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上の写真、正面の白く赤文字でHONDAとかかれた看板がかすかに見えますが、これが我が家(佐藤輪業)です。
その右隣が南三陸町役場本庁舎です、その隣が白くて四角い建物が防災対策庁舎。その脇の赤い屋根が第二庁舎です。
この写真を撮影してた日は”春うららの”心地よい日でした (2007年、4月20日頃)
場所は上山公園,、津波時には避難場所にもなっていました。
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2番目の写真は,
私の家も役場庁舎もこの時点ではまだ流されていませんが二階まで津波が来ています。
八幡川には瓦礫が、
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3番目の写真は我が家が完全に流され、役場本庁舎玄関に覆いかぶさる様子が見えます。
その役場本庁舎も防災庁舎の前まで流されるのが分かります。
このとき八幡川は瓦礫で狂ったように津波が押し寄せています。
.
3月11日は午前中から自転車バイクの修理が立て込んでいて忙しかった、
妻に急かされ昼飯にありつけたのは2時40分ごろ、
自分は”早く食べて、配達に行かなくちゃ”と二口目の飯を口に運ぼうとしたときでした。
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八幡川(汐見橋から自宅を撮ったつもりですが...)
いまだ経験の無い激しい揺れと長さにはとっさに津波は絶対来ると頭がよぎる、
たぶんその後の行動は自分として的確だと。
その日は特別養護老人施設パート勤務の妻が休みだったのが幸いしました。
妻はガス栓を止め、94歳の父と88歳の母を2階居間から誘導しすばやく外へ、
父母も常日頃から地震と津波情報には敏感でとっさの行動に対処できていました。
この事は51年前に起きたチリ地震津波で被災した際、当時5人家族がバラバラで避難し、
家族の安否に心配と不安に苦労した経緯が苦い経験として脳裏に刻まれていたからと思います。
妻は父母を乗用車に、自分は軽トラックで高台の志津川小学校をへと、
ここまでは無我夢中でしたが意識はしっかりとした行動だと思います。
私は地震の最中、預かった自転車とバイクが気になりせめてお店の中か、中庭へと、
頭上では町の広報が”大津波警報”の緊迫した連呼、
必ず来る津波を確信し”早く逃げないと”と急(せ)かせる”何かに”気持ちが焦る。
お客様から預かった自転車やバイクは津波で流されたって誤ればいいし、”なにがなんでも”とりあえず逃げなくちゃと、
店の戸は閉まらず、居間の戸は閉まらず、こりゃ戻ってきたら修繕に金かかると思いながらも、
とっさに目に付いた”レジ”を開けようとしたが停電で開かず、いっそのことレジごと持ち出そうと思ったが、
人目に付くし自分らしくない、レジの中の現金に未練を捨てた。
結局持って逃げたのは、
自分はデジイチの入ったカメラバックのみ
妻は、商売用の支払カードと空の通帳一式、
父と母は、年金通帳と懐中電灯と防災頭巾。
それ以外に助かった財産は運転免許証のみです、あとは着の身着のまま。
家族が助かった理由は、欲を捨て高台に素早く逃げたこと。
つづく
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上の写真、正面の白く赤文字でHONDAとかかれた看板がかすかに見えますが、これが我が家(佐藤輪業)です。
その右隣が南三陸町役場本庁舎です、その隣が白くて四角い建物が防災対策庁舎。その脇の赤い屋根が第二庁舎です。
この写真を撮影してた日は”春うららの”心地よい日でした (2007年、4月20日頃)
場所は上山公園,、津波時には避難場所にもなっていました。
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2番目の写真は,
私の家も役場庁舎もこの時点ではまだ流されていませんが二階まで津波が来ています。
八幡川には瓦礫が、
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3番目の写真は我が家が完全に流され、役場本庁舎玄関に覆いかぶさる様子が見えます。
その役場本庁舎も防災庁舎の前まで流されるのが分かります。
このとき八幡川は瓦礫で狂ったように津波が押し寄せています。
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3月11日は午前中から自転車バイクの修理が立て込んでいて忙しかった、
妻に急かされ昼飯にありつけたのは2時40分ごろ、
自分は”早く食べて、配達に行かなくちゃ”と二口目の飯を口に運ぼうとしたときでした。
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八幡川(汐見橋から自宅を撮ったつもりですが...)
