桶川市川田谷は荒川左岸の自然堤防上に位置する村で、南北朝期から見える「河田郷」にあたると考えられている。河田谷とは川の端の地であることに由来する。早くから開けた土地であったが、元禄七年(1694)の「桶川町助郷帳」では上下の河田谷に分村し、化政期(1804-30)には全体で五〇〇戸ほどに達したという。
当社は下川田屋の鎮守にあたり、創建時期は不明であるが内陣に寛文八年(1668)の宗源宣旨が現存しており、江戸期の始めには正一位の神階を授かっていたことが分かる。
また参道の燈篭は文政元年のものが残っており、江戸期における祭事の盛んなことが見て取れる。御一新により社格は無各社となったが、地域の信仰厚く昇格の申請が認められ、昭和四年には村社となっている。このころに境内社として八幡宮を合祀している。
秋の大祭においては「三田原の簓獅子舞」が奉納される。「三田原」とは三ツ木、田向、柏原の各字名を総称したもので、各字によって継承されるという。地元には「獅子由来記」が残っていて、元禄年間に雨宮武休という者によって再興したものだという。かつては十三日を「着揃い」と言って舞を仕上げ、十四日に合祀された八幡神社に奉納したという。
氏子区域は川田谷村の内、前領家、狐塚、三ツ木、田向、柏原の五字であるが、柏原の中でも若宮と呼ばれる地区は陸軍飛行学校跡地に戦後住み着いた人々の集落であったため氏子に入らなかったが、昭和六三年頃に集会所の建設した際に氏子の仲間に入ったという。また当社の北西に喜倉庵という御堂があり、昭和二十年代までこのお堂に獅子舞の道具一式が納められていたという。またこの堂の下に住む天沼秀太朗家は「鑰元(かぎもと)」と呼ばれ明治初年まで大宮氷川神社の祭事の際鍵を以て出向く役を担っていたという。
現在では中山道からそれ荒川沿線の少し不便な交通の地の様に感じられるが、かつては川越へと抜ける重要な場所であったという。この地を納めた河田谷氏は中世にその勢力を伸ばしている。
ところで越後上杉氏に従属し、羽生城を居城とした木戸範実は北条家に対抗する勢力として武蔵国の上杉氏の拠点となった。その範実には二人の息子がいて、一人は次の羽生城城主広田直繁。そしてもう一人が弟、木戸忠朝であったという。羽生城の支城として皿尾城主となる木戸忠朝は木戸姓を名乗る前に河越方面の領主、河田谷氏の名跡を継いで河田谷右衛門大夫を名乗っていた。そして再三にわたり忍城主成田長泰を追い詰めている。戦上手で知られる木戸忠朝の最初の名跡がここ川田谷村であったと考えられている。