こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

先人の知恵

2014年11月30日 00時03分28秒 | おれ流文芸
 先人の知恵は素晴らしい。レストラン、喫茶店、弁当工場……の勤務を通じて再確認した。決められたレシピに基づく仕事だが、案外いい加減さが通用する世界。何度となく先人が知恵を働かせた工夫に救われた。
 身近なところで、トマトの皮むき。湯むきも然り、冷凍して解凍でスルリ。美味しいご飯を炊くのに、お酒をちょっと。野菜の灰汁抜きも先人が知恵を生かして見出したものに違いない。いい加減さが許容される世界だから、知恵が大いに生かされたのだろう。
 客を迎えるホールでも、(なんだ?)と思う工夫の数々が。茶殻や抽出後の珈琲豆をばらまいての掃き掃除。埃は立ちにくいし、いい香りがフロアに染み付く。テーブルに並ぶ食卓塩は湿気を防ぐために炒ったコメを何粒か入れておけば、いつもサラサラ状態。
 不自由さや失敗から生まれた先人の知恵の成果は、私たちの知恵でさらに便利な物に成長させていかなければと思う。
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結婚にいたる道

2014年11月29日 00時15分23秒 | おれ流文芸
 一歩を踏み出させた母の言葉

短大を卒業した後、子どもの頃からの夢だった保母の仕事を得て、もう毎日が充実していました。
 その頃、結婚を約束してつきあっていた彼も、私が自分の夢を実現させるその日まで待っていてやると見守っていてくれていたのです。
 いつになるか判らない結婚を待つのは、若い私と違って、十三歳年上の彼には大変なものだったでしょうが、「遅れついでだし、どちらかが何かに未練を残したまま結婚したって長続きしっこないだろう」と笑って許してくれる彼でした。それで当然とばかり、彼に甘えて保母の仕事に燃えた私は、どうやら彼に対する思いやりに欠けていたのかもしれません。その無責任さに気づけない若さでした。
 その罰が当たりました。
 保母の仕事にもようやく慣れて、「さあ、もっと!」と欲を覚えた時、私は自分の妊娠に気づきました。
 働いていた保育園は、保母は結婚すると退職が不文律になっていました。それに結婚もしないで母親になるなんて、とても考えられない私でした。私は迷いに迷った末に、彼に妊娠の事実を打ち明けました。
 いつも明解な彼が、酷く躊躇しながら答えてくれました。
「もし、君が仕事に夢の実現を目指していなかったら、俺だって迷いはしない。すぐ結婚して、二人で家庭を築くさ。ただ、君の意思を……?」
 私は無言で俯いていました。胸の中は、葛藤が渦巻いていました。受け持っている可愛い園児らの顔が次々と浮かんできます。その仕事と引き換えに、結婚し出産し母親になるなんて想像すらできない状態でした。
「それでも、君は赤ちゃんを始末するなんて考えるな。そないなこと……君は君の夢だった自分の仕事を裏切ることになってしまうやろ。君は保母にかけた夢を自分で踏みにじってしまうんや。そんなの、悲しいし、許されへんことや」
 彼は怒ったような口調で吐き出しました。
 見ると、彼は地面を睨みつけて肩先を僅かに震わせていたのです。まだまだ言い足りないことがあるのに、それ以上は、私への思いやりもあって、口にできないという様子がありありでした。
「無責任かもしれないけど、君自身が決めろ、絶対後悔しないように。情けないけど、俺は待ってるしかできへん。ゴメンな」
 別れ際に彼は真剣な表情で、そう言いました。
「アホッ!そんなの決まったことやないの。あんたに、赤ちゃんをどうにかしてしまうなんてできるかいな。そんな薄情な子に育ててないんやから、私もお父さんも」
 切羽詰まった状況を私から聞いた母は、反射的に私を叱りました。
「それでも……」
「間違った口答えはせんとき。たった一人の自分の子に愛情を持てないで、たくさんの人様のお子さんの保育やなんて、そんなのおかしいやろがな。よう考えてみ」
 自分の子供を産めなかった母でした。そう、母は私を育ててくれた二人目の母なのです。地のつながらない娘である私に深い愛情を注いでくれた母。おっちょこちょいで不器用な母でした。でも、いつだって傍にいてくれる母。その母が、これまで見せたことのないキツイ表情で私を見詰めていました。
「結婚しなさい。あの誠実な彼なら、絶対大丈夫。もし違ったら、あたしを責めたらええ」
 彼のことは母にだけ打ち明けていました。彼との楽しい日々を話す娘に笑顔で頷いてくれていた母でした。実物の枯れに会ったことはない母の保障なのに、それは有無をいわせぬ力強いものがありました。
 翌日にはもう、母は彼がやっている喫茶店を訪ねてくれていました。
「男であるあなたが、しっかりと引っ張ってやらなきゃダメでしょ。女に決めさせるなんて、男としてなってないわよ。男のあなたが、ちゃんと行動してやらないと。あの子、あなたなら、信じてついていく気なんだから。私も応援するから、行動するんよ。二人の問題は、二人で解決しないと誰もしてくれないでしょ」
 母の、そのきつい言葉に彼は何も言い返せなかったと、後で教えてくれました。私と彼は結婚への道を踏み出しました。
 そうなると、問題なのは頑固な私の父でした。普通の娘らしい結婚と幸せを掴んでほしいと願ってくれている父が、十三も歳の差のある彼との結婚を許してくれるとは、とても考えられませんでした。
 でも、私と彼の二人三脚の走りに障害など関係ありません。それに母という力強い味方がついていました。
「お父さんはキッチリした性格だから、世間の常識通りに、お仲人さんをたてて、彼に結婚の申し込みをさせたら大丈夫。理屈っぽい分、理にかなったものには何もいえないから」
 母の助言で、仲人を頼んだ彼は父の前に緊張しながら立ちました。
 頑固な父も、ちゃんと手続きを踏んだ彼の結婚の申し込みを前にしては、頭から反対もできなかったのでしょう。彼を認めてくれました。もちろん、父の柔軟な態度には、母の辛抱強い働きかけがあったのは解っていました。
 五か月後、私は彼と結婚しました。職場も辞して、私は新しい生活に一歩踏み出したのです。彼のやっている喫茶店で、慣れない接客もガムシャラに打ちこみました。
 出産した日、私を、夫となった彼と母が傍で見守っていてくれました。
 夫は私と赤ちゃんの無事を確認すると、嬉しさを隠さず、仕事に戻っていきました。
「おめでとう。今日から、この子の保母さんに専任やで。頑張りがいあるで」
 母の言葉に、しっかりと頷いた私は、一人の母親に変身していました。
 この娘と、夫と歩む人生がいま、始まる!胸が熱い私でした


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掌編小説・家(その3完結)

