皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

忍領西端の地~八幡橋

2019-07-04 20:36:47 | 郷土散策

梅雨前線の影響もあり、九州地方においては豪雨による災害が発生し、昼夜のニュースで取り上げられている。関東においても数年前鬼怒川堤防が大雨で決壊し、ヘリで人命救助に当たっている映像が流れたことも記憶に新しい。

 徳川入城後、関東においては利根川荒川を中心に河川の治水事業が進められ、現在の河川の流れが形作られてきた。時代が変わっても雨大国日本において、治水灌漑事業は重要な社会事業の一つに変わりない。

 忍川はここ忍領行田市を横断する一級河川でその源流は利根川水系中川支流である。行田市内を中心地まで東西に横断し、酒巻用水路と合流するところで(花見橋)流れを南に変え武蔵水路と並行するように市内を今度は縦断し、鴻巣に入って元荒川と合流する。

忍川が行田に入って最初にかかる橋が、「八幡橋」であり、持田の菅谷八幡神社北側にかかっている。『吾妻鏡』の建久元年(1190)の項に源頼朝の上洛の様子が記されており、その行列の先陣は畠山重忠で後陣の名に忍三郎、忍五郎の名が出てくるという。またその同列には成田氏の一族の名も見えるという。当時において『忍氏』は将軍旗下の有力武士団であったことが窺える。

上洛に際し忍三郎は石清水八幡宮に参拝し、その御分霊を頂いてこの地に戻り、菅谷に八幡宮を創建したという。

その後忍氏は成田親泰に滅ぼされたが、直ぐに忍城の築城となり持田村の諏訪神社を城鎮守とした。

昨年忍川沿いの遊歩道が整備され、菅谷橋まで開通している。行田市西端の地で忍の名の元になった氏族が勧請した八幡神社は熊谷へと抜ける旧道と、忍川に挟まれるように立っている。

 

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さいたま市大宮区 櫛引氷川神社

2019-07-04 17:19:28 | 神社と歴史

 大宮区櫛引町の地名は、伝承によれば昔素戔嗚尊とその妻、奇稲田姫尊が出雲からこの地にやってきた際、当地で休み、素戔嗚尊が奇稲田姫尊の髪を櫛で整えたことに由来するという。大宮の氷川神社を勧請したものとされ、創建の年代は不明であるが、末社に荒脛社を含むところが実に興味深い。大宮氷川神社摂社には「門前客神社」が鎮座するがこの門前客とは、そもそも古来より土着していた古い神社で、氷川神社御祭神に従わなかった故、門番として仕えた神として祀られた経緯を持つ。この神が所謂アラハバキ神と言われ、関東から東北にかけて多く見られるという。氷川神社の創建の歴史を忠実に引き継いだ神社と言えるだろう。かつて社の丑寅に小池ありと記されていたが現在その姿は見られない。埼玉の中心地大宮の住宅街に位置し、通りから中に入って見られない分、この地の氏子から大切にされてきた歴史がある。

明治四十年、当時の合祀政策により隣の地区である「日進神社」に合祀されている。大正三年現在地に遥拝所を設け祭祀を継続し氏子の要望で社殿を再建した経緯を持つ。よって宗教法人として登記されたのは昭和五十一年になってからで、日進神社より神霊をほうかんしたという。

幕末から明治初期に神職を務めた渋谷勝平は幼少より書を納め和歌を学び、平田篤胤の門人藤原直彦に師事し平正彦と称した。また平春堂という私塾を開いて、地域の教育に貢献したという。境内にはその平正彦の筆碑が残っている。

氏子の伝統芸能に「おむらい流」の囃子がある。文政二年から続くもので「鎌倉」「岡崎」「数え歌」などの曲がある。武蔵一宮氷川神社の八月の例大祭の折、神賑わいとして櫛引町の山車に乗って演奏されるという。

