こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

公共性にかける若者

2015年06月30日 21時05分08秒 | 文芸
公共性に欠ける若者

 趣味のグループを主宰して8年目。集まってくる若者らの姿の急変振りに戸惑うこの頃だ。
 不可思議なのが、自らが選んでかかわったはずなのに、少しも目的意識が見られないことで、3年ぐらいやっていても、変わらないのだから何をかいわんやである。目的意識がないので、責任を果たせない。努力をしない。グループの仲間に強調しない。とどのつまりが、全く感動をしないのである。
 一方、喫茶店を経営しているので、若いお客さんとじかに接する機会が多いのだが、彼らの大半は実に行儀がよい。お金を払うときですら、「ごちそうさん」「ありがとう」と会釈してくれる。この子が、と呆気にとられることがままあるほどの“よい子ちゃん”だ。
 ところが、同じ若者が道いっぱいに並んで自転車を走らせて恥じることもなく、空き缶を無造作にほうり捨てている。この矛盾を感じる彼らの姿から推察してみるに、現在の若者は自己中心の打算的な生き方をしているようだ。
 直接、自分にかかわることには、損をしないように上手に立ち回るが、公共性に対してとか、誰かのためということになれば、皆目しなくなる。その使い分けの妙は、その後にうかがう若者の行動に必ず感じられて、いやはや感心するばかりだ。
 しかし、日本の明日を担う若者像と考えた時に、いいようのない絶望感に襲われる。家庭が、教育が、はたまた社会が悪いのかは分からないものの、結局は彼ら自身にふりかかってくるものなのだ。
(讀賣・1988・5・21掲載)
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高校野球の姿にもとめるもの

2015年06月30日 16時57分53秒 | 文芸
誇りは同等だ(高校野球各県一校が最適)

 現在夏の全国高校野球地区大会の真っただ中で、順次各地区の代表校が決定されており、本番に負けない声援を受けている。
 わが兵庫県における大会は163校が参加と言う激戦地区だ。樋って、最近問題になりつつある“高校野球の地域格差”をなくす意味で代表を増やす必要はないと思う。あくまで各県1校が最適だ。
 むしろ、北海道は別として、東京地区の、東西2チーム代表の現状をはなはだ疑問視したい。確かに首都東京圏には、政治経済一極集中と同じく、高校が非常に多く集まっている。当然、代表チームは複数を認めるのが公平なのかも知れないが、反面、東京に続く大阪、愛知、兵庫地区では各1校というのは、どうも東京本位に過ぎる感じだ。
 夏の大会の魅力は、各県を代表したチームによる勝ち抜き制で、最終的に日本一を決める単純明快な試合方式である。高校数の多少にかかわらず、県の代表としての誇りは同等である。
 全国に散る各県出身者にとって、故郷を代表するチームを応援する心情も、県勢に関係なく一緒だ。勝って晴れの栄冠を握ろうと、初戦敗退の憂き目にあおうと、県を代表する名誉に変わりがあるはずもない。
 ただ、最近の考古野球の姿が本来ののものを失いつつあることは事実である。優勝に拘り、全国から優秀選手をスカウトして集めると言う一部私立高校のプロ化現象である。そうなれば権を代表すると言う認識は当然希薄化し、全国大会の実施意義は無意味になる。
 純粋な地元出身者で構成するチームであってこそ、各地区1代表の意義があるのではなかろうか。
(讀賣・1988・7・30掲載)

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献血の義務化

2015年06月30日 11時43分24秒 | 文芸
献血の義務化、良心消えてしまう

献血の義務化が検討されようとしているが、何か本末転倒の論議に感じてしまう。
 献血とは、本来、人の善意による素晴らしい行為だ。わたしも、兄の娘が心臓手術を受けた際に、多量の血液を必要としたことから、血液の必要性を痛切に知らされ、機会があるごとに献血して来た。
 けれども、献血の義務化だけは納得がいかない。方法によっては、まだまだ人々の善意をひき起こすことが出来るのではないだろうか。人の心に訴えるべき行為を義務化としてしまうのは、両親の喪失につながる恐れが強い。
 むしろ規制されるべきは、利益手動による、必要不可欠な分野以外での、野放図な血液の大量需要である。
(讀賣・1988・4・2掲載)
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乱開発で古里の山が危ない

