皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

忍の行田か行田の忍か

2019-07-10 23:53:57 | 郷土散策

今年は行田市制施行70周年。田んぼアートを始め多くの記念事業が催されているようだが、そもそも昭和24年の市制がしかれるまでは、ここ行田市は忍町と呼ばれていた。忍市ではなく行田市となったのは「忍市」では要するに語呂が悪かったせいであろう。「行田」とは「成田」が転じたものと考えられているが、元は忍町の一字(ひとあざ)に過ぎなかった。

足袋でその名を知られるようになると、駅や電燈、郵便局も皆行田と名がついたため、他所の人は当時行田は独立しているものだと思ったらしい。

「忍の行田か、行田の忍か 武州行田は足袋でもつ」と歌われて、行田の名は次第に定着していった。

忍にしても行田にしても、その読み方は珍しく、他所では「いくた」「しのぶ(しのび)」と読む方が一般的のようだ。

東京四谷三丁目はかつて四谷忍町と呼ばれていて、家康から忍城へ派遣された高木九助の所領であったことに由来する。

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星の降る丘

2019-07-10 23:10:44 | 心は言葉に包まれて

MISIA 星の降る丘 より

どうしてもひとりになりたくて 星降る丘に立っていた

去年キミと見た ペルセウスの流星群 hu... こぼれ落ちてくる

手を伸ばしたら 届きそうなほど

鮮やかに ひとつひとつひかり放つ まぶしく

忘れ得ぬ 遠き思い この胸に

そっと そっと そっと 祈り捧げる

 アルバム「星空のライブ」の最後に収録されたこの曲が好きです。あまりの高音に初めて聞いたときに驚きました。

藍色を茜に染めてく 風吹く丘に立っていた

強がりなんかじゃなく 強くなりたいと願って hu..溢れ出すばかり

本当の愛を抱こう いつの日にか

もっともっと光り放つ 必ず

誰よりも 熱き思い この胸に

ずっと ずっと ずっと 歌い続ける

星は朝露へと変わって輝きだす

本当の愛を抱こう いつの日にか

もっともっと光放つ 必ず

誰よりも熱き思い この胸に

ずっとずっとずっと 歌い続ける

 彼女の願いは歌うこと 大切な人に大切な思いを伝えることだといいます。

 そして歌うことより 歌い続けることを願っています。

 いつかライブで聴くことが出来たらといいなと思っています。

 

 

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川俣関所跡

2019-07-10 22:37:09 | 史跡をめぐり

埼玉県と群馬県を隔てる「父なる利根川」。川の恵みは肥沃な大地をもたらす一方、氾濫によって多くの人々を苦しめてきた。

羽生市新郷と明和町を結ぶ国道122号昭和橋はその交通量も多く、しばらく前には羽生市側に道の駅も整備され、益々人々の往来も激しくなっている。新郷は江戸時代には忍藩に属し羽生領との境となっていたのは古利根川と呼ばれた会の川であったという。日光街道の脇往還宿場として栄えていた。

 この道は鴻巣から熊谷に出ることなく行田から上新郷を経て利根川を渡り、日光へと抜けることができる。故に日光街道と称し、元和三年家康の亡骸はここを通って日光へ送られたとされる。その時には八王子から川越に出て忍城へと入り、川俣にて利根川を渡ったのだという。

川俣関所の成立は慶長年間(1596-1615)とされ明治2年まで実に約260年間続いた名関である。江戸城警備の主要機関で俗にいう「入り鉄砲に出女」の言葉の通り将軍家の人質となった諸大名の奥方と、戦乱の引き金を引く鉄砲の江戸江の入荷を取り締まったという。

日の出に開門、日の入りに閉門され、実際の関所跡は河川改修で川底に沈んでしまっている。「別関所」「新郷川俣関所」とも呼ばれかつては厳しい取り締まりが行われていた。

 一説には関所破りに際して思い罰が課され、磔にまでされたという。実際に土手を下って行ったところが処刑場であったとされ、処刑に使われた杭の破片などが地中に埋まっているという。

当時の関所の定が記されていて、その厳しさを物語っている。

 

 

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