こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

思い出・年賀状

2019年01月31日 12時16分46秒 | Weblog
(「年賀状書いてくれや」
 いきなり父の頼みに驚いたの。八十半ばだが、まだまだ元気である。しかも昨年までは自分で年賀状をせっせと書いていた。筆を走らせた達筆賀状は、家族や親せきから代筆を頼まれるほどだった。それが代筆を依頼する側に回ったのだ。
「手が震えて、うまいこと書けんのじゃ」
 やはり加齢のなせるw座だった。
「親父みたいに達筆じゃないぞ、俺。それでもいいか?」
 父の顔に迷いが現れた。だからといって問題が解決するわけではない。思案する父の様子が見ていられなくなった。
「パソコンで作れるけど、それでもよかったら」
「ん?パソコンかい……それは……?」
 論より証拠だと考えた。パソコンを起動させると、ネット画面を開いた。
「年賀状書いてくれや」
 いきなり父の頼みに驚いた。八十半ばだが、まだまだ元気である。しかも昨年までは自分で年賀状をせっせと書いていた。筆を走らせた達筆賀状は、家族や親せきから代筆を頼まれるほどだった。それが代筆を依頼する側に回ったのだ。
「手が震えて、うまいこと書けんのじゃ」
 やはり加齢のなせるワザだった。
「親父みたいに達筆じゃないぞ、俺。それでもいいか?」
 父の顔に迷いが現れた。だからといって問題が解決するわけではない。思案する父の様子が見ていられなくなった。
「パソコンで作れるけど、それでもよかったら」
「ん?パソコンかい……それは……?」
 論より証拠だと考えた。パソコンを起動させると、ネット画面を開いた。
「パソコンのう?ハイカラ過ぎるんちゃうか」
「ほら、こない簡単にできるんや」
 年賀状制作でウェブ検索した。あっけにとられた顔で画面を食い入るように見つめる父が可愛く見えた。年賀状デザイン集を選んで開いた。
年賀状の一覧が画面に広がった。
「おお~!こりゃ見事なもんじゃ」
 デザイン例から和風を選ぶと、父の目は丸くなった。伝統的な新年の絵柄を背景ににした達筆な筆使いの年賀状が並んでいる。
「こんなのをパソコンで作れるんかい?」
 父が指さした年賀状は、謹賀新年の文字が漆黒の隅を含んだ筆で書かれたものだった。父が例年書きあげていた年賀状に似ているが、その差は歴然だった。
「パソコンやったら簡単じゃ。ネットで年賀状のデザインや絵柄が無料で手に入れられるさかいな」
「うんうん。ほうけ、これやったらええがな」
 父の耳に私の解説は届かないようだった。プリンター機器のサイトや郵便局のサイトと、続けざまに開くたび、父は感激した。
 結局、父の年賀状は、無料アイテムを拾い出してダウンロード。それを組み合わせて仕上げた。宛名から差出人名まですべて筆文字で統一した。父の喜びようは、私に幸福感をもたらせてくれた。
 翌年も父の依頼に応えてオリジナルな年賀状を作った。
「どないや。わしにもできへんか?」
 父はパソコンで自分の年賀状を作ることに芽生えた。根気強く付き合って、父にパソコン操作を伝授した。サイトを開くことを覚えた父は、すぐ夢中になった。年賀状作成などお構いなしで、ネットサーフィンを楽しみ始めた。
 自宅にパソコンがないので、父はわざわざ息子の家に日参した。これまで「あー」「いー」「うん」「おう」ぐらいで済ませていた親子の会話は、なんとも豊かなものに変わった。
 親子の絆を再生してくれたパソコン、いやネットに、感謝してもし足りない。


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ため息

2019年01月30日 02時09分40秒 | Weblog
表彰式の記事を、
見直しては、
年を取ったなあとため息です。
あと10年若ければ……
なんて無意味な願望を抱き、
またため息です。
ア~ア~ア~~!
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さよなら涙

