今日も雨降り。
梅田整形でリハビリの後も雨が降り続いていたので
東山いこいの森へ戻らずに晴耕雨読。「福井カメラ風土記」を読む。
大野 孝淳尼の項の事が気になったので八木源二郎氏の文を記載させて頂きます。
孝淳尼の生涯は、その大半を永平寺73世熊沢禅自師への奉仕についやされた。
昭和18年、頼まれて、尼総僧の永平寺通いが始まった。
それは禅師を始めとして本山の僧たちの衣の繕い洗濯の仕事だった。
当時本山には僧が11人いるのみで、それは折柄、日本は戦争たけなわで、
青壮年は兵役に引き出される。また、本山は非常事態勢華下で
食糧難の時代、僧達は食うにも事欠く有様では、
本山に修行に集まらないのは当然の事であった。
窓の硝子も破れたままで、寒風が吹きこむ京福電車の通勤は
さぞかしつらい事であったろう。
手元不如意の本山では、建物の破損が激しいが、
補修する金もない。
雨の日は七堂伽藍の内、雨漏りの無い場所を選んで
僧達は眠ったそうな。
熊沢禅師は、毎夜の如く、堂内の点検に歩かれた。
蜜柑函に灰を撒いて、大豆を並べ、早く「もやし」が立ち上がればよいがと
言われながら、水をかれておられた様子は、今思い出しても、
お労しいと、孝淳尼の話は続く。
あまりに使い古されるので作衣衣(さむい)や布団は破れてぼろぼろ。
孝淳尼は繕い寧なき有様。
しかし禅師は、褌は、ご自分で洗われた。
(それは晩年、何不自由の無い戦後の時代が来ても80歳を過ぎて、
半ばになられてからも続いた)
褌だけは、太陽様に向けて干しては申し訳ないと、
部屋の中に紐を張り渡して、これに掛けられたそうだが、
雨の多い日など、代わりが無くて、生渇きのままで、
着用され、後はご自分の体温で乾かれたそうな。
さて、本山では戦時中の事とて若い僧など望んでも集まらぬ。
一計を案じ、ここに尼僧林を併設しようかと真剣に
考えられた事もあったがそれは実現しなかった。
大野から京福電車で東古市で永平寺線に乗り換えて通うのもそうとう
大変だったと思いますが、
大本山永平寺に僧が11人しかいなかったことも驚き。
普通の書物では語られない事がいろいろあって興味深い。
☆広島から初メールの方へ
メールありがとうございます。
東山いこいの森の受付は4月1日からです。
それまでは、東山いこいの森の電話には基本出ません。
白山登山の行き帰りにご利用をお考えとの事、是非そうして
頂ければ嬉しく思います。
4月1日までは正規の勤務では有りませんので、
自分の事をしていたりしてなかなか対応できる状態ではありません。
最近はプライバシーの事などもありますので、
出来ましたら東山いこいの森あてにお手紙を頂ければ、転入届けで
私の所へ届くようになっています。
そこへお電話番号などお書きになって頂ければ、
私の方からご連絡させて頂きます。
もしお急ぎでしたら、勝山市役所林業振興課の方へお電話
して頂ければ、担当の者がお答えさせて頂きます。