下忍村は忍城下忍口の南にあり、忍城に対して下と唱える家臣団の住居地であったという。古くは下忍村は上分、下分に分かれ昭和三十一年に上分が行田市に、下分が吹上町に編入されている。
古墳時代後期に築かれた「愛宕山古墳」の上に鎮まる当社は江戸期には隣接する真言宗千手院が納める寺持ちであったという。
愛宕神社に残る三枚の棟札のうち最も古い延宝元年(1679)のものには「施主島崎新五右衛門」と記されていて、この島崎家が当方の近くに居を構える旧家で、鉢形城の落人としてこの地に土着し開墾を行ったと伝えられており、愛宕神社の勧請に深くかかわったとされている。
当社の重要な行事に泥持祭がある
早朝から境内に氏子が参集し畚(もっこ)で田んぼの泥を古墳に担ぎ上げて補修を行うものだという。口伝によれば三月二十四日が忍城の堀浚いの日であって、その労役を逃れるために同じ日に泥持祭りを行うようになったという。また泥持の日には氏子が重箱で持ち寄った料理を肴に宴会を開きまさしく無礼講であったという。
平成元年上越新幹線整備に伴い、古墳の側面をコンクリートで固めたためこうした力仕事はなくなり、その後氏子が集まった折には境内清掃や木々の枝おろしといった作業を奉仕している。
労役を逃れようとするのは時代が変わっても同じことで、非常に理由付けが興味深い。
愛宕山古墳から見下ろす緑の景観は令和の現在でも変わることがなかった。