自然となかよしおじさんの “ごった煮記”

風を聴き 水に触れ 土を匂う

わたしの中の“田老と防潮堤”

2014-02-02 | 随想

東日本大震災が発生してからこの3月で3年。その直後,わたしは岩手県にある田老地区の無残な被害のことに触れました。そこはリアス式海岸の片隅に位置する集落で,その昔,大津波に襲われ甚大な被害に遭ったところです。その教訓から,集落全体を囲うように巨大な防潮堤が造られたのですが,大震災ではまったく役立ちませんでした。

青年教師時代の昭和49年(1974年)8月,所属する研究会の定期研究会が岩手県で開かれました。そのとき,参加していた知人から「是非田老の防潮堤を見に行くのがよい。あなたの世界観が変わるよ」と勧められました。

研究会が終わった後,勧めにしたがって,わたしはそこを訪れることにしました。訪れるといっても,北上山地を横断するバスにゆらゆら揺られての旅です。途中,岩泉の龍泉洞に立ち寄りました。そこでも,ある発見があり,印象に残る旅になりました。道中,田老がどんなところか,防潮堤がどんな規模のものか,この目で早く見たいという気持ちでどきどき,わくわくしていたことを覚えています。

そのときの印象は頭にくっきり残っているものの(そのことについては以前触れましたので,割愛します),写真がどこかにいってわからない状態になっていました。ところが,先日,倉庫の整理をしていてそれが出てきたのです。残っていた! 感激です。それは,今,番外編でご紹介している植物のスライドと同じ場所にありました。スライドはどっさりあり,保管用ファイル箱に入っていたために,ついつい気づかず,その中にあることをすっかり忘れていたのでした。

撮影したコマのうち5枚保存できていたに過ぎません。しかし,わたしにはほんとうに貴重な画像ばかりです。今はもう,存在しない施設,景色ですから。ご紹介するのはなんとも気が重いのですが,被災の教訓を忘れないためにも載せることにしました。

その1。防潮堤がスゴク頑丈に見えたことが思い出されます。道路はトンネルになっていて,日常は自由に通行できます。いざというときに備えて設置された扉がこの防潮堤の役割を物語っています。

 


その2。堤は家の屋根ぐらいの高さです。それがずうっと遥か向こうまで続いています。

 


その3。堤の上は,歩行できるようになっています。家並みは堤より低く見えます。裏手は低い山です。田老は海と山に挟まれた狭小な土地に立地しています。

 


その4。いかにも頑丈なつくりに見えます。右側が海です。

 


その5。銘板が埋め込まれていました。二度と同じ被害に遭わないための大事業だったことが窺えました。


失われた多くのいのちを背に築かれた巨大構造物“防潮堤”。知人のことばどおり,わたしの世界観に大きな影響を与えた構造物でした。それすらも飲み込む巨大な災害が,東日本大震災だったのです。