古来、利根川は羽生市の川俣より南に流れ、加須市に入って川幅を広げた。三俣の地名は「鬼島」「中島」「明智島」の三つの洲がその流れを分けていた場所であったからだという。市内を流れる合の川(旧利根川)は近現代の整備により穏やかな流れを見せるが、かつては乱流であったのであろう、市内の神社の多くががその社殿を高く積んでいるのは、川の氾濫から守るためであったと思われる。
縁起によれば、天平十年(739)当地を行脚していた僧教蔵上人が三俣の船人より、鬼島に怪物が蔓延り、衆人を悩ますという話を聞きつけ、一人で島に渡り七日七夜念仏を唱えたという。すると夜中に一人の女が現れて教蔵上人に十念を乞い、上人が十念を授けるとたちまち百丈の白竜に姿を変え、消えてなくなったという。
そこで白竜の首のあったところに龍蔵寺を建て雌の銀杏を植えた。また白竜の尾の止まったところには下諏訪社(弁財天)を勧請し、雄の銀杏を植えたという。
時代は下って正徳四年(1715)大岡土佐守政春が信州諏訪から改めて諏訪社を勧請し、下社に神像を奉納した。明治になって村社となり別当を兼ねていた高徳寺は廃寺となったという。
会の川の流れが幾度となく氾濫した当地においては治水に時間と経費をかけその守として「お諏訪様」を祀り土地の開拓に当たったという。中でも旗本であった大岡家は武神としても諏訪神社を深く崇敬した。
化政期まで三俣村であったが幕末に上三俣、下三俣の二村に分かれた。
鎮座地が市街地に近く、昭和になって人口の増加と共に氏神としての信仰の高まりから、祭事の広がりを見せ、増える氏子のために壮健な神輿が奉納されている。
また平成に入ると市街地にふさわしい立派な社務所も建設され、三俣、諏訪の中心地として境内地、社殿とも整備されている。