2014年11月28日 01時34分16秒 | おれ流文芸
父を襲ったアクシデントに、母や家族の大半が建築を一旦中止しようと言い出した。父の容体が落ち着くまでの意向だったが、雅之は頑なに首を振った。
「この家は確かに俺の家や。そいでも、この家は親父の夢やないか。兄貴が気に病んでいた、俺の新宅をと、踏み切った親父の夢や、生きがいなんや。いま中止して親父が最悪の状態になってしもうたら、悔やんでも悔やみ切れへんど。絶対、中止せえへん」
 雅之の熱い説得に、母は顔をくしゃくしゃにして頷いた。家の建築は続けられた。
 年が明けるとリハビリをはじめた父の日課は、母屋から新築現場までの往復になった。誰かの介添えを必要としながらの、遅々とした歩みを毎日続けた。
「マ、マサユキ、モウスグ、デ、デケヨルノ。タ、タノシミヤノウ」
 黙々と大工仕事を手伝っている雅之に、父は不明瞭な言葉を必ずかけた。雅之が振り返ると、目やにがこびり付いて潤んだままの父の芽は、急に見開かれるのだった。自由にならない体なのに、父の芽は生気に満ちた輝きを失ってはいなかった。
 父が姿を見せるのは、いつも三時過ぎだった。大工仕事の完了を教えてやったら、どんな反応が見られるだろうか。雅之はぼんやりとした頭で玄関を入って三和土を踏んだ。
 左に二間の幅でフローリング加工された檜板の縁側。右は十二畳の応接間と、それにつながる十畳の台所。縁側の奥は八畳間と六畳間がふたつづつと床の間、仏壇が納められるスペースと、四間間口の押入れがある。まだ建具と畳がはまっていないせいで、広い。
 柱を包む和紙をビリリッと破った。あちこちの店を回り、やっと買い求めたふのりをたいたので、雅之と父が呼吸を合わせて貼ったものだった。破り取った紙の下から、いままさに仕上げの鉋がけをしたtも思える鮮やかな木目肌が現れた。
(二年になるのか)
 長くもあり、短くも感じる。終わった後での時間の差異は何の意味も持っていないのを雅之は今更ながら分かった気がした。
 台所に入ると、三時の一服に用意しておいた茶菓子と白いコーヒーカップが、既に目的を失って晒し者になっていた。湯沸しポットは保温のランプがついている。二年も湯を沸かし続けて来た働き者である。
 雅之はカップに即席のコーヒー豆をティースプーンに掬って入れた。湯を注ぐと出来上がった。ブラックの状態で口に運んで飲む。父はシュガーもフレッシュミルクもたっぷり加えて飲んでいたのを思い出す。遠縁に当たる、寡黙な職人肌の大工は猫舌で、かなり冷ましてから飲んでいた。ひと様々である。
「あら、お父さん、誰もいないみたいですよ」
 妻の佳代の声だった。きょうの父のリハビリの介添えは、有給を取った佳代だった。我が妻ながら、よくつとめていてくれると思う。
「ウ、ウッウッ、ウ……」
 父が佳代に何かを問い掛けている
 雅之は立ち上がった。手早く二人分のコーヒーを淹れると、盆に載せた。
 ここに来る度に父は、雅之の淹れたコーヒーを飲むのを愉しみにしていた。父が倒れてからは雅之と父の交流は、このコーヒーを通じてだけとなってしまった。
 応接間に出ると、サッシの硝子戸越しに、佳代が手を引いた父の姿が認められた。父は顔を上げて家を見詰めていた。
 佳代はすぐに雅之に気付いて、ニッコリと手を上げた。雅之も手を軽く応えながら、「うん」と自問自答の末の結論を出した。
 父に大工仕事が済んだことを報告するのは、もっとズーッと後に回そう。大工は大工仲間の建前の助っ人に出ていると言っておけばいい。今までにも大工が建前の助っ人に出て、二週間も三週間も仕事を休んだ例が何度かあったから、おかしくはなかろう。
 家の完成は、さっき雅之が受けた、余りにも呆気ない報告より、もっと感激する演出があってしかるべきだった。父には、やはり感激の一瞬を迎えさせてやりたい。雅之は心から、そう思った。何を子供じみたことをと、雅之の内部にもうひとつの声が囁いて来たが、雅之は聞く耳を持たなかった。
 この家は、確かに雅之の家になる。それ以上に父の男たる誇りが築き上げた夢の城である。たぶん、父の生涯最後の大仕事になろう。
 来月は春爛漫の季節に入る。雅之が喜色満面で父に家の完成を伝える最高の舞台が生まれる。それまで待っても、親不孝にはなるまい。             (終わり)
 
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掌編小説・家(その②)

2014年11月27日 17時28分45秒 | おれ流文芸
数年前から休耕している土地は一面、向日葵の花に埋まっていた。別に世話をして咲かせたものではないが、毎年、ものの見事に黄色い絨毯を織り上げた。例年なら、そのまま枯らせてしまうところだが、そうはいかない。全部刈り取って綺麗に始末しておかなければ、どうにも手が付けられない。
 向日葵の茎は育つと硬くて頑丈なものになる。雑木の幹、そのものだ。
 雅之は鎌を手に向日葵畑に入った。背丈以上に育った向日葵は雅之の姿をすっぽり隠した。雅之は力任せに鎌を振るった。手応え充分に向日葵が薙ぎ倒された。
「草刈り機使わんかい。ラクやし、仕事が早いど」
 汗まみれでクタクタになる雅之を見兼ねた父の勧めだったが、雅之は無愛想に「いや」と答えた。っ父はいつものことと、それ以上勧めはしなかった。風変わりで通っている息子に、したいようにすればいいとの態度だった。
 草刈り機を使わないのは、何も雅之のポリシーからではなかった。単にメカに弱くて使えないだけに過ぎなかった。
 暑い真っ盛り、三日がかりで向日葵を刈り終えた。商売を止めてからこっち、これといった定職に付いていなかったのが好都合だった。仕事の合間にやる作業だったら、まずダウンは避けられなかったろう。
 最初からしんどい家作りのスタートだった。
 地鎮祭を終えて、土建屋が地上げして基礎のコンクリートを打ち込んでいる間が唯一の休息の日々だったと、いまになって思い当たる。
 残暑の酷い中、持ち山の藪から、壁の下地に組む竹を伐り出した。竹を伐り出す旬は決まっている。旬を外すと、虫が付いて散々になる。竹藪といっても、かなり中腹まで登らないと手頃な竹は見られなかった。
 父との二人三脚による百本を越える竹の伐りだしは、かなりな重労働だった。足裏がパンパンに張った。血が滲む擦り傷や切り傷は、しょっちゅうだった。
「これで来年の春は旨い筍が、ようけ生える」
 父は一服喫いながら、根こそぎ伐り払われた竹藪を眺めて満足げに呟いた。
 木の伐り出しは十月に入って直ぐだった。竹と同様に木も伐採の旬があった。
「洋材やったら注文通りのもんが揃うやろけど、家を建てるんには地の木が一番や。そのためにご先祖さんが残してくれはってるんやど。梁もベイ松はあかん、地松が安心や」
 木出し屋と山に入った父は雅之を振り返って感慨深げに言った。ますます父の顔は生気が漲って来た。跡継ぎの兄を失った父は、家を建てることで生きる張り合いを取り戻していた。
「男やったら一生に家一軒建てなのう」
 酒を呑んでは、そう口にしていた、精悍そのものだった若い父を思い出した。父にとって今度の家は二軒目に当たる。甲斐性のない息子を持ったおかげだった。
 チェンソーを唸らせ、倒した丸太を製材所に運び込むまでの父の差配は、七十になろうかという年齢を超越したものだった。雅之はひたすら馬鹿になって、その差配に対するイエスマンに徹した。そうしなくては、彼の嗜好と到底噛み合いそうにない肉体労働に耐え切れなかったのは明白だった。
 製材所にも何度となく足を運んだ。丸太が板や柱になっても残った木の皮を、鉈を使って削り取った。残れば虫が付くはめになる。柱の芯取りも並大抵な作業ではなかった。
「なんで、こないなしんどい目せなあかんねん。今時、家を建てるんは、工務店に任せときゃええやないか。もう、親父は……」
 雅之が疲れて帰った夜、グダグダと愚痴るのを、晩酌の相手を務めながら妻の佳代はニコニコと聞いた。何やかやと文句をたれていても、生まれて初めてといっていい父との共同作業に生き生きするのを隠せないでいる夫をちゃんと見抜いていた。
 大工が入ってからも雅之は気楽に休んでおられなかった。朝十時と午後の三時に茶菓で接待するのは当然だが、大工の指示で柱や板を運び、簡単な細工もさせられた。終われば鉋やノコで出た木屑の片付けがあった。
 その頃になると、父は自分の仕事に手いっぱいで、新築現場に姿を滅多に見せなくなった。
「お前の家やさかい。まあ、しんどい目したらええ。そないして家が建ったら、粗末には扱えんようになる。ええこっちゃ」
 たまに顔を見せると父は必ずそう言った。
 建前は四月の吉日だった。親戚や隣近所からの応援が二十数人も来た。大型のクレーンとのコンビネーションもよく、ほぼ半日で家の骨格が組み立てられた。大勢でワイワイやってると知らないうちに仕事ははかどった。
 建前を祝う膳を囲む酒宴の主役は父だった。呑めない酒に顔を真っ赤にさせて客膳を順々に回り、酒を注いでは談笑し頭を下げた。
 兄の急逝以来、底抜けに幸福感を味わっている父の姿を見るのは久しぶりだった。雅之は目頭をソッと押さえた。酒の酔いが一遍に体中を回った。
 父が倒れたのは晦日の中頃だった。元々血圧が高くて、かなり用心していた父だったが、脳溢血だった。命は助かったが、右半身は不随にになった。昏々と眠る父の病室の窓に、数十年振りという大雪が矢鱈に舞い続けていた。             (続く)
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掌編小説・家(その1)