いまだ経験の無い激しい揺れと長さにはとっさに津波は絶対来ると頭がよぎる、
たぶんその後の行動は自分として的確だと。
その日は特別養護老人施設パート勤務の妻が休みだったのが幸いしました。
妻はガス栓を止め、94歳の父と88歳の母を2階居間から誘導しすばやく外へ、
父母も常日頃から地震と津波情報には敏感でとっさの行動に対処できていました。
この事は51年前に起きたチリ地震津波で被災した際、当時5人家族がバラバラで避難し、
家族の安否に心配と不安に苦労した経緯が苦い経験として脳裏に刻まれていたからと思います。
妻は父母を乗用車に、自分は軽トラックで高台の志津川小学校をへと、
ここまでは無我夢中でしたが意識はしっかりとした行動だと思います。
私は地震の最中、預かった自転車とバイクが気になりせめてお店の中か、中庭へと、
頭上では町の広報が”大津波警報”の緊迫した連呼、
必ず来る津波を確信し”早く逃げないと”と急(せ)かせる”何かに”気持ちが焦る。
お客様から預かった自転車やバイクは津波で流されたって誤ればいいし、”なにがなんでも”とりあえず逃げなくちゃと、
店の戸は閉まらず、居間の戸は閉まらず、こりゃ戻ってきたら修繕に金かかると思いながらも、
とっさに目に付いた”レジ”を開けようとしたが停電で開かず、いっそのことレジごと持ち出そうと思ったが、
人目に付くし自分らしくない、レジの中の現金に未練を捨てた。
結局持って逃げたのは、
自分はデジイチの入ったカメラバックのみ
妻は、商売用の支払カードと空の通帳一式、
父と母は、年金通帳と懐中電灯と防災頭巾。
それ以外に助かった財産は運転免許証のみです、あとは着の身着のまま。
家族が助かった理由は、欲を捨て高台に素早く逃げたこと。
つづく
ご支援ご協力本当にありがとうございます。
私たちは励ましのメッセージが嬉しく最高の支えになります。
元通りの海山川とは行かないと思いますが、美しい南三陸はよみがえります。
TETSU119 さんぜひお出で下さいお待ちしています。
阿部くんとは飲み仲間、全国的に有名な”魚のヤマウチ”で番頭さんです。
お久しぶりです。
makinaさんの実家気仙沼の方もそうなんですが、
何もかもなくなったのですから一から出直しです。
”年令に鞭打って!”
とにかく避難生活から抜け出してからが出発だと考えています、
そのためにも仕事再開がひとつのポイントで、
今は手探り状態ですが....少しずつ進んで行きたいと思います
南三陸町への長いスパンでの支援をしたい
何年か後消防団の旅行で南三陸町へ行こう
など他にも未曾有の災害に対する備えなど色々語り合いました、
遠い岡山からですが全力で応援いたします。
志小で阿部さんと婚約者の方ともお会いしました、お二人のお幸せを心から祝福いたします。
「福興市」本当にご苦労様でした。
私の仲間も参加しがんばっていたようですが、
29、30日はバイクの修理や、その後仕事再開へ向けての
交渉と段取りといろいろと奔走していました。
TETSU119 さんが見た復興市会場の中学校からと小学校から......