2015年06月30日 07時57分45秒 | 文芸
乱開発で古里の山が危ない

 農薬漬けとかで問題になっているゴルフ場が、わが故郷に進出して来るという。全国でも有数のゴルフ場がある兵庫県。これ以上の乱開発を防ぐべき規制条例発効を前にした駆け込み開発申請のあった計画だから、何をか言わんやの思いである。既に大企業をバックにした開発会社が山林買収に動きだしている。
 計画地に持ち山がある実家にも買い取りの申し出があったらしい。
「ご先祖様が苦労して育ててきた緑の山を手放すわけにはいかん」というのが父の弁。頼もしい限りだが、田圃がつぶされ、計画地までの道がついている現状を見るにつけ、果たして計画を阻止できるのかどうか。
 住民の環境や健康を損なう恐れがあるだけでなく、自然破壊に直結することは言うまでもない。豊かな生態系を保つ古里の山を、大企業の論理だけで奪われるのは納得がいかない。
 賛成派の住民たちにも、自分の子どもたちの未来を踏まえた熟慮があってほしい。
 四季折々に山を駆け巡り、マツタケやワラビ……いろんな山菜を摘んだ思い出が蘇る。祖父に連れられ、杉やヒノキの苗木を植えこみ、世話をしたあの故郷の山々。自然の恵みよ永遠であれと、心に強く期するものがある。
(神戸・1989・4・24掲載)

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集団検診にもデリカシーを

2015年06月30日 01時45分48秒 | 文芸
集団検診にもデリカシーを

 この間受けた集団検診の胃の検査結果が郵送されてきた。一家3人がそろって受診していたため、明暗が分かれてしまって一人が異常なしでも素直に喜べないのがつらい。特に胃とか胸の異常が出れば、即がんと結び付けて考えてしまうから深刻だ。単純な患部の炎症でもそう思い込んでしまいかねない雰囲気が、既に検診現場でできているせいだ。
 一番気になるのは検査表示。胃部の関節撮影が“胃がん検査”、胸部のレントゲン車の前には、“肺がん検査”とあった。これではこの検査で異常が出ればがんだと思い込んでしまうのも仕方がないだろうと思う。
確かに死因のトップとなっているがんだけに強調されるのもやむを得ないが、検診ではがん以外の疾患も検査されるのだから、“胃検査”“肺検査”の表示が妥当である。
病は気からと言う言葉もある。見るだけで気がめいってしまうような表示は、できる限り避けてほしいと思うのは人情ではないか。
心安らかに検査を受け、心安らかに検査結果の通知を待つ。結果の黒白が出るまで、必要以上に気をもむ現状は精神的に悪い。そういった面のちょっとした配慮でも、集団検診の受診率を高める効果があるはずだ。
(神戸・1990・6・28掲載)

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麦畑

2015年06月30日 00時09分52秒 | 文芸
麦畑

 6歳になる長男が遊び友達と一緒に、近くの麦畑に飛び込んではしゃいでいたのを見つけた兄が「こら!そんな悪さしたら、麦がメチャクチャやろ!」と叱ってくれたらしい。
 兄から連絡を受けたわたしは、父親としてひと言言っておくかと長男の前に立ったが、わたしの顔色を窺う彼の姿を見てグッと言葉が詰まった。(こんなことで叱り飛ばしていいのだろうか?)そんな疑問が生じたから面白い。
 考えてみれば、わたしの子供時代、こんなことはしょっちゅうやっていた気がする。稲わらを投げあったり、ソラマエを取って食ったり……子どもだから許された範囲のいたずらだった。
「お前、麦ん中へ入って気持ちよかったか?」
「うん」
 わたしの意外な質問に、長男はニッコリと悪びれずに返事した。ガキ大将の顔になっていた。結局、わたしは叱らなかった。
 後で現場の麦畑に行ってみた。見事に色づいてピーンと立っている麦穂。へこんでいる部分がはしゃいでいた痕跡に違いなかった。
(飛び込んで暴れりゃ気持ちいいだろうな)
 麦畑を見ているうちに、ふとそんな誘惑に襲われそうになった。危ない、危ないー。麦畑はそこだけで、周囲は田植えまで何も植えられていない田圃ばかりが目立っていた。
(遊ぶ場所が少なくなって、つまんないな……)
 いつしか、わたしは子ども時代に返っていたようだ。
(神戸・1990・6・19掲載)

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七夕の記憶の風景

2015年06月29日 19時26分20秒 | 文芸
 8月7日。子どもにとっては夏休みの前半で最大のイベントだった。
 笹飾りをして祭るのは、その年の新一年生がいる家。そこへ子どもたちは誘い合い訪問して回った。ワクワクドキドキしながら、上級生の尻について駆け巡った。
「よう来たな。うちの子もよろしゅうにな」
 訪問先の家では、家人が顔を綻ばせて迎えてくれる。縁先に飾られた笹飾りと祭壇に交代で一礼すると、家人がお菓子を配った。子どもたちに最大の喜びを与えてくれる瞬間だった。このために暑い中駆け回るのだ。
 家では食べたことも見たこともないお菓子が配られると、もう大騒ぎだった。時には取り合ったり大変である。当時は今のような甘いおやつはそう簡単に手に入らなかった。ふかしイモやソラマメを炒ったものなどや、時にはおむすびがおやつ代わりだった。
 七夕の由来を知ったのは、中学生の時。それまで七夕はおやつが貰える待望の日だった。

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実情にマッチしない

2015年06月29日 12時40分07秒 | 文芸
実情にマッチしない

 これまでの「成人」年齢20歳論は、確かにイメージ的にも区切りがついていて、適当なのかもしれないが、最近の風潮を見るにつけ、どうも実情にそぐわない気がする。
 事実、現在の高校、大学生らは政敵のも成熟、経済的な面でもアルバイトなどを通じて社会人並みどころか、それ以上の所得を挙げている例が多い。新規格の会社設立で、経営者におさまる場合もある。もはや「学生の分際で」は通用しそうにない世の中である。
 むしろ彼らに「成人」の資格を与える方が、社会に活力を生み出す源として期待ができそうだ。
 それに中学までが義務教育と定められているのだから、それ以後は「成人」と認めても支障はないはずだ。若者のパワーを期待して、成人年齢ひさげ論が実現するのを望みたい。
(讀賣・1988・1・23掲載)

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ボクのオムカエ

2015年06月29日 11時01分00秒 | 文芸
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自転車ばんざい!

2015年06月29日 08時14分22秒 | 文芸
自転車ばんざい!

 最寄りの駅まで25分ぐらいかかっての自転車通勤を初めて、もう1年。最初はからだもなかなか慣れなくて、足や腰が痛くてため息ばかりの毎日でした。それが今ではスーイスーイラクラクで、道沿いの景色を楽しみながら自転車を走らせているのだから、慣れって不思議なものだと思います。
 自動車の多い県道を走るのは相変わらず苦手だけど、自然が多く目につく細い裏道を走ると、もう爽快そのもの。道に沿って古い家が続く。崩れかけた土塀越しにツバキや梅、桜……季節感をタップリ味わわせてくれるたくさんの木や花が頬笑んでくれるので、電車の発車時間を忘れて、ボケーッと見とれていたあげく、遅刻したりなんて失敗もありました。
 でもこの1年で、忘れていた人間らしさをいくらか取り戻せた気がしています。それもこれも自然の風を受けながらの自転車通勤のおかげでしょう。自動車なんかお呼びじゃないって感じです。
 年の初めにやっとこさ自動車の免許を手に入れたけれど、自転車の魅力の前に用無し状態です。ただ一つだけ弱っているのは、心なしか太ももが太くなった気がすること。もともと太目の体なので尚更気になるのかも知れません。まだ乙女なんです。でも、あんな爽快さとの引き換え……あきらめなくちゃね。
(神戸・1991・4・15掲載)

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