2014年11月26日 22時01分39秒 | おれ流文芸
 さっきまでガンガンとボードを打ち付けていた大工が、ひょいとやって来て、おもむろに言った。
「これでわしの方、済みましたけ」
「え?」
 思ってもみなかっただっただけに、鳩が豆鉄砲を食らったような顔になった。
「左官とタイル屋に出来るだけ早う入るよう言うときますわ」
 大工はそそくさと道具をひとまとめにすると軽トラへ積み込んだ。電動の大きな工具は後日改めて取りに来ると言い残して帰った。
 それを見送った雅之は、フーッとひと息ついて腕時計に目をやった。昼を過ぎてから、まだ二時間も経っていない。
 雅之は雑然となったままの庭先を横切って、玄関の前に立った。真っさらのサッシ戸がはまっている。そのぐるりは剥き出しのモルタル壁のままだけに、やけにサッシ戸が輝いて見えた。
(やっと出来たんか……)
 地鎮祭から、ほぼ二年近くなる。いま思えば気の遠くなるほど長い時間だった。それが終わった。厳密にいえば壁とタイル床の施工が済んではいないのだが、そんなのは些細なことである。雅之にとって大工仕事の終了が総てだった。それだけに、余りにも呆気ない終了宣言が物足りなくもあった。
 しかし、その物足らぬ終了宣言は、雅之の父が念願した新宅の完成を意味していた。
「お前、ここに住む気でおるやろな」
 二年前、雅之の父は、やけに神妙な顔付きで切り出した。もう七十まに手が届くところまで来ているのに、職人の現役を張っている。
「どないや。その覚悟しとるな」
「ああ」
 念押しされなくても、雅之は他に答えようがなかった。町に出ての商売に失敗して、家族四人を伴って、雅之は父の家に居候を決め込んでいる。どうしたって流れに逆らえる立場にはない。
「そうか」
 満足そうに頷いた父は、ボソッと言った。
「お前の家を建てるか」
「え?」
 思いもしないことだっただけに、雅之は唖然と父を眺めた。
 雅之と二人きりの兄弟だった壮之が急逝してからこっち、すっかり張りを失っていた父の表情が前の状態に戻っていた。
「壮之もお前の新宅をえろう気にかけとったでのう。あいつ、何とかしたらなあかんて、口癖のように言うとった。一周忌も済んださかい、いっちょう建てるか」
「無理せんでもええで。俺は元々風来坊やさかい、家なんか無うても構わへんのや」
「阿呆。お前はどないでもええんや。雅樹や雅博のこと考えたらんかい。お前も親父なんやど」
 雅樹は雅之の長男、雅博は次男だった。しかし、長女の由紀の名前が漏れている。家長制度下に生きて来た昔人間の父には、女の孫は計算外になっているのだろう。
「雅樹や雅博のために家を建てたるんや」
 成程。社会に迎合しない風変わりな息子に新宅を持たせる気はさらさらないらしい。可愛い孫、それも男児であらばこそと言うわけか。雅之は思わず苦笑した。
「どんな家がええ?うちと同じ間取りにするかいのう」
 母屋は農家だけに、いま雅之の家族らが居候を決め込んでいる納屋を改造した四間を別にしても十間はある。それも一間一間、かなり大きく取ってある。それと同じでは、雅之の甲斐性から考えると分不相応である。
 町にいた頃は八畳一間と台所、トイレだけのアパートに五人の家族で住んだ。風呂は寒くても暑くても銭湯に通うしかなかった。それでも、狭くても楽しい我が家だった。
「二間もあったら充分や。風呂と台所、トイレさえ付いとったらオンの字やで」
「阿呆」
 またしても阿呆呼ばわりである。
「この村に一生暮らすんやど。隣保の付き合いやなんかでも八畳間二つの客間を用意しとかな、お前らが肩身の狭い思いするど」
 父とは発想の始点が裏表ぐらい違う。雅之は、そう納得せざるを得なかった。
「任せるわ」
 雅之は父の顔から視線を外して言った。
 地鎮祭まで半年近くかかった。予定の土地は農地、それも市街化調整区域にあったから、宅地への変更に手間取った。隣り合わせた農地の持ち主の承諾を得るのも一苦労だった。農業委員会の役員連の現場立ち会いがあったのは、もう初夏だった。
 川沿いにある百坪の土地の六十坪ほどの宅地化が認められた。
                (続く)
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ふるさと回帰

