皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

旧吹上町 下忍愛宕神社

2022-09-06 22:24:47 | 神社と歴史

下忍村は忍城下忍口の南にあり、忍城に対して下と唱える家臣団の住居地であったという。古くは下忍村は上分、下分に分かれ昭和三十一年に上分が行田市に、下分が吹上町に編入されている。
古墳時代後期に築かれた「愛宕山古墳」の上に鎮まる当社は江戸期には隣接する真言宗千手院が納める寺持ちであったという。

愛宕神社に残る三枚の棟札のうち最も古い延宝元年(1679)のものには「施主島崎新五右衛門」と記されていて、この島崎家が当方の近くに居を構える旧家で、鉢形城の落人としてこの地に土着し開墾を行ったと伝えられており、愛宕神社の勧請に深くかかわったとされている。

当社の重要な行事に泥持祭がある
早朝から境内に氏子が参集し畚(もっこ)で田んぼの泥を古墳に担ぎ上げて補修を行うものだという。口伝によれば三月二十四日が忍城の堀浚いの日であって、その労役を逃れるために同じ日に泥持祭りを行うようになったという。また泥持の日には氏子が重箱で持ち寄った料理を肴に宴会を開きまさしく無礼講であったという。

平成元年上越新幹線整備に伴い、古墳の側面をコンクリートで固めたためこうした力仕事はなくなり、その後氏子が集まった折には境内清掃や木々の枝おろしといった作業を奉仕している。
労役を逃れようとするのは時代が変わっても同じことで、非常に理由付けが興味深い。
愛宕山古墳から見下ろす緑の景観は令和の現在でも変わることがなかった。


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大芦 氷川神社(旧吹上町)

2022-09-06 21:15:26 | 神社と歴史

旧吹上町大芦は元荒川と荒川に挟まれた低地で集落自体は旧川道の自然堤防の上にある。かつて当地の南西には大芦河岸があり、日光脇街道の渡船場としても栄えた。
村の開発は年代は明らかではないが、慶長十二年(1607)の「足立郡箕田内大芦村御検知帳」が残る。

当社は大芦村の鎮守として祀られて来た社で「風土記稿」には「氷川社、医王寺持ち」と記される。江戸期に別当だった医王寺は真言宗の寺院で開山は賢秀。二世の秀英が貞享三年(1686)に没した記録が残っている。明治六年に村社となり区内の各社を合祀(稲荷社、雷電社、八坂社、神明社等)
社蔵の算額が鴻巣市の指定文化財となっている。嘉永三年(1850)関流の小林要吉郎勝栄が奉納したもので、一門は広く大芦、吹上、明用、箕輪など付近の各村にわたり、和算の上達祈願をこめたものとして知られる。和算とは明治以降産業科学と結びつくことがなく西洋算術にとって代わられているが、江戸期においては非常に高度な算術として日本独自の発展を遂げている。

現在境内地には大芦集会場が建てられ、氏子の行事に活用される。祭りは元旦祭、祈年祭、お獅子様、夏祭り、秋祭りがある。お獅子様は地区の年番が参列する。かつては舞の後村境にお札も立てた。また夏祭りには神楽も奉納したというが、現在については不明である。

近くを流れる荒川沿いにはコスモス会館ができていて、野球場など多くの施設が活用されている。大芦橋は東松山と行田鴻巣を結ぶ幹線道路となっていて朝夕の通勤またトラック等の運送車両の多くが通る界隈である。日光脇街道の面影を残しながら今なお多くの田んぼも残っている。
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