文政八年、平成二年に奉納された新旧二基の燈篭が並び、当時から現代に続く地域の信仰が見て取れる。

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事八日のネロハ除け

2019-07-04 15:10:58 | 昔々の物語

旧大利根町北大桑地区には「ネロハ」と呼ばれる一つ目お化けの逸話や伝承が残っている。逸話の起源を想うと昔からの農村部における人々の暮らしが垣間見える。

昔の農家は朝早くから夜遅くまで寝る間も惜しんで働いたという。特に嫁にきた者の仕事は多く、人一倍大変だった。

 秋も深まった日の晩、農家に嫁いだ娘のことを心配に思った母親はそっと様子を見に行った。心配した通り娘は寒さをこらえながら夜なべの仕事をし、不憫に思った母親はせめて一晩だけでもゆっくり眠らせてやりたいと願いあれこれ思案したという。

 師走の八日の晩思いったた母親は髪の毛をひりほどき額に日本の鰹節を括り付け帯ひるまいの姿で娘の家へと向かったという。

「ネロハー、ネロハー」

大声で母親は叫びながら戸をドンドンと叩いた。

突然のことに驚いた家の者は、恐る恐る外を覗くと鬼が戸を叩いている。慌てた家の者は「嫁ご、早よ寝ろ、鬼が来たぞ」と言って家の灯りを消して寝てしまった。

 それからというもの、師走と如月の八日には「夜早く寝ないと鬼が婿に来る(嫁を盗みに来る)」と言って代わり飯(いつもと違ったご飯)をして早く寝るようになったという。

「ネロハ」とは北埼玉の方言で騎西地区においては昭和の初めまでこうした行事が行われていたという。如月八日を事始、師走八日を事納めとし、長い竿の先にみけざる(目の粗いザル)をかぶせ、庭に立てたという。一つ目の鬼が目の多いザルに驚いて逃げ出すと考えられたからである。

物語そのものが、娘を心配した親心から始まっていて、時代を超えて共感するものがある。嫁いでも娘が愛おしいの思いは変わらない。

農家に纏わる伝承は、祭りによって伝えられることが多い。

(引用 加須インターネット博物館 / 加須ものがたり/ネロハ )

 

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旧大利根町 北大桑新井 八幡神社

2019-07-04 14:30:50 | 神社と歴史

北大桑の地名の由来は、往古当地の中央を利根川が流れ、この川筋を往来する船の船頭の目印になる大きな桑の木があったことによる。加須市側を南大桑、この大利根側が北大桑にあたる。神社の鎮座地新井は荒井の字も当たり、比較的新しく開発された地だという。

 

  口碑によれば、新井の八幡様は「八坂八幡」といい、大桑が南北に分かれる前にはこの辺りは十軒ほどの集落しかなく、そこへ鉢形城の落ち人吉田家の祖先が入り、次第に村を開いたという。社殿東側には道を挟んで地蔵堂があり、庚申塔や十九夜塔が並び、古くからの信仰をいまにつたえている。

 

古くから神社周辺に社地を有し、その田畑からの小作により社を運営したと伝わるが、戦後の農地解放で失い、現在では工場施設が立ち並んでいる。

地区内は神葬祭が多いという。明治期に悪い僧がいて、これを追い出し以降神葬祭を行うようになったというが、こうした伝承は所々にあるようで、明治期における廃仏毀釈の混乱を伝える話だという。現在でも葬儀は神式、以降の四十九日、新盆等は僧侶が仏式で行うところが多い。

地域に残る儀礼に事八日のネロハ除けがあるという。「ネロハがっくっから、はよネロ」と子供にむかってしつけるというが、ネロハとは一つ目のお化けのことで、子供に悪さをするという。これを除けるため、ミイケ(草の取り籠)の中に餅草を入れこれを竿に挿して建てるという。

するとミイケは目が多いので一つ目のネロハが驚いて逃げるという。

このネロハの伝承については、その由来が昔話として郷土に語り継がれている。(続)

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