2014年11月26日 00時20分44秒 | おれ流文芸
十三年目のふるさとUターンだった。
 街に出た時は単身。帰郷は家族四人を伴ってである。末っ子はまだ赤ちゃんだった。やっていた商売を見限って帰ってきた。
迎えてくれた懐かしい田舎の自然あふれた風景。そして両親は元より、幼馴染みの友人たち。村の隣近所のみんなも歓迎してくれた。家族は自然にふるさとと同化していった。しかし、当の私はなかなか素直になれぬまま。
「ふるさとは遠きにありて想うもの」というが、やはり田舎は住んでみないと、その魅力は分からない。十三年前に背を向けた、豊かな山並みに囲まれた田舎風景に変化は少しも無かった。街の暮らしに敗れた傷心の身を優しく包み込んでくれるばかりだったのに。
 出戻りの身には、村の付き合いという難問があった。村入りして、ホッとしたのも束の間、村の行事が立て続けに来た。季節ごとにある草刈りや道普請の共同作業。冠婚葬祭は隣保の住人がより集った。秋の村祭りは一家族から最低一人の参加を求められる。社交性の乏しい性格が町に暮らしてさらにひどくなっていた。村特有の付き合い方も、長く離れて記憶も薄れている。やる前から意識は萎縮しきっていた。いつも部外者の気分だった。
「よう帰って来たのう。嬉しいわ」 
 声を掛けてくれたのは、二年学年が下の幼馴染み。顔は見知っていたが、特に話したこともない相手だった。しかし、彼は昔の知己に出会えた感動を隠そうともしなかった。知らず相手のペースに引きずり込まれていた。聞けば、彼も出戻り組の一人だった。私より三年も前に村に戻っていた。
「そら、帰った当初は居場所なかったなあ。そいでも、ふるさとはふるさとなんや。山も田んぼも原っぱも、みんな昔のままやった。俺もこの村で生まれ育ったし、今もこないして生きてる。それでええんやて、言ってくれてる気がした。それからは人を気にせんようになった。そしたらな、いつの間にか、みんなとの距離がのうなってたわ」
 淡々と語る彼の顔は、どこかで見かけたものだった。ぎすぎすしたものはかけらもなく、お人よしで柔和な顔。そうだ。自分の周囲にいる隣人たちの顔だった。
 佳境に入った祭り。神社の境内で布団屋台の練り合わせに、奉納の差し上げ。前と後ろから声がかかる。
「ええか。みんな仲間や。同じ村で育った誇りと馬力を見せたるぞ!」「おう!」
 呼応して叫んだ。屋台を神殿前で差し上げた瞬間。自分の頑なな思い込みが溶けて消え去った。屋台を境内の定位置に据えた瞬間、抱き合って歓呼の声を上げたみんな。子供の頃から村を駆け回った仲間たちの顔が、ようやく私の心に蘇った。ふるさと回帰だった。
 ふるさとは、自然も人情も阿吽の呼吸で迎え入れてくれる。それをやっと悟ったのだ。 
帰郷以来三十年。外に出た息子がもうすぐ帰って来る。彼もふるさとに救われるだろう。
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40男子育てに惑う

2014年11月25日 00時47分05秒 | おれ流文芸
 四十にして惑わずと言う。
 私の場合は四十を過ぎてなお戸惑いの渦中にあった。要因は『子育て』。ああ、何をかいわんやである。
 四十面下げて、血液型はB型、そして射手座。無責任で何を仕出かすか分からぬタイプらしい。自分が可愛いので、子供はさほど好きじゃない。どちらかと言えば苦手だった。親に甘えても、甘える子供に自分の自由を束縛されるのは金輪際ご免。大人になりきれないオトナだった。
 そんな男に子育ての大役(?)が回ってきた。皮肉と言えば皮肉な話。世の中は思うようにならないものだ。それに、「子育てなんて俺のガラじゃない」と頑強に拒んでいたのが、なんと見様見真似ながら子育てに入った。人間の覚悟も高が知れたものである。
 平成元年六月。七年近く夫婦で切り盛りの喫茶店を廃業した。表向きの理由は別にして、たぶん疲れとマンネリ化に耐えられなくなったのだ。
 表向きの理由のひとつが、我が子を守るための親の決意。当時生後五か月になる赤ん坊。二人目の息子でリューゴ。ひどいアトピーだった。上に女の子と男の子で三人の子供を抱えての商売を余儀なくされていた。
 上の二人は私の母に世話を押し付けて、リューゴは喫茶店の棚に寝かせてのパパママ営業である。ところが、アトピーの症状が出た。喫茶店は忙しくなると、満員の店舗内に白い紫煙が溢れた。アトピーにタバコの煙はどう考えても天敵だ。症状がひどくなる赤ん坊を見かねて廃業の考えが頭に浮かんだ。
 しばらく商売のやり方に工夫を重ねて頑張ったが、結局店は閉めた。
「お父さんにリューゴを任せても大丈夫なの?」
 妻はえらく心配して何度も念を押した。
 四十を過ぎた中年男より一足早く仕事を見つけた二十代の妻。おのずから、子供の面倒を見るのは、仕事なしの中年男と定まった。上の二人の子育てにはこれまで一貫して「われ関せず」を押し通して平気な顔を決め込んでいた夫に懐疑的なのは当然過ぎる。
「しゃーないやないか。お前は仕事で稼ぐ。手がすいてるのは俺だけ。どない譲っても、子育てと家事は俺の担当やがな」
「でも……?」
「心配すな。たかが赤ん坊ひとりぐらい……何とかなるわいな」
「やってみるしかなさそうね」
「ああ。案ずるより産むが易しや。任しとけ」
 夫婦が了解点に達した直後から、じわじわと不安は押し寄せた。
 七月一日。子育てはスタート。
 すでに五月半ばから保母として働く妻。早朝六時半には家を出る。帰宅は夜八時。そこで妻がいない朝から夜にかけて十二時間前後が、私の子育てタイムとなる。赤ん坊の世話だけではなく、上の二人も当然子育ての対象である。
 朝八時にはやって来る保育園の通園バスに二人を乗せると一件落着。それまでに起こしてトイレ、洗顔歯磨き、着替えさせて朝食を摂らせる。書けば簡単だが、初日はいやもうてんてこ舞いした。それでもバスを見送ると、彼らは五時の出迎えまで気にしなくて済む。残るは赤ん坊のリューゴだけである。
(たかが赤ん坊のひとりぐらい……目じゃないよな)その自信と楽観は初日からガラガラと崩れ落ちた。
 散々振り回されたのはオムツ替え。リューゴが泣き声を上げるたびに、ある判断を迫られる。おなかが空いたのか?どこか具合が悪いのか?そして、オムツが汚れたのか?あるいは機嫌を損ねているのか?(何なんだ?)
頭に手を当てて熱があるかどうかを見る。生後五か月なら赤ちゃんは母親から貰った免疫力でめったに病気をしないと、妻が教えてくれた。さほど気が入らない。おなかが空いたかどうかは後回しだ。とりあえず赤ちゃんが付けたオムツに鼻をくっつけて匂いを嗅ぐ。すぐにわかる異臭だと、オムツは手のつけられない惨状だ。少々の糞尿では、よほど神経を研ぎ澄まさないと嗅ぎ分けられない。オムツ替えがまた大変だ。根が不器用なのだ。オムツから汚物を転げ落としたり、手にグッチャリ。(もう、いやだ!)
だが、逃げてはいられない。ウンチやオシッコの色・匂い・硬さ・回数……観察は欠かせない。事細かにメモる。いやはや!
「どうやった?リューゴのご機嫌はいいかな?お父さん子だね、リューゴは」
 仕事から帰った妻の第一声。やけにはしゃぎ気味だ。(他人事だと思いやがって……!)それにしても、妻の軽口を簡単に受け返す気力がない。子育てで使い果たしてしまった。
「大丈夫?声も出ないほど疲れてるんだ。たった一日よ。本当に続く?」
「ああ。もう今日で大体のコツは掴んだ」
 負けず嫌いなのだ。精一杯気張って答えた。
 一週間も経つと、もう慣れっこ。オムツ替え、哺乳、そして背中をさすって「ゲップ!」もう何でも来い。お父さんはここにいるぞ!
 徐々に幸せ気分を味わうまでになった。まだお座りも出来ない赤ん坊に名前を呼んでやる。「リューちゃんリューちゃん、ほらおとうさんだよ。あばば」赤ん坊がにっこりする。まさに天使の頬笑みだ。疲れから生まれたイライラ気分が吹っ飛ぶ。
 母親譲りの免疫力が頼りに出来なくなるころから、松田道雄の『育児百科』が愛読書になった。添い寝をしながらページを開く。ぼろぼろになるまで読んだ。非常にありがたい本だった。曲がりなりにも子育てが無難に進んだのは、この本のおかげだった。
 お座りができ、はいはいも。もう可愛くて堪らない。目に入れても痛くないってのが実感できる。子供は面倒で邪魔と思いがちだったのがウソみたいな子煩悩になった。子育ては父親に母性をプレゼントしてくれた。リューゴは私を母親と認めたのだ。くすぐったい思いが頭を支配する。
「最近、えらくいい顔になって来てる」
「そうか?うん、そうだよな」
 妻に底抜けの笑顔を返した。
「子育ても、いいもんや」
 自然に口をついて出た。
「あなた。リューゴが寝てくれないの」
 妻が訴えた。久々の休みで、妻はリューゴの昼寝に添い寝中だった。それが寝てくれないだと。思わずニンマリ。出番だ!
「どうした?リューちゃん。ねんねしないの?」呼び掛けると、リューゴはこちらを向いた。ニッコリ。いきなりこちらへハイハイで突進だ。
「おいおい、どうしたんだ?りゅーちゃん」
 抱き上げると、リューゴは服を掴む。
「ネンネ……ネンネ」
 どうやら眠くて堪らない様子。しきりに可愛い欠伸をした。つぶらな手は両方ともしっかりと掴んで離さない。
「そうかそうか。じゃネンネだ」
 リューゴの小さい体を胸に収めて、ごろんと寝転んだ。いつもの胸。ゆりかごのここち良さをくれる胸。赤ん坊の緊張が解けていく。
「かーらーす~♪、なぜなくのー♪」
 いつもの子守唄だ。そうっと背中を撫でてやる。リューゴはすぐ寝入った。安心しきって胸の中で夢の世界に入り込んでいく。
「負けたんだ。お母さんがお父さんに負けちゃった。これ信じられる?」
 口調とは裏腹に妻の顔は明るく崩れる。
「なーに。ただの慣れ。生みの親より育ての親なんだぞ」
「よく言うわね。あなたも私も生みの親。どちらが欠けてもいけないの」
「そうだな。よっしゃ、勝ち負けは無し!」
 妻が噴き出した。そして私も笑った。

