勝山のスコヤカで 発表会がありましたので行って来ました。
少し時間があったので 恐竜博物館へ寄ってみました。
福井に帰って来たら時間が遅くなって申し訳ありません。
報告の原稿をここに 発表させて いただきます。
新規チャレンジ部門、御所ケ原会。
私は、新規チャレンジ部門の部、御所ケ原会の 源野 正弘でございます。
どうぞ宜しくお願いします。
谷トンネルの近くに御所ケ原という 集落がありました。
今は 簡単に五つの所の原と書いて 五所ケ原と言いますが、今でも法務局の地籍では 御「おん」所ケ原と書かなければ 通用しません。
遠く 都の御所にも通ずる 大変に あらたかな 地名だと 思っています。
集落の家や田畑のある所は、東はオイノミズ谷川、西は奥の河内川に挟まれた扇状丘陵地で 南に向かって開かれていますので 日当たりが とても良い所です。
人が暮らすには適した場所ですので 早くから住み着いたところと 思われます。
三八の豪雪。学校の統廃合。経済的な理由から 村を離れて、昭和の40年後半には 御所ケ原に定住する人はいなくなって終いました。
明治の後半には、人口の増加から 村としての安定生活を確保する為北海道開拓へと 移住を余儀なくされた家族も相当数おられると お聞きします。
村を守るために移住をされた一世の方々はもちろん、又その子孫の方々にとっては 魂の故郷として 無くてはならない御所ケ原であった事を思いますと、この現状 真に申し訳なく 忸怩たる思いでもあります。
北海道へ渡った人たちだけでなく、村を離れて行った 人たちにとっても 心の故郷、素晴らしい故郷であったとの思いが おありの事と思います。
この度、新規チャレンジ部門に参加させていただき、祖先たちの歴史や暮らし、文化を尋ね、子孫たちへ託す願いは なへんにあつたのかを調べ、子孫や勝山に暮らす人たちに 伝え残して行きたいと 決意をさせて頂きました。
今の時代、経済至上主義や、原発などへ抑制をも含め あらためて 先人たちに学ぶべきところ 沢山あるのではとの 思いにいたります。
勝山ルネッサンスを目指し 御所ケ原の歴史探訪をまとめてみたく 第一年度は、資料集めをさせて頂きました。
御所ケ原に人が移り住んだのは、何時頃からかと 思いますと、「日本記略」によれば 辞統天皇の6年、西暦692年に朝鮮から亡命して来た人たちにらよって 敦賀湾の東部から今庄あたりで 養蚕がなされ 「繭」を朝廷に 献上してと 記されています。
その頃には 白山山麓にも 朝鮮からの 亡命者が入り込み 養蚕が行われ、この蚕を 「おシラ様」と崇め
て、白山の神様を「おシラ様」と崇めて、白山の神様を「おシラ様」とみなして 崇拝し、現在全国に白山神社のある地方では 養蚕業が 盛んに行われていたと 言われています。
御所ケ原には、この亡命者の養蚕と、木地師の集団が住みついたのではと 思われます。
北谷には、六呂師という 地名も残っていますが 御所ケ原にも 昔から 木地山と 言われているところがあります。
それから 時代が過ぎて 源義経が 暫らく隠れ住んでいた所を 判官堂と言われていて 取立山のかえりの石川県側にあります。
義経一向の世話をしたサルバナ姫という人がいたそうです。
落行く 武将と 村の娘とのロマンスは 小説にでもなるのではと 思います。
北谷には、小原や中野俣など 平家の落人が隠れ住んだ所と言われています。
御所ケ原では 見晴らしが良すぎて 隠れる所は無かったので、昔から 平家も源氏も仲良く幸せに暮らしていたのではと 思います。
余談ですが、私は源野ですから 源氏の子孫だと 思いますし、妻の実家は「平」ですから平氏の子孫だと 思われます。
さらに時代が 過ぎて 歴史上に北谷七山家族が出てきて 平泉寺滅亡、勝山の地名の由来などは 皆様ご承知のところですが それよりも百年も前に 牛首「白峰」、谷一円を領有していた、加賀の守護職の弟 幸千代丸が
御所ケ原に 陣を構え、朝倉方をけん制し続け さらに、1504年から1520年にかけては、加賀の一向一揆が越前の一向一揆を助けるために、勝山まで 出没したと 書かれています。
それだけの兵力を養うだけの 食料、住居、衣類などの確保が 御所ケ原において 出来ていたという事は 凄い事だと思います。
まだまだ 発表したい事がありますが、時間の都合上此処までと させて頂きます。
次に、今後の課題と しましては、今までの資料を基に 寒系する地域への 現地調査、古老の持っておられる知識を聞き出し まとめて行こうと 考がえています。
来期も継続のご許可が いただければ、皆様からのご意見、ご指導をも頂き、充実したものへと 発展させて いきたいと 考がえています。
ご清聴誠にありがとうございました。