皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

幸手権現堂 順礼の碑

2020-04-13 16:49:07 | 史跡をめぐり

幸手市権現堂堤は桜の名所として知られるが、その歴史は江戸時代天正年間に利根川の支流である権現堂川の堤防として築かれたものだという。かつては6kmに渡って約3000本の桜を誇り、大正期にはすでに桜の名所として賑わっていた。

明治九年(1876)には明治天皇が東北行幸に際に立ち寄られたことから行幸堤とも呼ばれるようになった。

権現堂川は利根川の流路変更に伴い明治の終わりには締め切られ廃川となりそのため堤防は荒れ果て植えられていた桜も戦後の混乱や薪燃料のため多くが伐採されてしまった歴史があるという。

昭和二十四年(1949)以降旧権現堂川堤防の内、中川の堤防として残ったところにソメイヨシノを植樹したものが現在の権現堂桜堤であるという。平成二十年(2008)には埼玉県営権現堂公園として整備されているが、その公園の中には権現堂を見守る順礼母娘の碑が建てられている。

淳和二年(1802)の大雨によって弱っていた権現堂川の堤は修復してもすぐに切れてしまうような有様であったという。

ある時堤奉行の指揮の元、村人たちは必死に堤の改修工事にあたっていたところ、夕暮れ時に巡礼の母娘が通りががった。工事の様を見た母は「こう度々堤が切れるのは龍神の祟りに違いありません。人身御供(ひとみごくう)をたてねばなりません」と口走った。すると堤奉行は「誰か人身御供になるものはおらぬか」と見渡すと皆顔を見合わせるばかりで進み出るものはいなかった。すると「人身御供を進めたものを立てよ!」という声が上がりました。

 順礼母はこの声を耳にすると「私が人柱になりましょう」と申し出ると念仏を唱えて渦巻く水の中に身を投げてしまいます。これを目にした娘もそのあとを追ったといいます。

するとそこから水が引き、難工事だったものが無事に完成することとなったといいます。

昭和十一年に建てられたというこの巡礼の碑が伝えようとしたものはなんだったのでしょうか。

利根川流域には治水を廻る人柱伝承が多く残っています。大利根町鷲神社、加須市外野川圦神社など流域の神社にはその霊を慰めるために神社が勧請されたと伝わるところも数多くあります。

個人の尊厳よりも、共同体としての存続が優先された時代。人柱とは神に対する最上級の供え物であると考えられ、人の命を捧げてまで災難を沈めようとした当時の人々の考え方歴史を伝えようとしたことが分かります。

戦後現在の憲法ができ個人の尊厳が守られてきた時代にあっては考えられないことですが、翻って現在の新型ウィルスの蔓延が止まらない時世においては学ぶべき事象のように思います。高度成長期以降生まれ育ったた私たちの世代は、有事に対する立ち位置がわからない。覚悟が足りないように思います。だから上からの支持を待っている。保証がないと言い訳をする。命令に従うことでしか先行きを見渡せない。命令を出す側の方も、要請という名で人任せにしている。名ばかり緊急事態。そんな気がします。

 

桜の季節は儚くも過ぎ去りました。疫病の収束を祈りながら自身の生き方を顧み、できることをしていきたいと思います。

 

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幸手市 熊野神社

2020-04-13 15:43:04 | 神社と歴史

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 桜の名所と知られる幸手市権現堂。その地目の由来は、「村内に熊野、若宮、白山の権現を合祀した旧社あれば此村名起れりと云」と風土記稿に記載がある。創建は天正年間(1573-92)の頃である。

この地に甚大な被害をもたらした淳和二年(1802)の大水により村内の歴史を伝える記録がことごとく流出してしまったため、創建時の祭祀状況は不明であるが、大規模な社であったことは風土記稿にも伝わり、「熊野若宮白山大権現、村の鎮守也、この社古大社にて、村名の起こりと云も権現三社也」とある。文政八年(1825)に社殿が再興され、翌年に熊野三神(素戔嗚、伊邪那岐、伊邪那美)を表す神像が奉納されている。