 子育ては一段落した。
 弁当製造会社に就職も決まった。夕方から翌朝にかけての夜勤だ。どうやら、もう子育てを卒業するしかなさそうである。
 痛々しかったアトピーももう目立たない。上の二人と駆け回っているリューゴ。すっかり逞しく育った。
「元気になったね。兄弟ん中で一番の暴れん坊よ。やっぱりお父さん子だけある」
「まあな。うん、男の子はあれくらい元気なんがいい」
 妻は何度も頷いた。
「あなた。やっと父親に戻れるね」
「父親?母親の間違いじゃないのか?」
「駄目よ。母親は私。絶対譲らないから!」

 ある出版社の子育て座談会に呼ばれた。「子育て体験エッセー公募」に入選したからだった。出席の顔ぶれをみると、父親は私だけ。場違いに思いながらも、今で言う『イクメン』を代表して座談に加わった。
「それでは、齋藤さんの子育て体験をお願いします。めったにない男性の子育てを通じた貴重な意見を聞けると思います」
 女性編集者が順番を私にふった。
 好奇の目を向ける母親たちを尻目に、迷いのない持論を滔々と述べた。
「女にしか、母親にしか子育ては出来ないと思わないでください。そんな思い込みや偏見が、いつまでも父親を子育てから弾き出してしまうんです。実はひょんなことから子育てを体験しました。五か月の赤ちゃんを一歳半まで育てたんです。それはもう大変でした。見る事やる事知恵を働かせること、すべて赤ちゃんが主役です。まず慣れる。そして乗り越える。父親でありながら母性らしきものを手に入れた時、私は大きく成長しました……」
 いきなりの子育て。面くらいながら懸命に。そして得た喜びと愛。父が母になる……!
私は喋り続けた。記憶を確認しながら。 
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禁煙喫茶店の挑戦

2014年11月24日 01時05分42秒 | おれ流文芸
 三十歳でやり始めた喫茶店。自分の店を持つと心に決めてから五年目だった。調理師免許を求めて二年間の調理専門学校通い。簿記学校が一年、卸売市場にパートで働き、駅ビルにあった喫茶店と、郊外の喫茶レストラン、コーヒー専門店と渡り歩いた。いつも自分の店を持つという信念での行動だった。
 ついに喫茶店経営に達した時の嬉しさは格別だった。自分のアイデアを惜しげもなく取り入れた。何とか軌道にのせたが、途中で結婚したのが誤算だった。とはいえ、家族への愛を持てなければ今はなかったに違いない。子供三人に恵まれたが、末っ子はアトピー。私に選択の余地は限られていた。
 モクモクとタバコの煙に包まれる店内を見て、最終的に出した結論は『禁煙喫茶店』への転換だった。大事な我が子の健康を守るためには仕方がない決断だった。しかし、もう引き返せない。食事中心の店に転換を図った。
『禁煙喫茶店』は新聞やテレビに取り上げられた。当時では珍しい挑戦だったのだ。しかし結果的に失敗だった。まだ時代は禁煙に市民権を与えるまでに至っていなかった。喫茶店は閉店の憂き目にあった。転職した。
 定年後、じっくりと考える時間が増えた。夢の実現は、やはり記憶が今も鮮明だ。それに付随した禁煙喫茶店という冒険と、その失敗での悲喜こもごもも昨日のように思い出す。あの時、こうしていればなんて思ったりもするが、不思議と後悔はない。
 たぶん、自分が熟慮したうえでの行動だったのだ。それにあの時の子供たちは元気に育ってくれた。私の決断が子供の健康を守ったのだ。家族愛に殉じたとの思いがある。
「喫茶店の経営は中途半端やったんやね」
 と、子供に皮肉られたことがある。
「いや。自分で一番いい方法を選んだんだ。誰かに強要されたわけじやないぞ。それを中途半端なんて言えるか?お父さんは自分の人生に後悔なんかしない。まっすぐ生きてきたんだから。おかげで、僕には過ぎた息子らが、目の前にいてくれる」
 迷いのない私の言葉に、息子は頷いた。
「いいか。長い人生。浮きも沈みもする。しないはずがない。でもどんな時も自分を見失わなければ大丈夫。それに愛する家族のために生きるってことだ。最終的には家族を選ぶ。それが僕の生き方だったから、今の幸せがあると思う」
 いつしか、孫たちが話を聞き入っていた。
 熟慮と決断。愛するものへのこだわり。それをしっかりと持てる人間に育ってほしい。それが悔いのない人生につながる。
 妥協と打算の時代である。純粋に生きるのは難しいかも知れない。でも、次の世代に伝えたい。一途な愛の素晴らしさを。愛を守るために逞しく生きられるってことを。私の浮き沈みの激しかった人生は家族への愛のこだわりが乗り越えさえてくれたのだから。
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だましだまされる