2019年01月29日 13時06分23秒 | Weblog
いきなり涙は沸き上がった。大げさではない。父の目は、みるみる涙に覆われた。
「ウ、ウ、ウ……」
 何かを訴えているが、言葉にならない。口惜しさが、口をわなわなと震わせた。
「おじいちゃん、泣いてる。どうしたん?」
 話しかけた妻の声が届いているのかどうか、父の涙は、一向に止まらない。父が涙を流すのは稀だ。これまでに三度しか見ていない。 
不肖の息子、わたしが仕出かした不祥事で顔が上げられずにいると、背後にその嗚咽は聞こえた。いや感じた。唇をかみしめて耐える父の口から洩れる、音を伴わない嗚咽の直撃に、頭は空白になった。
 確かめようのない父の涙は、不肖の息子の心を改めさせるに充分だった。七十直前に至る半生、間違いを起こしかけるたびに、父の音なし嗚咽が脳裏に蘇り、物事の善悪を思い出させた。おかげで、いっぱしの不良にならずに済んだ。
 二度目は兄の結婚式。新郎新婦に感謝の言葉を受けた瞬間、目を潤ませた父を目撃した。
 その兄は事故死した。父に仕込まれてブリキ職人になると、着実に後継者の道を歩んでいた最中だった。仕事に出向いた現場で、高所から落下。即死だった。父の目前で、起きてはならぬ悲劇は起きてしまった。
 不思議なことに、兄の死から葬儀、法事に至るも、父は一切涙を見せなかった。その心中を、いまだに理解できないでいる。
 三度目の涙は、不肖の息子の結婚式だった。結婚と無縁でしかなかった次男の奇跡に、父は熱い涙を流した。その涙が、結婚生活を三十六年維持したいまを迎えさせた。
 すべて子供のために流した涙だった。寡黙な性格の父との会話は、「あー」「うー」おー」で殆ど通じた。そんな父が流す特別な涙は、感謝してもし足りないものだった。
 今回目撃したのは、父が自身のために流す涙だった。失われた言葉が託されていた。
 脳梗塞に倒れた父。前日までグランドゴルフを楽しんでいた。九十五歳とは思えぬ矍鑠ぶりが、突然絶たれた。
「ホールインワンしたんやど、わし」
 偶然に過ぎなくても、よほどの感激だったのだ。もう一回を期した父の挑戦は、続いていた。その中途で、すべてが終了した。
 車いすに乗り、自由にならない四肢を踏ん張る試みを、繰り返す父を感じた時だった。父は涙で訴えた。ボロボロと……そう、確かにボロボロと流した。無念の涙だった。
「おじいちゃん、つねよっさんが来とるよ。分かってる?おじいちゃんの息子だよ」
 妻の声は、確かに届いた。声に藩王らしきものを見せた父の目玉が証明している。
「分かってるんだよね。おじいちゃん、分かってるんだよね」
 単純に喜ぶ妻に、涙がきらりと光った。
 翌日、脳梗塞の再発をみた。父の涙は、あっけなく奪われてしまった。そう永遠に!
 
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田舎猿のお目覚め?

2019年01月28日 01時25分32秒 | Weblog
表彰式に出かけました。
K新聞の本社ビルは神戸ハーバーランド。
神戸ももう久しく足が遠ざかっていたので、
神戸の街でキョロキョロ。
(まさに田舎者になっていました。笑)

しかし、いい刺激になりました。
やはり年に一度ぐらいは街に、
足を運び経験しないと、
どんどん老け込むだけだなと思い知らされました。

ともあれK新聞の会場まで、
なんとかたどり着きました。

滞りなく式を終えて、
審査の作家先生との懇談会は実に楽しく、
いい勉強と新たな意欲を得ました。

古希を迎えて、
あとはおまけの人生と、
自分に言い聞かせていたのですが、
もう少し
年齢と向き合って、
チャレンジをする気になったのです。

いい神戸港でした。
ただしばらくぶりの街に出た田舎者の疲れは、
やはりそれなりのものがあるのでね。
帰宅と同時に疲れが出て、
いまのいままで寝入ってしまっていたようです。

いま深夜の一時半。
目が覚めたので、
パソコンに向かうことにします。(シャキッ!笑)





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鍋の記憶

2019年01月27日 02時17分09秒 | Weblog
 グループ活動をやっていた頃、冬期イベントの打ち上げは必ず鍋を囲んだものだ。
 材料はみんなで持ち寄る。田舎住まいのメンバーは白菜や白ネギなど野菜をドッサリ。肉や調味料は会費を集めて買った。考えてみれば不公平なのに、誰も文句を言わなかった。
 酒豪だったグループのリーダーは、いつも一升瓶を抱えてきた。もちろん一番の呑み助だから、帳尻はちゃんとあっていた。
 対流型のストーブに乗せた大鍋を取り囲むと暖かく、ほっこり気分で飲み食いしながら話は尽きず、仲間の絆はより強まったのだ。
 昨今は一人鍋の時代。スーパーでは一人用の鍋ダシが売られている。一度使ったが、確かにうまい。しかし、なんとも侘しかった。
 この間、家族三人で鍋を囲んだ。今風のとんこつ鍋で、みんなの箸は大いに進んだ。締めのラーメンを平らげた後も、家族の談笑はしばらく続いた。あれこそ鍋効果といっていい。次は孫にも鍋を味合わせてやろう。
 
 
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鍋の記憶

2019年01月27日 02時17分09秒 | Weblog
 グループ活動をやっていた頃、冬期イベントの打ち上げは必ず鍋を囲んだものだ。
 材料はみんなで持ち寄る。田舎住まいのメンバーは白菜や白ネギなど野菜をドッサリ。肉や調味料は会費を集めて買った。考えてみれば不公平なのに、誰も文句を言わなかった。
 酒豪だったグループのリーダーは、いつも一升瓶を抱えてきた。もちろん一番の呑み助だから、帳尻はちゃんとあっていた。
 対流型のストーブに乗せた大鍋を取り囲むと暖かく、ほっこり気分で飲み食いしながら話は尽きず、仲間の絆はより強まったのだ。
 昨今は一人鍋の時代。スーパーでは一人用の鍋ダシが売られている。一度使ったが、確かにうまい。しかし、なんとも侘しかった。
 この間、家族三人で鍋を囲んだ。今風のとんこつ鍋で、みんなの箸は大いに進んだ。締めのラーメンを平らげた後も、家族の談笑はしばらく続いた。あれこそ鍋効果といっていい。次は孫にも鍋を味合わせてやろう。
 
 
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たばこ

2019年01月26日 00時51分45秒 | Weblog
 久しぶりの喫茶店である。コンビニの百円珈琲を利用し始めてから、喫茶店で美味い珈琲を堪能する時間はなくなっていた。
「煙草は喫われますか?」
 どうやら店内は分煙になっているらしい。
「いや、全然。煙のこない席がいいな」
「禁煙席にご案内します」
 誘導された席に落ち着くと、やはり空気の澱みを感じない。煙草は喫わない、いや煙草を嫌悪する客には、最高のもてなしである。こうでないと、美味い珈琲は味わえない。
三十代半ばで禁煙した。喫わなくなると、今度は他人がくゆらす紫煙を我慢できなくなった。煙草の匂いが鼻をつくだけで、気分は最悪に。嫌煙意識はいや増す一方である。
 調理師だった若いころ始めた喫煙は自分の嗜好ではなく、職場環境のせいなのだ。同僚の殆どは喫煙者、ヘビースモーカーも目立って多かった。「煙草喫えないんです」と公言する勇気はなかった、持論を主張できない気の弱さもあり、長いものには巻かれろと、煙草を口にした。気分が悪くなっても我慢していると、すぐ慣れた。煙草は百害あって一利なしとの本音は隠し続けて、仲間内でスパスパ、自棄気味に喫った。
 四十前に喫茶店で独立すると、誰彼に気兼ねもなく、煙草は一本も喫わなくなった。カウンター内の仕事をこなすのに、喫煙は邪魔になるだけである。そうでなくても煙草は好きで喫っていたわけではない。付き合いで渋々という状態だったから、独立独歩は禁煙にもってこいの条件を生んでくれた。
 煙草を手にしなくなったが、喫煙するのと同様な日々を余儀なくされた。喫茶店に喫煙はつきものなのだ。客は近くにある化粧品会社の営業部員が多かった。完全メークの女性たちが、なんと煙草をスパスパやる。ティータイムになると、ドーッと来店、瞬く間に店内は煙に覆われる始末。否応なく煙草を喫う状況下に置かれたのだ。間接喫煙である。
 仕事なのだと自分にいい聞かせて、我慢を決め込み仕事に没頭した。
「マスター、煙草喫わないの?」
「君らの喫煙のおこぼれを頂戴してるから、わざわざ喫う必要ないやろ。勿体ないわ」
 常連客に訊かれると、冗談口を叩き煙に巻いた。独立した達成感に、唯一の収入源との思いが加わり、想定以上の頑張りが実現した。
 独立の一年後に子供を授かった。翌年も年子と続いた。ここまでは実家の母の支援を受けて順調な子育てだったが、七年後に三人目が生まれると、事情は一変した。子連れ狼よろしく、赤ちゃんは店内で育てるしかなかった。レジ横の棚に赤ちゃんを寝かせての仕事となった。店内が真っ白になるほどの喫煙環境は気になったが、どうするスベもない。
「マスターに似て、可愛い赤ちゃんやんか」
「忙しい間は、私が世話しといたるわ」
 常連客に人気者の赤ちゃんだったが、それで事態を楽観視するわけにもいかない。
「赤ちゃん、アトピーやったわ」
 深刻な顔で報告する妻の胸に、抱かれた赤ちゃんの額いっぱいに広がるできものは膿み、血も滲んだあばた状態という悲惨な状態に、絶句した。そんな赤ちゃんを、年老いた母に預けるのは無理だ。子連れ狼で店を切り盛りするしか、最善の方法は考えつかなかった。
「禁煙喫茶にしてみるか」
「それで喫茶店やっていけるの?」
「赤ちゃんのアトピー見てられへん。なあ、親やろ、やるしかない。失敗したかて、ええ」
 煙草が喫えない喫茶店など論外の時代だった。目途は立たなくても、わが子のために踏み切るしかない。勿論、珈琲以外の食事メニューを充実させる最低限の対策を講じた。
「都会でも珍しいのに、地方では初めてといっていい禁煙喫茶店や。応援するよ」
 開店案内を手に訪問したA新聞姫路支社の記者は大きな記事にしてくれた。夕刊の一面に掲載されるほど、突飛な話題だったらしい。
「煙草の喫えない喫茶店て、あり得ないわ」
「煙草喫いたいのに、他へいくしかないやろ」
 常連で喫煙する客は捨て台詞を残して、顔を見せなくなった。客数は半分近く減った。覚悟していたものの、かなりショックである。
「私らの赤ちゃんを守るためや。頑張ろ」
 妻の励ましが支えだった。あの手この手を繰り出し、店の経営に奮闘した。
 禁煙喫茶店は、結局一年で破綻を迎えた。
「時代が早かったんやな。残念です。再度挑戦されるときは、必ず連絡ください」
 A新聞の記者は我が事のように嘆き、禁煙喫茶店終焉の記事は、しっかりと掲載された。
 赤ちゃんのアトピーは、かなりの時間を要したが快癒に至った。閉店してから新たに得た仕事も、慣れるまでひと苦労したものの、家族のためと懸命に頑張り、乗り越えた。
(こんな時代やったら、成功してたかなあ~)
 紫煙に無縁の席で飲む珈琲は格別だ。挑戦と忍耐のあの日が、香りの向こうに、蘇る。 
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ハラハラさせられた結果が

2019年01月23日 01時00分29秒 | Weblog
娘の保育士試験の合格案内が届いた。
これで晴れてこども園の保育士になれるらしい。
まあ遠回りの好きな我が娘である。
大学で幼稚園教諭資格と保育士の両方を専攻していれば、
なんら苦労もなく手にしていたものを、
保育士になる気はないと専攻をしなかった娘。
結局、保育士になると翻意したのが卒業一年前。
急遽、保育士試験の勉強をやり直して、
検定試験に臨んだのだ。
高校進学時も、
最初は級友らと同様に地元の普通進学校志望だったのが、
卒業一年前に翻意。
必死に新たな勉強に取り組み、
狭き門の県立音楽科に一般入試で合格を果たし、
毎日一時間以上の通学を休まなかった娘。
よく頑張ったと褒めてはみたが、
心中複雑である。
大学進学も同様だった。
音大志望が、またまた翻意して、
一般入試で初等教育の大学へ進んだのだ。
推薦で音大へ進めば苦労も無かったろうにと、
わが娘ながら、
呆れるばかりだった。

その結果が、いま結実したといっていいのかも。
保育士資格を得て、
晴れて公務員の道へ飛び込めるのだから、
親としては何も文句をつけようがないのだ。
まして、地元の市役所に採用を決めたおかげで、
わが家にいてくれるという。
4人の子供がいて、
やっと、たったひとり、親元にいてくれるという幸運を、
いまじっくりとかみしめている。(ホロホロ)

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三年前

2019年01月21日 00時59分36秒 | Weblog

12月15日、二人目の孫が誕生!産院へ足を運んで、娘を祝福した。幸せいっぱいの様子に目がウルウル。年を取ると、涙腺が緩む。母子ともに健康な姿を見て、やっと幸せに浸れた。といっても、初孫誕生の時の比ではない。あの日に書いたものを引っ張り出した。ハッピー気分満載の原稿は何かに掲載されたが、日の目を見ない方だった。私と妻の出会いを記していたが、懐かしく読んでみた。
    2016年1月14日記
「お義父さん、子供がいま生まれました」
 長女の夫が連絡をくれた。初孫誕生!六十七歳。遅いといえば遅いおじいちゃんだ。
 妻がおもむろに訊いた。
「どんな気持ち?おじいちゃんよ」
「ピンと来やへん。おじいちゃんなんて……」
「素直に喜べば。すべて順調ってこと」
 確かに順調だった。子供四人を授かり、さほど問題もなく人生を送って来た。 
 でも、モヤモヤしている。結婚する時に妻と交わした約束は何一つ実現していないのだ。
 三十五年前、いっぱいの夢と希望に胸をふくらませた高校生の妻に出会った。私は駅ビルの喫茶店調理場に勤める三十男。唯一の共通項は、演劇だった。
 全国大会で賞を取った高校演劇部の部長だった彼女。社会人になっても続けたいと、私が主宰するアマ劇団に入団を求めてきた。他のメンバーにない芝居にかけた情熱は、いつしかグループのリーダー的存在になった。
 ちょうどその頃、私は念願だった喫茶店経営に踏み切った。社会に出た時から抱き続けた夢の実現である。開店準備に奔走する私を見かねたのか、彼女はアルバイトを申し出た。 
 彼女は最高の助っ人だった。短大に通いながら、時間があればアルバイトに駆けつける彼女に信頼は増すばかりだった。。
 短大を卒業する直前に彼女の逆プロポーズを受けた。女性との付き合いが苦手で結婚を諦め、自分の店と劇団に人生を賭ける覚悟をしたばかりだった。
「ひとりでバタバタしてるん見てられへん。かわいそうやから私がそばにいてやるわ」
 その日から私は彼女をひとりの女性と認めた。結婚を前提に付き合いが始まった。しかし、店の経営は生半可なものじゃない。人並みなデートもできない。それでも、店が終わると、できるだけ顔を合わせた。
 あれは、赤穂の海岸だった。星を見上げながら、私は彼女に結婚を申し込んだ。
「一緒に生きていこう。君でないと僕の人生のパートナーは務まらない」
 自分でも恥ずかしくなるキザっぷりだった。
「子供ができても、芝居作りは絶対やめへん。家族で劇団作って田舎を巡演して回ろう」
「それ本気なの?」
「ああ。僕と君をつなぐのは芝居なんだ。生涯二人で芝居をやっていかなきゃ。約束する」
「うん!約束だよ。じゃ結婚してあげる」
 今思えば青臭い宣言だった。それでも、あの瞬間、二人の絆は強く結ばれたのだ。
 子供に恵まれてからも、約束通り劇団活動を続けた。喫茶店も順調だった。
 三人目の子供を授かると、生活は大きく変わった。大黒柱の責任が重くのしかかった。子供らの将来を考えれば、収入を優先しなければならなくなった。劇団活動をしばらく休むことにした。結局、そのまま芝居は諦めざるを得なくなった。四十五年近く続けた芝居への未練を犠牲にした。いつか再開するとの思いを心の奥深く刻んだ。
 以来、仕事に専念した。不審になった喫茶店を閉めて、ほかの働き口を掛け持ちした。妻も共稼ぎで、育児家事に奮闘した。
 夫婦の頑張りは、四人の子供をそれなりの社会人に育てあげた。大学教育も受けさせた。親のやるべきことを、ついにやり遂げたのだ。
「いまさら芝居できっこないよなあ」
「当たり前やん」
 即答する妻に、芝居はもう思い出なのか。
「ごめんな。お前との約束、果たせなんだわ」
 私の中には、まだあの頃の青春が、影は薄くなってもちゃんと残っている。
「約束やなんて、あんなもん破るためにあるんや。おかげで、私ら幸せになったやんか」
 そう。あの約束をしゃかりきになって守っていたら……!いま私たちに笑顔はなかったかもしれない。複雑な思いで妻を見やった。
(お前の笑顔を絶やさんように頑張らなきゃ)
 それは妻にする、人生最後の約束だった。
 
  
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またひいちゃったけ昔からそうだっけ

2019年01月20日 09時02分10秒 | Weblog
「風邪引きやすいのはな、感受性が強いからなんだぞ」
 まじめな顔で力説し始めた夫。家族の誰かがかかると、すぐに貰ってしまう夫を、わたしが笑いながらからかったからです。
「どうせわたしは感受性の鈍い女ですからね」
「そりゃそうだよ。お前はAB型だから、いつでもクールなのは仕方ないさ。しかしオレはB型だからな、感受性の塊なんだ、本来」
 夫の十八番、血液型による気質判定が口をつくと、もう止まりそうにありません。まさか血液型で風邪引いたり引かなかったりするわけじゃないのに、とあきれてしまうわたし。それに夫は風邪を引くともう大変。重病人みたいに徹底して甘えるから始末が悪い。
「おい、水マクラ」「おかゆがいい」「なんか甘いもん」「病人なんやぞ、もっと大切に扱え」と、もうワガママばかり。
 それでもわたしが風邪引きの場合は「熱ないやないか」とか「風邪くらいで怠けるな」と散々。
 これがAB型とB型の根本的な差って言うの?
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