熊野三神は神仏習合により熊野三社権現とも呼び、それぞれ阿弥陀如来、薬師如来、千手観音とも考えられてきた。鎌倉以降になると熊野御師、熊野比丘尼といった人々が熊野信仰を全国に伝えていくようになる。御師は熊野詣でをする人々を世話する世話人、比丘尼は出家した女性(尼さん)のことを云う。こうした人々が後に修験者となり全国に熊野信仰を広げていったとされ、その中心となったのが時宗の祖とされる一遍聖人で、本宮に参拝した際宣託を受けて極楽往生を約束する念仏札を配るようになったという。根本的な信仰はまさに極楽往生、即ち来世利益を願うこと。それだけ現世に対する不安や苦しみが多かった現れである。昨今の社会的状況も重なるように感じてしまう。

権現堂村は一説に北条家家臣巻島清十郎が小田原落城後に当地に移住して開いた村だとも伝わる。その当時は僅か七軒の小所帯であったという。

その後文禄三年(1594)利根川支流として権現堂川が開かれ慶長四年(1599)に河岸場が開かれると水利を活かして村は大いに発展し、化政期(1804-30)には約六〇軒、明治初頭には一三〇軒へと増加した。江戸期に権現堂川の水利を活かし江戸と往来するものも多かったという。氏子の中には江戸で成功するものもあり、そうした人々は江戸講中を結成して参詣するものもあり、講社から奉納された狛犬や燈篭が残っている。

令和二年の桜まつりは中止となったが幸手権現堂桜堤には、桜の開花期間中多くの人が訪れていた。喧騒から一区画離れた瀬戸の地に熊野神社は静かに建っている。

 

 

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お変わりありませんか。

2020-04-13 11:28:45 | 心は言葉に包まれて

「こんにちは」「暫くぶりです」「お元気ですか」少し時を隔てて人に会う際、どんな言葉を掛けるとより気持ちが相手に伝わりますか。日々の挨拶が大切だと説く人は多いと思いますが、不定期に会う人とのつながりにその人への思いが良く伝わる一言があります。

~お変わりありませんか~

半年に一度通う歯科医の先生がかけてくれる言葉です。

 健康な体には自身に治癒能力があり、栄養、睡眠、適度な運動などでその能力は維持できる。でも口内環境による歯垢の蓄積は自身で除去するには限界があり、それによって歯肉や歯周病は進行してしまうので、定期的に歯科医の検診を受けることは健康的な社会生活を送るのには必須のことだと指導されてきました。痛みが出てからでは遅い。いつも先生はそうおっしゃいます。かかりつけの歯科医の先生は診察や治療の際はどちらかというと厳しめの言葉を掛けてくれます。だからより信頼できる。普段から甘い自分自身の生活態度を戒めてくれるようです。

その後変わりないですか。その挨拶の向こう側には、「あなたの健康はあなた自身で管理するのですよ。

でも歯の健康については私たちが責任をもってサポートします」そう言ってくれているような気がします。

こうしたかかりつけ医の先生が身近に開業されていることを幸せに思います。

 

 

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生垣と紅カナメモチ

2020-04-13 10:36:01 | 生活

 生垣に用いられるバラ科の常緑樹カナメモチ。ホームセンターなどに置かれている苗木はレッドロビンと呼ばれカナメモチとオオカナメモチの配合種で特に新芽の赤色が鮮やかなことから「紅カナメモチ」とも呼ばれている。桜と前後するように今の時期紅色の鮮やかな新芽が美しい。

 

カナメモチとは扇の要に用いられ、「モチノキ」に似ていることから「要黐」と名付けられたという。

春には小さな白い花を咲かせる。清少納言は「枕草子」の中でこの花をそばの花に見立てて「ソバノ木」と呼んだそうだ。だからモチノキのことを今でもソバノ木とも呼ぶことがあるらしい。

カナメモチの花言葉は「賑やか」。新緑が鮮やかな赤色をしていることからついたという。時間をかけて緑に変色していく姿がまた趣が深い。

 土地の境界を隔てるのには塀や石垣よりも生垣がいい。剪定に手間もかかり煩わさも感じるが、その分自然の温かみがある。

神社の参道に植えられたカナメモチは四十年以上前に先代宮司である父と、隣村の植木職人が植えてくれたものだ。二人とも亡くなってしまったが、縁あって今はそれぞれの孫が小学校の同級生として仲良く学んでいる。

縁とは不思議なものだ。そして末永く続いて欲しいと願っている。

 

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