2014年11月23日 10時32分38秒 | おれ流文芸
「お客さん。着いたよ」
 運転手の声が、夢世界を遊んでいた頭を少し蘇らせた。タクシーに乗り込む前からしっかりと握り締めていた千円札を前方に突き出した。
「これで足りる?」
「あ、どうも。えー、よれよれだよ。これだから……」
 運転手のぶつぶつ言う声が耳に入る。
「すみません。酔ってて」
「いや、ええですよ。はい、有難うございました。二百五十円のお釣り」
 少しでも早く迷惑なお客とおさらばしたいのが、ありありだった。
 Uターンしたタクシーが立ち去る。尾灯を見送ると、またしても酔いが頭を擡げた。
 フラフラと足を前に運んだ。いくら酔っていても、自分が住むアパートは間違わない。不思議だが、いつもそうだった。
 神納壮之は元より酒に強くない。相手に勧められない限り、自分から呑む方ではない。ただ勧められると、断れない。おかげでここ数日は度を越してしまった。今夜も正体不明になる寸前まで呑むはめに陥った。
 借りている部屋は二階の一番端にある。錆の目立つ鉄の階段を覚束ない足元で上った。
「あ?」
 薄暗い通路の行き止まりに黒い影があった。壮之の部屋に背を寄り掛からせている。顔が陰になって誰かは分からない。
「……うちに用事があるのかな?」
 ちょっと冗談めいた口調で訊いた。酔いで体がふらつくのを止められない。
「遅いのう。いったい何しとんのや」
 聞き覚えがあった。しかし、深酔いした頭でピンと来るのは無理な話である。
「遅い?他人に言われる筋合いはあらへんわ。遅かろと早かろと、カラスの勝手…でしょ。ん?お宅、誰やいね?」
「あほ!人の顔も分からんまで飲みくさってからに。早よ鍵を出さんかい」
「鍵?……ああ、鍵ね。鍵なら、ここに……ちゃんとあります!」
 壮之がポケットから引っ張り出した鍵を、男は無言で引ったくった。
「あ!何すんねん」
「ぼけ。少しは人様の迷惑を考えんかい。大声出しくさってからに。さあ、さっさと部屋に入れ!」
 壮之は体を抱えられて、やっと相手の正体を知った。
「おやじ?」
「そうや、わしや。やっと分かりくさったわ?この親不幸もんが」
「……い、いつ出て来たんや?」
「もう、話は後や。さあ、入れ!」
 放り込まれた壮之は、玄関口にしゃがみ込んだ。瞬間、彼の意識は別世界に飛んだ。
「ほんまにだらしない奴や。こんな生活しとるんやったら、田舎へ連れて帰らなあかんわ」
 壮之の父親、耕三は一人呟いた。壮之は幸せそうな高鼾をかいている。

けたたましい目覚まし時計に壮之は叩き起こされた。半身を起こした壮之の目に、胡坐をかいて睨みつける父の姿が飛び込んだ。いっぺんにしゃんと意識が戻った。
「……やっぱり……夢やなかったんか?」
「下らんこと言うとらんと、さっさと起きんかい。もう八時になるぞ」
「勘弁してや。まだ早いわ」
「ええ加減にせんかい!この道楽者が」
 耕三はかけ布団をめくり取った。
 朝食が用意されていた。昔は飲食店をやっていた耕三にはお手の物だった。白いご飯に味噌汁と納豆、法蓮草のお浸しにハムエッグと食卓に並んだ。
「どうせ朝飯などまともに食っとらんのやろう。来る時に食材を持って来といたんじゃ。今朝はちゃんと食え」
 まるで母親の言い分である。仕方がなかった。壮之の母は彼が十二歳の時に亡くなった。以来、耕三が二役を器用にこなして来た。
「今日は、わざわざ何の用なんや?」
 納豆を捏ねながら、壮之は訊いた。大よそ見当は付いている。つまりは念押しだった。
「お前に、ええ話があるんや。別嬪さんやぞ」
 やはり!耕三は二時間以上かけて兵庫県からの来阪だ。何か魂胆があって然るべきだった。これまでの来阪も縁談話だった。
「四十近い男が女っ気なし。放っておけるかい。いい加減に所帯持ってくれんと、わしゃ死ねんで。それにのう。今度の相手は、初婚じゃ。二度とないぞう」
「初婚でも出戻りでも同じや。断ってくれたらええが。俺は俺でちゃんとやってるさかい。約束してる女も、ちゃんとおるわい」
 壮之は意思に反したデカい口を叩いた。
「夕べのザマを見せられて信じれるかい。仕事かて、なんや訳の分からんケッタイなモンしくさって。田舎で百姓やっとる方がまだマシやわ」
 壮之は舞台製作の個人会社で働いている。注文に応じて、ドロップ幕に背景を描き、装置を仕上げ、照明のプランを練る。自分では、いっぱしの舞台屋を気取っている。他にアルバイトをしなければ暮らしていけない収入しかないが、プライドだけは人に負けないものを持っている。
「おやじに俺の仕事は分からん」
「あほ抜かせ。ちゃんとした稼ぎものうて、寄ってくる物好きな女はおらんやろ」
「ちゃんとおる」
「ほな、わしに会わせてみい、ほんまにおるんやったらな」
「ああ。会わしたるわい、いつでも」
 売り言葉に買い言葉である。壮之は抜き差しならぬ立場に追い込まれた。耕三に付き合っている女を紹介する方向に話は進んだ。

「おやじを納得させて田舎に帰さなあかん。ええ知恵ないか?」
 壮之が相談を持ちかけたのは、旧知の湧永浩志。アマ劇団オスカのリーダーである。オスカの公演に関する製作面は壮之の会社が丸ごと引き受けている。直接劇団と接するのは、壮之の役割だった。五年以上の付き合いになる。湧永とは、もうツーカーの仲なのだ。
「しゃーないなあ。壮ちゃんの頼みや、何とかするか。うちの女の子に芝居させたるわ」
「そうか。恩に着るで」
「それで、どの子がええ?壮ちゃんの恋人やからな。好みの相手やないと、失敗するで。あのおやじさん。しっかりしとるから、そう簡単に引っかからんぞ。ぬかりのないように手筈を整えるんが先決や」
 湧永は面白がっている。前に来阪した耕三を誘って、湧永を含めた三人で居酒屋に行った。呑み助の耕三と湧永は芋焼酎を呑みあって意気投合。だから、耕三を割と理解していた。
「相沢有紀ちゃん、どないやろ?あの子、やって呉れるんやったら、頼んでーな」 劇団オスカの舞台装置を製作するたびに、いつも手伝ってくれる有紀。公演では、ほんの端役ばかりだが、生真面目に取り組んでいる姿には好感が持てた。平凡な顔立ちだが、女性らしい優しさをちゃんと持ち合わせている。話も気も結構合う相手だ。個人的に外で会いたいと思ったりもするが、どうも気後れして行動に移せずにいる。断られるのが怖いのだ。
「へえ。有紀ちゃんねえ?ええ選択肢やがな」
 湧永は意味ありげにほくそ笑んだ。

