま自分が出来ることをやる。
もうよそ見はしない)先生の目に答えた。
 私の調理師修業は新たな段階に入った。
水野先生が見つけてくれた観光ホテルのレストランでアルバイトをしながら、卒業後の自分を模索しながら、調理経営や栄養学の苦手な分野もぎりぎりながら合格点を取った。
「ええか。君らの卒業まであと一か月や。
よう頑張ったなあ。
これからは少しぐらい羽目を外しても許したる。
ともに学んだ調理師仲間の思い出づくりに励んだらええ。
ばらばらになっても仲間を忘れんようにな」
 それが水野先生の最後の言葉だった。
翌日学校で知らされた驚きの事実。
水野先生の急逝だった。
くも膜下出血で倒れた先生は、運ばれた病院で息を引き取ったのだ。
 卒業式の日。教え子一人ひとりの心に、水野先生の笑顔はあった。
勿論、私の胸の内にも、(よう頑張ったなあ)と笑う先生がいた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兄の信頼と思いやりを知った日

2014年12月28日 00時20分49秒 | おれ流文芸
兄の信頼と思いやりを知った日

十年間続いた喫茶店の経営も、あっけなく終わりを迎えた。生後一年に満たない赤ん坊を含む三人の子供を抱え、蓄えなどないまま、収入源を失うはめになった。崖っぷちに立たされた私を支えてくれたのは妻だけだった。

失意の中での居候生活

「大丈夫よ。しばらく休養する気でいればいいわ。何とかなるって。私が頑張る番だから」
 妻は出産を機に辞めていた保母職に復帰した。臨時職であるため収入は少なかった。それがいまや一家の生計を担っていた。家計は厳しく、私は恥を忍んで、田舎の父に救いを求めた。
「お前の家やないか。気兼ねいらんぞ。はよ、みんなで帰ってきたらええ」と父。
「二人きりの兄弟やで。水臭いこといわんと、さっさと帰らんかい。にぎやかで楽しいなるやないか」と、兄も笑顔で迎えてくれた。
 田舎に落ち着いた私たちは、環境の変化こそ徐々になれてきたが、生活の苦しさは変わらなかった。私も働かなければと思うのだが、赤ん坊の面倒を頼める相手がいない。小学生の長男と長女の送り迎えや世話もあった。私は新しい仕事に踏み出すきっかけを失っていった。
 最初こそ、やらなければという義務感が優先したが、時間が経つにつれ、大の男が仕事につけないでいる状況へのジレンマが、徐々に私を苦しめていった。仕事から帰ってきた疲れ気味の妻をやさしく迎えるゆとりすら失っていた。兄は、そんな私たちのことをいつも気に掛けてくれた。
「焦ったかて、どないもならへん時はあるもんや。一年や二年、回り道したと思うたらええやないか。わしら、たった二人きりの兄弟やで。頼らんかい。兄貴に任しとけや」
 年子で育った兄弟。小さい頃から、何かにつけ私をかばってくれた兄。お互いに家庭を持った今も、そんな兄は健在だった。
 失意と傷心を引きずった田舎での居候生活も半年近く続いた。状況に全く好転の兆しは見られなかったが、兄も、兄の家族も、温かく接してくれた。私は、みんなが優しくしてくれるほど、ますます肩身が狭くなった。
 心理的に追い込まれた私と妻の間に、小さな諍いが目に見えて多くなった。本来なら、家族のために懸命に働いてくれる妻をやさしく慰労し感謝の気持ちを表すものなのに……。私は相手を思いやれないほどに精神的に追い込まれ身勝手になっていた。

