皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

浦和区 調神社②

2019-04-25 22:55:33 | 神社と歴史

サッカーの街浦和区、調神社には氏子の間七不思議と語り継がれる伝承逸話があるという。

①鳥居がない事。先述の通り、かつて調物を納めた御倉と祀った社であることから、それらの搬入に妨げとならぬよう神門や鳥居が取り除かれたという。大和国一宮大神神社に代表されるように御神体が自然の姿であるところは所謂、本殿がないという形式は多くみられるが神域を示す鳥居がない神社は特殊である。神社の創建に関わる伝承でとても興味深い。

②境内に松がない事。

御祭神の天照大御神が境内の松で目をついたため松がないという。また弟神、素戔嗚尊が大宮(氷川神社)にいったまま戻らないことから「待つのが辛い」として松を植えないという。

こうした逸話は非常に多く、各地で見られる。同じようにとうもろこしで目を突いたため植えないといった伝承も各地に残るが、これは農地の転用を戒める意味合いがあると考えられる。

③御洗瀬のこと

飛地にある境内地の御手洗瀬の瓢箪池に魚を放すと必ず片目になる。

こうした沼地の片目、片葦伝承も多い。忍領においては埼玉小崎沼におなじ伝承が残っている。この地に鍛冶師が住み着き、長らくの仕事で片目が見ずらくなったことを伝えたとされている。

④使姫兎のこと

神の使いとして兎を敬い御眷属の像として祀った。氏子は神使いとして決しって食することがなかったという。

⑤日蓮上人駒繋ぎ欅の事

日蓮上人が佐渡への流罪の時差し掛かると、名主青山家の妻女が難産で苦しんでいたので境内の未申の方角にある欅の大木に駒を繋ぎ曼荼羅を掛けて安産祈願すると、楽に男子が生まれたと伝わる。

弘法大師と並んで日蓮上人の伝承も数多い。没後の日蓮宗の教義と共にこうした逸話を伝えながら、布施を募ったことが窺える。未申は南西方向を指し鬼門の北東方角(丑寅)の反対方向であることから裏鬼門と呼ばれ、忌み嫌われる方角である。

⑥蠅がいないこと

⑦蚊がいないこと

国学者平田篤胤の「調神社考証」によれば神宮への奉納を集める倉を清浄と尊ぶことから

境内にこうした虫を寄せ付けないという。

埼玉の中心駅から僅か10分ほどの清閑な場所にこうした逸話や伝承が残る古社が泰然と鎮座していることが埼玉の良さの一つだと感じる。

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浦和区 調神社①

2019-04-25 22:09:10 | 神社と歴史

旧浦和市岸町は大河の中州であったところを示す浦曲(うらわ)とその河岸の地を表している。

境内には大きな欅が残るが、ケヤキは古い名を「ツキの木」(槻の木)と呼び社名との深いかかわりを持つという。

月の神として信仰され、御祭神は「江戸名所絵図」には月読命とあるが現在では天照大御神、豊受大神、素戔嗚尊を祀っている。

また月の神の起源には諸説あり、その一つに「乙巳の変」(645年)の後に進められた孝謙天皇の諸改革(大化の改新)により租税制度が改められ、「租、庸、調」として定められた「調」にあたる税で7世紀後半には成人男子の人頭税として繊維などを納めたものをいい、これを入れる御倉を「調神」とした説がある。

 また社頭の掲示によれば、第十一代崇神天皇の勅命により、神宮斎主、倭姫命がこの清らかな地を選び、神宮に奉る調物を納める御倉を建て、武蔵野の初穂の集約運搬所として定められたという。然るにその運搬搬入の妨げとならぬよう鳥居、神門の類は除けられて今に至るという。

倭姫命は日本武尊命の叔母にあたり、命の東征に際し天上から賜った草薙の剣を授け、日本武尊命の窮地を救ったとされる。(命が国司の反逆で火討ちに会い、草薙の剣で燃え上がる草を払った地が静岡県の焼津だという)

後に調(つき)が月読神に転じて月待信仰の対象となった。中世から近世にかけて多くの文人も参拝していて、寛政三年(1791)小林一茶は深い杜に鎮まる「月読み宮」に参ったことを紀行に残している。

 月に因んで神社の神使は兎であり、狛犬の代わりに幾処にも兎像が納められている。

「埼玉の神社」によれば古来より氏子の間で『調神社七不思議』として語り継ぐ伝承、逸話があるという。

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