「はじめまして、相沢有紀です。神納さんに、いつもよくして頂いてます」
 何の打ち合わせも出来なかったのに、有紀は巧みに耕三と接した。さすが劇団員である。
 口だけではない。交際の深さをそつなく見せた。有紀は壮之の部屋のキッチンに立った。手際よく食事を用意する。今時のメニューではない、ちゃんとした家庭料理だった。
「得意なのは煮っころがしで、シチューやグラタン好きじゃないから。完全におばあちゃんなんですよ、わたし」
 有紀の控え目な説明に、耕三の顔は綻んでいる。気に入ったらしい。「旨い旨い」と平らげては、機嫌よく饒舌になった。
「なんで、もっと早う紹介してくれなんだんや。ええ娘さんやないか」
「ま、まあな。安心したやろが」
 ホッとした。これで耕三は家に帰ってくれるだろう。
「そいで結婚はいつする?」
「え?」
 壮之はわが耳を疑った。
「結婚式や、結婚式。なんやったら、わしがすぐ手配したる。ええな?」
 思わぬ方向への矛先に壮之は慌てた。
「ま、待ってや。結婚は……彼女の方の考えもあるさかい。いくら俺がその気になっても」
「あほ。はっきりせんやっちゃなあ。のう、有紀さん。はよ一緒になりたいやろが」
 いきなり問われた有紀は顔を赤らめた。彼女のはにかみぶりが、壮之には意外だった。
「見ろ、壮之。有紀さんは、その気やないか。まかしとけ、段取りはわしが進めたる」
「あ、あの……?」
 強引な父親に、壮之は口あんぐりとなった。

「はははは。そいつは愉快や」
 湧永は腹を抱えて笑った。他人事だから笑っていられる。
「有紀ちゃんに迷惑かけてしもてからに」
 壮之は口を歪めて、珈琲を啜った。
 同じ年代なのに、湧永は女性にモテる。ちゃんと家庭を持ちながら、ほかに何人もの女友達がいる。実に不公平極まりない。
「実はな、壮ちゃん」
「何や?」
「お前、有紀ちゃん、どない思うてる?」
「え?」
 湧永はにやりと笑った。
「あの話、お前の親父さんも承知の上なんや。頼まれてなあ、断れなんだ。それでお前が心憎からず思てる相手を選んだんやけどな。間違うてなかったやろ、有紀ちゃんで。あのなあ。有紀ちゃん、お前、いい人やて言うてたぞ。ありゃあ、お前に好意を間違いなく持っとるわ」
 壮之はまたしても言葉を失った。騙しているはずが、騙されていたのは、自分だった。
「済みませんでした。私……」
 有紀が部屋の入り口から顔を覗かせた。彼女もすべてを心得た上でのお芝居を……いや、嘘のない行動を見せた訳だ。正直どう思っているのか?彼女の口から訊きたい。
「さあ、どないする?男の決断、見せてみろ」
 湧永は真剣な顔に変わった。もう冗談は終わったのだ。湧永を見やり、次に有紀に目を移した。優しく相手を思いやる笑顔はいつもと同じ。彼女の魅力が手の届くところにあった。壮之は拳を握りしめた。覚悟は決まった。
「こんな僕でもええんか?」
 声が少し上擦っている。我ながら情けない。
 有紀が頷いた。瓢箪から駒が出た。騙したつもりで騙された。それで幸運を手繰り寄せた。これが「結果オーライ!」てヤツだ。

 田舎の道は、壮之が大阪へ向かったあの日のままだった。両脇に広がる田圃は、黄金色の稲穂が波打っている。じきに収穫だ。
「すごい田舎で、ビックリしたんちゃうか?」
「ちっとも。神納さんが、ここの風景にピッタリなんに感心してるんよ」
 壮之は思わず表情を崩した。彼女といると、不思議に優しくなる。耕三は息子の変化を決して見逃すまい。そして笑って茶化すだろう。
「騙されて得するヤツがおるんやのう」と。