兄が残してくれたもの

「おっちゃん!」
 ある日のこと、血相を変えた姪が飛び込んできた。異常な雰囲気に、私の胸は並みだった。
「どないしたんや?」
「……死んだ……!」
「?」
「お父さん……死んだ!」
「ウッ!兄貴が……死んだ……?」
 父と兄、二人でやっていたブリキ屋。職人の兄は、高さ四メートルの足場から落下して亡くなった。父の目の前で即死だった。
 朝、出掛けに顔を合わせた。
「おはよう。仕事行ってくるわ」
 と、いつもと同じ笑顔を見せた兄は、数時間後に新でしまった。
 兄の遺体と対面。通夜。葬儀。あっという間に時間は過ぎていった。
 一周忌の翌日、呼び寄せた私に話しかける父の顔は神妙だった。
「お前の家を建てるぞ」
「え?」
「元気やった頃から、兄ちゃんな、ずっとわしに言うとったぜ。お前に落ち着き場所を作ったらなあかん。長男やから、俺には最初から家があった。そやさかい、えらそうなことも言えたし、仕事かてちゃんとできとる。弟にも同じ条件、与えたらな、俺は大きい顔して説教もできひん。なあ、あいつの家、建てたろや。なあ、親父。そない言うてなあ」
 思いもよらない話だった。私の事をそこまで思いやってくれていた兄。あの底抜けに明るかった兄の笑顔が私の脳裏を占めた。
「あいつ、俺と同じ土俵に立っとったら、絶対負けよらん奴や。頭はわしよりええし、負けん気も俺以上や。家を持ったら、家族を守るために、ええ仕事やってのけるで。……自分のことみたいに言うとったわ」
父の口を借りて伝えられる、兄が弟に託した励ましと、期待と信頼。言葉も出せずに目を潤ませる私に、父は大きく頷いた。
 翌週から、私の家作りは始まった。赤ん坊を傍らに置いて、草刈りから盛り土、聖地と、父との二人三脚の作業が続いた。その過程で、私のために手配してくれたに違いない兄の足跡をあちこちに発見した。職人として年季を積んでいた兄の段取りは確かだった。
三年余りかかった家作り。その間に、私の置かれた環境も大きく変わった。こどもたちも、さほど手のかからないほどに成長していた。私自身は、家作りに直接たずさわることで、仕事についていた頃の自信と意欲を取り戻していた。
家の完成を前に、私の再出発は実現した。仕事も自分で見つけた。ガムシャラに働いた。回り道をした時間を取り戻すように……。
もちろん何度も行き詰まったが、そのたびに兄の顔が浮かんだ。
(……絶対負けへん奴や。……ええ仕事やってのけるで)
 兄の叱咤と激励がいつも身近にあった。やるしかなかった。兄の分も!
 兄の急逝から、十八年。還暦を前にした私が懸命に生きてきた人生を、堂々と兄に報告する私だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歩いて徒然考

2014年12月27日 00時08分57秒 | おれ流文芸
歩いて徒然考

 あれだけ歩いたのは何十年ぶりだろうか。十一時に家を出て、目的地にようやく辿り着いたのは昼もとっくに過ぎた二時頃。山あり谷ありの行程と、途中で道に迷ったりと、総距離はハッキリしないが、とにかく長かった。
 このキツイ行動は、実は生来のウッカリ者の小生が免許証を紛失したことに端を発する。絶対抜けられない会合を目の前にして、免許不携帯か順法精神かの二者択一にかなり頭を悩ました挙げ句、これまた生来の小心者ぶりを発揮、自分の足で歩く決意に至る。
 車で二十分ぐらいの所だが、歩けば二時間はかかると目安をつけた。弁当とミカン、柿、それにちょっと大きめの魔法瓶をねじこんだリュックを背中に負ぶった。かなりの重さを感じたが、
「なにこれくらい!」
 と根っからの負けん気が顔を出す。若い頃、どこかしことよく歩き回ったキャリア(?)がある。
 コースは幹線道路を避けて、農道や畦道、山道のたぐいを選んだ。十一月に入ったばかりだが、数日前に木枯らし第一号が吹いている。出発した十一時頃も、やはり肌寒かった。年齢を考えて少し厚着をした。さ、スタートである。
 青空が広がる秋の田圃道を歩くのはさすがに気分がよかった。刈り取りの終わった稲株が点々と残る田圃を道がわりに歩くと、子どもの頃、農繁期に稲刈りに駆りだされたことを思い出す。
 今は亡き兄と藁を投げ合い、稲株を物ともせず、くんずほぐれつして転げ回った記憶。ツボキ作りに懸命な大人たちの大きな怒鳴り声。黄色いタクアンだけがおかずのデカイおにぎりを頬張った昼。神藁の匂いが漂うだだっ広い田圃に十人近くが円座を組み、賑やかに食べたおにぎりは最高に美味かった。
 時間を見るとすでに一時。道に迷ったのは確実だった。うらぶれた家並みが続いていても人影は全くない。石橋のたもとでドッカリと腰をおろすとリュックを開けた。紙コップにティーバッグ、そして熱湯。これで紅茶の出来上がり。まず一服。焦るのはそれからでいい。
 足元のリュックにツーと飛んできて止まったのは赤蜻蛉だった。胴の見事な赤色に目が吸い込まれる。そこに自然が息づいている。
 目的の建物が目に入ったときは二時前。二十分ばかりの遅刻だ。みんなの怒っている顔が浮かび、少し足は早まった。
 でも、いいじゃないか、時間なんて。時間に追いまくられる人間の不幸が、今日は他人事に思えない。そんなものを遥かに超越したゾーンを歩いてきた幸福。このまま歩き続けたい……!
 両肩の痛みが現実を呼び戻す。
 立派に護岸された川や、舗装道路の突然の行き止まり、人影のない田舎道、それでも、車クルマ……。人間はどこに向かって行くのだろうか?         (四十七歳記)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする