
天文五年(1536)羽生城主広田直繁と弟木戸忠朝は、小松神社に三宝荒神御正体を寄進したと伝えらています。木戸忠朝は皿尾城に入り、成田長泰らと戦ったとされています。当時元服を迎えた年頃と考えられていて、羽生領主として地盤を固める目的があったと思われます。
神社の由緒書きによれば、天文二十三年(1554)羽生城主木戸忠朝親子により、社殿が修理されたと記されています。

戦国期に於いて羽生城は隣国忍城成田氏に対抗するため、後ろ楯に上杉謙信を頼っています。自らの独立を守るため、上杉への忠義を貫くようになります。永禄三年(1560)上杉謙信は関東出陣を果たします。以降激しく北条氏と勢力争いの末、小田原の北条氏政は羽生に乗り込み、陣を敷きます。
そして小松神社に足を踏み入れ、三宝荒神御神体を奪い、小田原へ持ち去っています。その北条も豊臣秀吉によって滅ぼされ、羽生城も上杉の支城としての役割を果たせないと判断され、支えた上杉謙信によって自落しています。こうして羽生領主の移り変わりにより、小松神社に神灯をともすものはなくなりました。