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畔焼き日和

2014年11月22日 01時33分25秒 | おれ流文芸
背丈程度の長さに切った青竹の節を、鉄筋を突っ込んで抜いた。スポン、スポンと小気味よく作業は進んだ。即席のタンクを作るのだ。まだ時間は十分ある。慌てる必要はない。
 傍に用意しておいたコーヒーカップから湯気が漂っている。青竹を転がすと、カップに手を伸ばした。凍えた体に暖かい珈琲は格別だ。フーッと溜息をついた。
 笠松雄基は今も気が乗らない。村の行事に参加しないのは拙いと思う。それでも参加した先を考えれば気が重い。悩みを振りきるかのように頭をブルッと振った。残りの珈琲を一気に呷ると、両手を叩き合わせた。前向きになれぬ気持にハッパをかけたのだ。
 作業の続きにかかった。節を抜いた青竹に灯油を注ぎ込む。こぼれないようにと息を止めた、慎重に灯油缶を傾けた。コプコプと流れ込む灯油をジーッと見詰めた。よく見ていないと溢れ出すのに対処できない。何にしても竹を使った簡易タンクの容量は小さい。次はぼろ布をねじり込んで栓の役割と同時にタイマツ状に仕上げる。すぐに灯油は布に滲みこむ。これで用意は万全だった。
「お~い!おるか?」
 納屋の入り口に兄の忠志が立っていた。既に加工済みの青竹を二本余分に抱えている。
「なんや。自分も作ってたんか?」
 どうやら弟の分も用意したらしい。いつも雄基を気にかけてくれる兄だった。
「ああ。どうや、これやったら通用するやろが」
「うん。ほな出かけるか?」
「もうそんな時間になってるんか?」
 時計を見ると、確かに十二時を過ぎていた。空腹を感じなかったのは作業に集中していたせいだ。畔焼きは一時に開始である。
「マッチあるか?」
「ああ、ライターを持ってる」
「さすがソツがないのう」
 忠志はニヤリと笑った。雄基も応じて笑った。久しぶりの兄弟による阿吽の呼吸だった。
 畔焼きは毎年二月に入った早々の日曜日に行われる。昔と違って休日でないと村の行事は立ち行かない。午前中は雑草に露が下りている可能性があるので、昼過ぎの一時から畔焼きは開始される。この日を契機に村の田圃作りは本格的に始まる。
 忠志は弟を伴って二百メートル下ったところにある笠松家所有の田圃に向かった。畔焼きは始まりの集まりはせず、てんでに所有田畑の畔を焼き始めていいのだ。村のあちらこちらから畔の枯草を焼きながら奥へ移動する。最後は全員が顔を揃えたところで、村の一番奥まったところにあるため池の土手の枯草を一斉に焼く。その段取りは昔から少しも変わらない。
「さあ、やるか?」
「ああ」
 雄基はライターで青竹のタイマツに火を点けた。灯油が染み込んだ布にゆっくりと炎が生まれた。横を見ると、忠志は枯草に対峙している。手慣れたものだ。勾配のついた畔の下側にタイマツの炎を走らせる。枯草に火が移ると、あとは勝手に火が蛇みたいに下から上に向かって舐め上げてくれる。忠志はもう雄基を振り返らなかった。火を扱うには集中しなければ危険が伴うのだ。長年畔焼きに参加している忠志には、それがくどいほどわかっていた。
 雄基も青竹の松明を下に向けた。チャプチャプンと灯油が竹のタンクで踊っている。パーッと雑草に火が移った。大きな炎が舞い上がる。顔が熱い。もう寒さはどこかに姿を隠してしまった。火は風を呼ぶ。起きた風が火を畔の勾配にそって走らせる。
「おう。笠松の息子はんかい?」
 声を掛けられてビックリした。振り返ると、見知っている顔があった。同じ隣保に属する男だった。確か川瀬と言ったっけ。
「ミツグさん。今日はええ塩梅や。畔焼き日和やで。よう枯れて乾いとるから、すぐ燃えてまうわ」
「火の勢いだけに用心しとったらええやろ」
 親子ほど年の開きがあるのに、忠志はタメ口である。雄基は押し黙ったまま、枯草にタイマツの日を押し付けた。昔から人と話すのは苦手だった。実の親にすら気を許せない話し方になってしまう。他人、それも年長者になると、相手の問い掛けに短い返事を返すか頷くしかできない。町に出て少しは解消できたはずの内向性が、またぶり返したようだ。
 次の田圃に移った時、馴れ馴れしく男が寄って来た。メラメラ燃える松明を肩に担いでいる。幼馴染みの田淵だった。と言っても気楽に話せないのは同じである。でも相手は違う。田舎にいると誰でも仲のいい友達に見えるのか、愛想よく話して来る。
「ユウちゃん。少しは慣れたか?」
「ああ」
 田淵は一学年下になる。昔子供会で一緒に火の用心の見回りをした仲である。彼も雄基と同じ立場だった。村への出戻り組である。雄基より三年早く帰郷したと聞いている。
「こないして村の行事に参加しとったら、すぐ慣れるよって。みんなも喜んでくれるわ、ユウちゃんの村入りを。心配いらん。経験者やからな、僕は」
 田淵はやけにお喋りである。市役所の秘書課にいる影響もあるのだろう。田舎の公務員は得てしてそんなタイプが多い。
「奥さん、こないだスーパーで出会うてな」
「そういや、そないなこと言うてたなあ」
 妻が言ったかどうかは覚えていなかった。それでも話題を合わせていれば何事もなく時間は過ぎる。時々雄基は自分の事なかれ主義に呆れる。しかし、それで世渡りをしてきたのだ。
 田淵は雄基の傍を離れなかった。無条件に話を聞いて貰えるのが心地よいのだ。もしかしたら田淵も出戻り組の孤独感を払しょくできていないのかも知れない。忠志の姿は消えていた。村の集まりに慣れている兄の行き場所はどこにでもある。心配は無用だ。
 ため池の土手を下から見上げた。五メートル近い高さだ。冬を越して広がる枯草はよく燃えそうだ。村の人間が三十人ばかり、ズラーッと並んで待機している。役員の合図で一斉に枯草へ火を放つ予定だ。
「今日はよう燃えそうでんな」
 右隣にいた見知らぬ男が言った。無視もできず雄基は笑顔を作って頷いた。
「笠松はんは、今日が初めてやな」 
 相手は雄基の名前を知っていた。当然と言えば当然な話だった。村は大きくない。誰それの噂話などすぐ村中に広まる。田舎に住みなれた人間に噂話が届かないはずはない。
「ほな用意してください。いっぺんに火を点けますさかい」
 役員が土手のてっぺんに仁王立ちして怒鳴った。土手の両端にはやはり役員の若手がジョウロを手に動き回っていた。水を撒いて火が燃え移らないラインを作っているのだ。大規模な畔焼きだと消防車の出動もある。それに比べて雄基の村はやることが小さい。
「それじゃあ、火を点けて下さい」
 役員の指示で待機中の人間は青竹を持ち直して火を点けた。黒く焼け焦げたぼろ布の残骸は待ち構えていたように炎を上げた。
「あれ?」
 雄基は驚いた。青竹を下に向けると、なんと先っぽに詰められて焦げたボロ布がボロッと抜け落ちたのだ。灯油がこぼれ出る。その量はたいしたものではなかった。ただ、それで竹のタンクは空っぽになった。
(どうしよう?)
 雄基は焦ったが、拾った焦げ布を竹の先に詰め直したところで燃料はない。炎が生まれる可能性が皆無なのは、さすがの雄基にも分かる。思わず隣を見た。救いを求める気配に気づいた相手は、形相を崩した。
「そらどないしようもないなあ。みんなに任せて、待っといたらええやんか。別にズルするわけやないし、みんな分かってるで」
「そないさして貰うわ」
 答えて雄基は気付いた。いつの間にか地の言葉になっているのを。町に出て以来、使う機会がなく忘れていた故郷の言葉だった。
「待っとり、待っとり。すぐ終わりよるで」
 周りの人間たちが口々に雄基へ声を掛けた。見やると、人の好さそうな笑顔が雄基に向けられていた。雄基ははにかんで頷いた。
「それじゃあ、畔焼きを始めます!」
 役員の号令で村の連中は竹タイマツの火を枯草に押し付けた。一斉に炎が上がった。メラメラと土手にそって炎が登って行く。ザワザワと風が起こった。風を受けて炎の勢いは増した。白煙も風に流される。風の向きがいきなり変わり村の人間たちを包む。むせる。目に染みる煙。少し混乱してざわついた。また風向きの変化で白煙は上に流れを変えた。
 土手の中腹まで激しく炎が舐めた。焼けた後の黒い絨毯が広がる。
 雄基は炎が作り出す光景に見惚れた。この地に生まれ育ったのに、初めて見るのだ。先ほどの煙が滲みた目は潤んだままだ。かすみ
もせずしっかりと見える。 
「おうい!そっちに水や!」
「任しとけ!」
 役員たちはコマネズミのようにジョウロを持って走りまわる。炎越しに見る彼らは何とも頼りなく小さい。しかし、彼らがいま炎を牛耳っているのだ。
 雄基の目は池の土手に釘づけだった。何も聞こえない。たった一人の世界で炎が描きだした生の絵を楽しんでいた。
「パチパチパチパチ!」
「パチパチパチパチパチパチ!」
 拍手の波は雄基が浸る世界の壁を打ち破った。
「?」
 雄基はキョロキョロと見回した。
 誰も彼もが顔を輝かせて手を打ち鳴らしている。何かに憑かれたようだ。ひたすら拍手が続く。雄基は周りに倣って手を打ち合わせた。続いて狂ったように拍手した。一大饗宴の終演を惜しんで拍手は続いた。
 土手の脇にあるこじんまりとした広場に村の連中は集まった。大きな輪を作って、ど真ん中に青竹のタイマツを山に積んだ。元気者が腰に挟んでいたなたを掴んで、かなり太い竹タイマツを選んで叩き切った。スパッと切れた青竹から残っていた灯油が飛び散る。残った灯油は青竹の山に振りかけた。
 役員がマッチを擦った。ぼろ布の残骸を拾って火を移した。燃えだしたぼろ布を、青竹の山に投げた。ぼーっと火の手が上がった。灯油のおかげで火は消えない。燃える竹がぼん!と破裂した。新たな灯油が炎を生む。次々と爆ぜる竹が加わって激しく燃え上がる。火炎瓶に似ている。パチパチと火の粉を舞い散らし燃え続ける。
 炎が映えて顔を赤くした男たちはてんでに笑い興じた。下世話な話から高尚な話題まで、キリのない談笑が続く。いつしか雄基も隣り合わせた男と話し出した。この場で孤独を守るのは不可能だった。
「ええー、ええ時間なんで、お開きにしたいと思います!」
 役員が大声を上げた。
「今日はみなさんお忙しい所、参加していただいてありがとうございました。滞りなく終わることができたのもみなさんのおかげです。本格的な春を迎える準備を終えて……」
 ぞろぞろ帰り道に着く。感じる。大事をなし終えた満足感がみんなを包み込んでいる。
「今日は最高の畔焼き日和やったなあ」
 田淵が感極まった顔をして振り返った。
「ほんまにそやったわ。次は油切れせんようにするで。春をちゃんと迎えなあかん」
 来年の畔焼き日和に雄基は思いを馳せた。
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