本当は美しい町だってんですよ、町を流れる八幡川を真ん中にして左右に家並みがあり
海 山 川ときれいで、便利で、楽しい町でした。
TETSU119 さんに一度お見せしたかっなと思うと残念でなりません。
あのガソリンスタンド宮城商店の店主は私と同級生で駅前商店街で一緒にがんばった仲、
瓦礫の中で再開したときは私が一番最初に給油しました、彼とも復興に向け沢山語り合いましたよ、
それから五日町班の消防車の清掃ありがとうございます。
あの消防車には阿部くんともしかして亮くんが津波後寝泊りしていたはずです、
今度あったら伝えておきます。
そういえば阿部くんは志少でボランテアの手伝に来た女性の方と知り合い近く結婚するそうです。
TETSU119 さん、機会がありましたらまた南三陸へおいでください。
コメントありがとうございました。
コメントありがとうございます。
自然の猛威って計り知れないし、、
昔から”逃げるが勝ち”ってことわざありますよね、
私たち家族は川沿いだっったこともありますが
津波予報が出たときはいつも即行動して来た事が助かった理由だと思います。
とにかく家族一緒にがんばるしかありません、
なおぞう さん励ましのコメント嬉しく思っています。
私も出身は気仙沼なのですが、親類縁者みな、奇跡的に家は流されたものの無事でした。
なので、ちょっとホッとしています。やはり、車で津波を背にして命からがら逃げた姉も
『何か取りに戻ったらもうダメだった。』
写真、ご自宅が流される瞬間どんな思いだったでしょう。折角ここまでにしたお店を
流されるのは無念だった事でしょう。親戚のものも『一からやり直しだけんと、やるしかネベ』
と云ってました。復旧復旧といっても簡単な事ではないですが、出来る事から前向きに
やって行くしかないのでしょうね。頑張ってなんてとっても云えませんが、ボクも出来るだけ
早い機会に気仙沼へお見舞い&お手伝いに行きます。お体だけはお大事に。
※私事ですが、ブログ更新が出来なくなっているので、近々引っ越しの予定です。
4月29日30日と「福興市」に参加の為、志津川中学校に伺いました
そこで見た卒業生の集合写真のバックに綺麗な南三陸町を見てもう一度震災前の町を見たいと思い、hiderinnさんのブログに
たどり着きました、
「福興市」にて地元の方と直にふれあい、東北人の暖かさ、粘り強さを強く感じました
そして志津川小の避難所では暖かく迎えて下さり、私の大好きな町になりました
イベント以外にもお手伝いがしたかったのですが、なにもできずに帰った事を悔やんでいます
瓦礫の間でhiderinnさんのご近所のガソリンスタンドが営業していたのを発見して給油し復興の光が少し見えた気がしました
私も微力ですが、今後東北、そして南三陸町のためにできる事をながいめで考えていこうと思っています
hiderinnさんに質問なのですが津波が堤防を超えて防災センターに迫っている写真の中で消防車が映っていますが五日町班の消防車でしょうか
先日志津川小の避難所で五日町班の泥だらけの消防車をせめてもと思い拭かせてもらい気になったもので・・・。
それではみなさんのご健康をお祈りしております、またお邪魔いたします。
何も被害にあっていない僕などが何を言ってもそらぞらしいけど
hiderinnさんや気仙沼の親類のことを心にかけぬ日はありません!
間違いなく復興は長期戦にならざるをえないと思いますので、
いつか自分が役にたてるよう準備はしているつもりです。
お父様、お母様、奥様みなさまのお身体、大変でしょうけど
ホンマにご自愛ください。
おはようございます
少しづつそのときの様子と気持ちをブログアップしていきたいと思っています。
いま鳴子温泉中山平に二次避難しています、
2時間かけ週に3~4日地元に戻り、仕事再開の足がかりを着けています。
近い将来、何んとか再開したいと思っています、
とにかく町の(お客様の)8割が被災し、働き場所も、収入のない今後、
果たしてこの町に町民が戻ってこれるのかが心配です。
入り江に育んだ町、山が多く高台の平地が少なく仮設住宅の場所確保が難しい状態です。
でも、”飯し食わなくちゃ”生きられないので、なんとかしなくてはと、これから南三陸に戻ります。
hiderinnさんなら絶対にこうして避難していてくれるに違いないと私が思っていた通りの行動でした。
>欲を捨て・・・
これが難しいです。
復興の兆しは見えてきたのでしょうか?
それが気になります。
皆様のご健康をお祈りしております。