公共性に欠ける若者
趣味のグループを主宰して8年目。集まってくる若者らの姿の急変振りに戸惑うこの頃だ。
不可思議なのが、自らが選んでかかわったはずなのに、少しも目的意識が見られないことで、3年ぐらいやっていても、変わらないのだから何をかいわんやである。目的意識がないので、責任を果たせない。努力をしない。グループの仲間に強調しない。とどのつまりが、全く感動をしないのである。
一方、喫茶店を経営しているので、若いお客さんとじかに接する機会が多いのだが、彼らの大半は実に行儀がよい。お金を払うときですら、「ごちそうさん」「ありがとう」と会釈してくれる。この子が、と呆気にとられることがままあるほどの“よい子ちゃん”だ。
ところが、同じ若者が道いっぱいに並んで自転車を走らせて恥じることもなく、空き缶を無造作にほうり捨てている。この矛盾を感じる彼らの姿から推察してみるに、現在の若者は自己中心の打算的な生き方をしているようだ。
直接、自分にかかわることには、損をしないように上手に立ち回るが、公共性に対してとか、誰かのためということになれば、皆目しなくなる。その使い分けの妙は、その後にうかがう若者の行動に必ず感じられて、いやはや感心するばかりだ。
しかし、日本の明日を担う若者像と考えた時に、いいようのない絶望感に襲われる。家庭が、教育が、はたまた社会が悪いのかは分からないものの、結局は彼ら自身にふりかかってくるものなのだ。
(讀賣・1988・5・21掲載)
趣味のグループを主宰して8年目。集まってくる若者らの姿の急変振りに戸惑うこの頃だ。
不可思議なのが、自らが選んでかかわったはずなのに、少しも目的意識が見られないことで、3年ぐらいやっていても、変わらないのだから何をかいわんやである。目的意識がないので、責任を果たせない。努力をしない。グループの仲間に強調しない。とどのつまりが、全く感動をしないのである。
一方、喫茶店を経営しているので、若いお客さんとじかに接する機会が多いのだが、彼らの大半は実に行儀がよい。お金を払うときですら、「ごちそうさん」「ありがとう」と会釈してくれる。この子が、と呆気にとられることがままあるほどの“よい子ちゃん”だ。
ところが、同じ若者が道いっぱいに並んで自転車を走らせて恥じることもなく、空き缶を無造作にほうり捨てている。この矛盾を感じる彼らの姿から推察してみるに、現在の若者は自己中心の打算的な生き方をしているようだ。
直接、自分にかかわることには、損をしないように上手に立ち回るが、公共性に対してとか、誰かのためということになれば、皆目しなくなる。その使い分けの妙は、その後にうかがう若者の行動に必ず感じられて、いやはや感心するばかりだ。
しかし、日本の明日を担う若者像と考えた時に、いいようのない絶望感に襲われる。家庭が、教育が、はたまた社会が悪いのかは分からないものの、結局は彼ら自身にふりかかってくるものなのだ。
(讀賣・1988・5・21掲載)